第一章~⑦
しかし真理亜が怯むことはなかった。事前に二人の調査を行っており、弥之助から揉めるかもしれないとは告げられていたので、それなりに覚悟していたからだ。
そこで念の為にと同席させていたPA社の顧問弁護士を従え、弥之助と交わした遺産整理に関する委任契約書を見せ、彼が生前申請し法務局の自筆証書遺言保管制度を利用している旨の説明を行った。それから事前に入手していた、遺言書の内容が確認できる遺言書情報証明書の写しを見せたところ、彼らは目を丸くしていた。
そこには二人に遺留分が無く、彼らが受け取れる遺産は一円も無いとはっきり記載されていたので理解せざるを得なかったのだろう。分かりやすいほどに肩を落としていた。といっても生前の弥之助と彼らはほぼ絶縁状態だった為、当然の結果ではあったのだ。
それでも彼らは多少期待していたらしい。最後の抵抗を見せ、立ち話では納得しきれないから、落ち着いて話が出来る場での説明を求めてきた。そこで指定されたのがこの部屋だ。
確かに自筆証明遺言保管制度自体、まだそれ程世間に馴染みが薄い。またこの制度は公正証書で残す遺言と異なり、開示する際の家庭裁判所の検認手続きを必要とせず簡易な分、遺言書の原本を手にして見られない為、本当に正しいものなのか分かり難くかった。
また身内への相続をせず第三者に全額遺贈すると記載した点だけでなく、調査した限りでは無かった債権がもし後日明らかになっても放棄するとの文言を加えるなど、確かに珍しい内容ではあった。
それでも弁護士等専門家を交え、時間をかけて本人が作成した遺言書であり財産目録だ。また彼らには遺留分の請求権がないので異議申し立てもできない。やるとすれば、遺言書や目録自体に正当性がないと訴える事位だろう。
しかし要望通りこの部屋で真理亜が再度説明を行った結果、まず勝ち目がなく裁判費用を無駄にするだけだと彼らは理解し、比較的素直に引き下がってくれたのだ。
それより二人の言い合いによる喧嘩の仲裁の方が厄介だった。
「直子はどうしてそんなに金が欲しかったんだ。下の子は去年大学に入って一人暮らしを始めたよな。専業主婦で子供達も手が離れただろう。都銀に勤める旦那は役員だから、給料も十分すぎる程貰っているんじゃないのか」
「兄さんこそ高給取りのくせに。しかも一人身じゃないの。疎遠になっていた叔父さんの遺産を貰おうだなんて図々しい」
「図々しいのはどっちだ。叔父さんと最後に会ったのはいつだか覚えているのか。結婚式にすら来ていなかっただろう。お前のところの一番上の息子は、今年大学を卒業して社会人になったんだっけ。だったらもう二十数年は経っているんじゃないのか」
「余計なお世話よ。そう言う兄さんの結婚式にだって来なかったじゃない。しかも離婚なんかしちゃってさ。奥さんが連れて行った子供の養育費は払い終わっているんでしょ。だったら給与は全部自由に使えるんだし、悠々自適の独身貴族が何を欲張っているの」
「馬鹿を言うんじゃない。別に俺は叔父さんが残した遺言がどういうものか、知っておきたかっただけだ。お前こそ三郷さんを愛人だとまで疑い、難癖をつけていたじゃないか。厚かましいのもいい加減にしろ。高岳家の名に傷がつくぞ。全く恥ずかしい女だよ」
「何よ。兄さんこそいい年をして、女遊びに明け暮れているんじゃないの。もしかして貢いでいる子がいたりして」
「ふざけるな。お前こそ旦那に隠れて男でも作っているんじゃないのか。それで遊ぶ金が必要だったんだろう」
「そんなはずがないでしょう」
真理亜と同い年の彼女が久弥に掴みかかろうとしていた為、慌てて止めたりした。
事前の調査報告書でも把握していたが、彼が言ったように彼女の家庭が経済的に困っている様子は確認できていない。
敢えて不安材料の情報にあげるとすれば、夫婦仲が余りいいとは言えない様子だった点くらいだろう。また三つ年上の五十四歳になる彼も同じだ。十数年前に離婚し決して安くない養育費を払っていたが、今は直子が言った通りで十分な給与を得てもいる為、一人暮らしを満喫していると聞いていた。
ただ詳細は不明だが、女の影がちらついているとも耳にしていた為、彼女の指摘はあながち間違っていないのかもしれない。
彼らの父親で弥之助の兄の名は
また恐らく彼らの祖父がそうで、かなり教育熱心だったと思われる。だからなのか弥之助兄弟は共に高学歴で、兄は都銀に勤め弟は一代で財を成す資産家になれたのだろう。
直子もまた偏差値の高い大学を卒業し、高学歴高収入の伴侶と結婚しており、久弥も東大を卒業した後某一流商社に勤務している。その上彼らの父の弥太郎は五年前に事故死している為、その賠償金や保険金などを含めた遺産を二人は受け取ったと聞く。
彼らの母親はその少し前に病死したようだ。その為弥之助ほどではないにしても、ある程度の財を築いていただろう父親の死により、決して少なくない額の金を手にしたのは間違いない。よって性格はともかく、経済的に困る家庭とは無縁の恵まれた暮らしを、それぞれがしていた。
だからこそ弥之助は甥や姪に遺産を渡す必要がないと判断、またはその気もなかったのだろう。さらに亡くなった兄とは性格が合わず、若い頃から揉め疎遠になっていた事情も関係していたようだ。
祖父や父親などと同じく地位や財産、時には名誉も得られる為、一流企業で働ける立場で努力することが最も重要だ、という考えに弥之助は強く反発していたという。
その為大学卒業後は自らの商才を信じ、会社を一から立ち上げ拡大してきたのだろう。その間会社が潰れるなど損失を産み、失敗や挫折をした際、それ見たことかと父や兄になじられたらしい。
しかしその度に立ち直り、別の会社で大成功を収めるなど起伏の激しい人生を過ごし、結局サラリーマンの父や兄ではまずなれないレベルの、超富裕層に分類されるほどの資産を形成した。
とはいえ仕事一筋で激しい競争に身を置いていたからだろうか。生涯独身を貫き、親しい友人など特に作らない孤独ともいえる人生だったと思われる。調査書や本人から聞いた話で、そうした点は把握していた。結果、莫大な財産は身内に残さず、弥之助の理念に合った社会貢献をしている団体等にほぼ全額寄付すると判断したのだ。
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