第四章 「独立」 第三話 


「ママ、見て!ボクシングしてるパパの写真。ユニフォームも飾ってある!」

「凄いね、章二!パパ、大スターになったみたい…」

 会場内を連れ回される朱音さんは、祭壇脇一面に飾られたデザインパネルと大型スクリーンに投影された章兄の面影を回覧する。

「とっても素敵。生花祭壇も凄く綺麗。澤君、モモちゃん、ありがとう。」

 目に雫を溜めて、自分と一ノ瀬に握手を求めた。

 章兄は青が好きだった。「幸せをふりまく」デルフィニウムと、「夢叶う」ブルーローズが鮮やかな青の正義を表現する。

 会場内の飾りに大満足したようでホッと安心する。何十枚とゴミになった紙と腱鞘炎になりかけた指が報われた気がした。


「お母さん!パパのこと忘れたら駄目でしょう。」

 しっかり者の華南ちゃんが、骨壺を抱える母親を注意する。

「あ、ごめん、ごめん。」

 まず大袋から取り出した位牌と、二年前の火葬式で作成した額入りの遺影写真を華南ちゃんから受取り、祭壇へ供える。

「継章、澤君よ。今日はよろしくなって挨拶して。」

 白手袋をした手で骨箱を丁重に預かる。

 章兄に触れたのは何時ぶりだろうか。事件の日、面会に行った日も触れてはいない。あ、そうだ。確か最後に行った護身術訓練以来だ。模擬ナイフを握った暴漢役の章兄が何度も襲って来て大変だった。

 あれだけ逞しかった人が、掌で支えられる軽さになってしまった。

 寂しさを抱えながら手を伸ばして、骨箱を供えて祭壇が完成する。


 お手洗いに行かれていたご両親が、入り口近くのパネルの前で立ち止まる。お父様は腰を目一杯に折り曲げて、右ストレートを放つ息子の雄姿をまじまじと見つめ、お母様はハンカチを離すことなく、しめやかに涙を流す。

 親ではない自分には到底分からない、子供に先立たれた悲しみ。かける言葉は存在しないが、体を支えることは出来る。お父様の背中を支え、式場を周った遺族を控室へ案内する。


 久しぶりに会ったのか、ご両親は華南ちゃんと章二君に嬉しそうに話しかける。孫の存在は偉大だ。控室を走り回る章二君が、大人には作れない「笑顔が引き出される空気」を振り撒いている。


 正午前。スカーフを巻いた三人の女性が来場する。

 主に参会者の接遇と焼香案内をするセレモニーレディーだ。彼女たちは経験値と実力でランク分けされており、今日はSランクのベテラン吉永さん、Cランクの若い馬場さんと岡田さんが派遣された。三人は司会台付近に集合すると、机の下に荷物を置いて、揃って深いお辞儀をする。

 

 「吉永です。今日はよろしくお願い致します。」

 料亭の女将クラスのお淑やかさに驚く。一ノ瀬の事前情報によると、吉永さんは都内の葬儀社から引っ張りだこの人気レディーで、司会もプロ並みの腕前。著名人の葬儀で良く見かける、業界内ではかなりの有名人らしい。


 「馬場です。」「お、おかだです。」

 Cランクを侮るなかれ。馬場さんは家族葬で何度かお会いしたことがある。ハキハキと応対が印象的で、現場経験も豊富だ。開式前には専用の刷毛を使って焼香炉の白い灰を綺麗に整えてくれるし、宗教者や遺族の案内も柔らかい。岡田さんは初対面。体調が悪いのか表情が硬い。

 「申し訳ございません。岡田は大型葬が初めてでして。但し、私がしっかりと統括しますので安心して下さい。」

 吉永さんの神速フォローが素晴らしい。そんなこと気にしないで欲しい。何なら一ノ瀬と自分だって大型葬は初めてだ。


 受付と会計を手伝ってくれるお手伝いの方々が間もなく来場するため、一ノ瀬を呼んでスタッフMTGを行う。

「今日は美人に囲まれて、澤さんは幸せ者ですね。」

「ああ、最高に幸せ者だよ。」

 全員に式次第、スタッフシートそして無線機を配り、役割分担と注意事項を伝える。それぞれが必要と判断した内容を素早くメモに取る。


「恐れ入ります。弔辞をされる方の中に澤さんのお名前があるのですが。」

 さすが吉永さんだ。神速で異変に気付く。高姐といい勝負をするかもしれない。

「はい。実は故人は前職の上司で、大変お世話になった大切な方なのです。」

「そうでしたか。担当者が弔辞をされる葬儀は初めてです。より澤さんのご負担を軽減出来ますよう、馬場、岡田とサポートさせて頂きます。岡田さん、著名な方々がご参会されるからといって、浮つかないように注意してくださいね。」

