第一章~⑤

 こうした状況で良く起きるのは担当者の不祥事である。実際これまでもそうした事例はいくつか起こっていた。目の前で使い切るには一生かかる程の大金を目にすれば、少しばかり掠め取って構わないだろう、といった誘惑にかられるのも無理はない。だからこそPB担当者は強固な自制心と高い法令順守の精神を持ち、顧客との絶対的な信頼関係を結ぶことが必須なのだ。

 再就職でPA社に入社して十年以上、好成績を収め続けてきた真理亜は、今の仕事が天職だと思っている。よって当然顧客の資産の横領を企む訳がなく、そんな誘惑にかられるなど一生無いとの自信があった。けれど他人、特に色眼鏡をかけた者から見れば、何の裏付けや確証もない。それどころかいつ問題を起こさないか、失敗しないかと舌なめずりする奴らが沢山いる。

 そこでまた問題となるのがS県警のごく一部しか知られていない、真理亜の持つ障害だ。その事実が、遺体を持ち込んで指輪やバッグや通帳を置いたのは真理亜でないとの証明を妨げる恐れがあった。

 もちろんそうした特異な体質を信じる者は少数派かもしれない。だが真理亜を良く知る彼らなら言いかねないのだ。今回だけは親し過ぎる点が、かえって裏目に出る可能性を否めなくしていた。

 考えれば考える程、これは一人で解決しなければならない問題だと思い始める。そこで少し休憩し、頭を切り替えようとしたのがいけなかったのだろう。

 というのも障害を誘発した一因である、あの忌まわしい過去が突然フラッシュバックし、意識が飛んでしまったからだ。


 真理亜は阪神淡路大震災と東日本大震災という、近年の日本において凄まじい規模で甚大な被害をもたらした地震を、二度も比較的身近に経験していた。

 元々の出身は、高校まで住んでいたこのS県だ。某有名大学への進学を機に東京で暮らし始めた真理亜が卒業後に入社したのは、大手の損害保険会社である。そこで最初に配属された勤務地が神戸の三宮さんのみや支店だった。

 当時も今も女性では数少ない勤務地を限定しない総合職として入社した為、全国各地のあらゆる場所へ転勤させられる点は覚悟していた。ちなみに同期総合職が約四百名の内、女性はたった三人だ。

 そうして赴任した年、あの震災に遭遇した。社宅として借り上げられた、鉄筋五階建てマンションの四階に住んでいた時である。 

 まだ起きる前の朝方、これまで経験したことのない揺れによって目覚めた時の恐怖は、三十年近く経つ今でも忘れられない。棚は全て倒れ、ブラウン管のテレビが踊るように跳ねた後、台から落ちて画面が割れた。ただただ揺れが収まるまで、ベッドにしがみついていたことを鮮明に覚えている。

 幸いマンション自体は無事だった。おかげで逃げる時に足首を軽く捻った程度の軽傷で済んだ。また被災が激しい地区に最も近かったのに、仕事場の三宮ビルもそれ程被害が無かった。

 そうした立地が考慮されたのだろう。全国各地から地震対応の為に応援が駆け付け、対策本部が立てられた。当然真理亜も担当代理店や顧客対応に追われ、忙しい毎日を過ごしたのである。

 その後ひと段落着き、四年経って地元に近い関東への異動辞令が出た。しかしあれから高いマンションには、恐ろしくて住めなくなった。よって借り上げマンションも、できるだけ低い部屋を探して貰うようになったのだ。後にその時既に障害となる種を持っていたと分かるが、本人を含め周辺の人達もまだ全く異変に気付いていなかった。

 真理亜は二十八歳で一度結婚した。相手は大学時代からの恋人だ。遠距離恋愛を何とか保ち続けた後、関東への異動で彼との距離が再度縮まったことがきっかけになった。

 それが震災の影響もあったかと聞かれれば、否定できない。死ぬかもしれないと思う程の揺れを一人でいた時に感じたからか、このままではいけないとの意識が働き、誰かと一緒に居たい気持ちが強くなっていたのだろう。

 結果、結婚へと向かわせる後押しになったが、二人の関係は五年で破綻した。原因は家庭に対する考え方の相違だ。

 彼は基本的に転勤のない、東京のマスコミ関係の会社勤務で、収入はそれなりにあった。だがまだ仕事を続けたかった真理亜の意向もあり、共働きをしていた。けれども結婚前、将来の人生設計に向けた話し合いを曖昧にしていたのがいけなかったのだろう。子供が欲しい夫と、それほど焦っていなかった真理亜との思いがすれ違いだしたのだ。

 それでも長く話し合い、産もうと結論付けた。すると真理亜は医者の診断で妊娠しにくい体質だと判り、彼の両親達の説得もあって不妊治療を始めたのである。しかしなかなか成功せず徐々にそれが苦痛となり、結局三十三歳で離婚したのだ。 

 また不幸は続いた。真理亜はその後成績至上主義である会社に嫌気が差し上司と衝突し始め、顧客や取引先である代理店との板挟みにも合い、精神的に病んでしまったのだ。

 やがて入社十四年目の三十六歳の冬、うつ病に罹り会社を休まざるを得ないほど追い込まれ、三年半の休職期間を経て復職を果たせず退職した。

 真理亜は以前から生きる指標を持っていた。それは他人に害を与えないことを大前提とし、たった一人でも幸福もしくは不幸でないと感じさせられれば、人として存在する意義があるという考えだ。

 しかしこの頃はそれが果たせなかった為、自分は何者にもなれないと相当落ち込んだ。

 世の中には歌や芸術、小説やスポーツ等で、多くの人の心を揺さぶり感動させ、喜びを与える人がいる。けれどそんな真似が出来るのは、ほんの一握りの選ばれし者達だ。ほとんどの凡人達は、単に社会を動かす歯車の一つにしか過ぎない。

 それでも世界中の人が自分も含め、あと一人だけ人生を楽しく過ごせると思わせられれば、戦争など起こらず平和に暮らしていける。例え自分に夢が無くとも、目標を持って頑張る人を支えるだけでいい。それで自身や相手が幸せと感じられれば十分なのだ。

 そう信じて幼い頃から一生懸命勉強し、有名大学に入り一流と呼ばれる会社へ就職した。社会人としての役割を果たせば、少なからず世の中に貢献できると思っていたからでもある。

 社会の歯車でも、個性を出し出来るだけ差別化を図り、自分らしさを発揮できる歯車になろうと将来像を思い描いた。さらに結婚し、自分以外の人を支え共に満足のいく人生を送れれば、長年の望みは叶うと考えていた。

 しかしそうはならなかった。幸せにするどころか自らを含め相手を傷つけ、周りの人々にも不快な思いをさせたのだ。その上働けないのなら、社会人の役割さえ果たせないと嘆いた。そうした心理がうつ病を発症させ、症状を長引かせたのだろう。

 この頃ほど、体が資本だと痛感したことはない。どれだけ優秀なミュージシャンやアーティスト、アスリートや起業家であっても、怪我や病気になれば力は発揮できないのだ。それは凡人である自分も同じだった。

 それでも人は生きなければならない。その為休職中は、まず体調管理と健康回復を最優先にした。最初の一年間は倦怠感や頭痛が酷く、一日中寝込んでいた日が週に三、四日あった。そこから徐々に、起きている時間を増やすよう努めた。

 しかし体調が良く週に三、四日は日中眠らずに済んだかと思えば、体が重くなり寝込む日々が続くという生活を繰り返していた。それが二年目から三年目の後半まで続いた。

 起きていられる時は、精神を落ち着かせながら集中力を持続させる為、パソコンを開いて元々所持していたPBやファイナンシャルプランナーの資格にまつわる勉強をコツコツと続けた。疲れたと感じたら、無理せず休憩するようにもした。そんな暮らしを四年ほど過ごしていたのである。

 その結果、保険会社への復職は叶わなかったが、四十一歳の時に顧客第一主義をうたっていた今のPA社へ再就職を果たせた。しかも年収まで大幅に増加させられたのは幸いだった。

 この頃のモチベーションは、何者でもない自分からの脱却だった。身近な人を幸せにできなかった分、僅かな数でもできるだけ自分が担当する顧客の満足度を高める為、身を砕くよう心掛けたのだ。

 加えて自身の精神安定にもかなりの注意を払ってきた。結果日常生活を取り戻すだけでなく、ハードな仕事をこなす為に生じたのが、今でも時折現れる障害らしい。

 それが初めて表面化したのは、うつ病で休職している時に経験した東日本大震災の時だ。

 当時は関東にある借り上げ社宅の、しっかりした耐震構造のビルの三階にいた。午後の二時半過ぎだったが、体調が優れず昼寝をしていた。

 激しい揺れを感じ慌てて跳ね起きたけれど、怪我など全くせずに済み、室内の物で壊れたものも無く被害に合わなかった。しかしかつて味わった恐怖が身に染みていたのだろう。揺れや音などを感じやすくなっていたらしい。その日の二十三時半過ぎ、寝室のベッドに横たわったものの、何となく揺れている感覚が長い間抜けず、朝まで寝られなかったのだ。

 その上地震が起こる前の、ゴゴゴッという響きを聞いた記憶が過去の経験と相まって蘇ったからだろう。余震だけでなく、ちょっとしたノイズにも違和感を覚える体質に変化していたのである。 

 その後再就職を決めた後、ようやく自分の障害に気付いた。心身のバランスを取り、かつ震災などを含めた過去の辛い思い出といった様々なストレスから己を守るには必要だったのだろう。かかりつけの精神科医の診断により、そう告げられていた。

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