 さすが吉永さんだ。さっきから口角の上がっていた岡田さんに気付いていた。「は、はい!」

 岡田さんは背筋を伸ばして返事をした。


 MTG終了から数分後、十人の女性が来場。子供達が通う小学校のママ友が受付と会計のお手伝いに来たのだ。まずは配置について頂く前に、式場内で線香の案内をする。一ノ瀬に声をかけられた朱音さんが控室から姿を現すと、それぞれのママ友と抱き合う。


「今日は来てくれてありがとう!ねえ、見てよ!飾りつけが素敵でしょう?」

 ツアーガイドさながらに会場内を案内し、「すごーい」「こんな華やかなお葬式は初めて!」「私が死んだ時もこんな風にして欲しいな」と評価は上々だ。

 準備の苦労が報われていく。自分はあくまで企画者だが、生花業者や衛藤さんの制作物が褒められると自分事のように嬉しくなる。葬儀担当者冥利に尽きる瞬間だ。


 その後、配置に戻ったママ友に受付と会計の手順を説明する。

「大変ご愁傷様です。と言われたら、何て返事をすればいいですか?」

「お心遣い、誠に恐れ入ります。で大丈夫ですよ。」

 葬儀に慣れている人はそう多くはない。記帳カードの書き方や会計をするための番号の振り方などをゆっくりと説明する。特に引換券の枚数は重要だ。閉会後に枚数分の返礼品を渡すことになっているが、頂いた香典が連名や団体の場合に何枚渡す必要があるのか注意する必要がある。既に朱音さんとの打ち合わせで、連名は記載の人数分。団体は一枚の券を渡し、必要な場合は後日別でお返しをすることになっている。


 開会が近付くと、両家の親族を始め、学生時代の友人やボクサー仲間が来場し、受付周りが忙しくなる。三人のレディーがサポートに入り導線を作り混雑を防止。

 一度席へ案内されると、開会まで控室で休む者、場内を観覧した後は座席で静かに座る者、そして朱音さんやご両親と談笑する者に別れる。


 午後十二時半、開会の三十分前。

 K's プロテクションの真鍋社長、警護部の部長、高姐、マッチが来場する。

「久しぶりだな、澤。まさか葬儀社に転職して西岡の葬儀を担当するなんて驚いたよ。とにかく無事に生きていて、元気そうで良かったよ。」

 事件後も真鍋社長はずっと自分のことを気にかけてくれた。休職してでも復帰を待ち望んでくれた義人だ。

「ご無沙汰しております。ご心配をかけ続け、それに期待に応えれずに申し訳ございませんでした。」

「気にするな。澤の人生だ。戻りたくなったら声をかけてくれればいいし、二度と戻らなかったらその道で幸せになってくれたらそれでいい。」

 こんなにも寛大な上司から一度も話すことなく逃げた。数分でも会えば感じられていたはずの温かさを拒否してしまった。しかし予想できていたことだ。逃げた分だけの罪悪感を受け止めて、選んだ道を進むしかない。


「継続は力なりね。無線機付けて、それなりに様になっているじゃない。こんなに早くまた会うことになるとは思ってもみなかったけれど。」

「今日は社長秘書ですか?」

「馬鹿。章兄に会いに来たに決まっているじゃない。」

 黒いワンピースを着た高姐を始めて見た。女性度が増して妙に落ち着かない。


「現場以外でお前に会うことになるとはな。安心しろ、二時間前から会場の周辺を警戒してみたが、オールクリフ。イブもタカコもなしだ。」

「そんなに早くから来ていたのですか…調査、ありがとうございます。」

 受付を済ませたマッチは、見慣れない導師用具をまじまじと見ている。一般人とはズレる着眼点が顕著で、端から見れば不審者でしかない。


 そして高級車が駐車場を埋めていく。章兄が警護を担当した名のある著名人や企業の重役が来場する。レディーの吉永さんが来賓者の胸に白いリボンを付け、他の二名に無線を飛ばし、座席の指示する。

 とんでもない記憶力だ。さっき配った座席表をほぼ完璧に把握している。一つのSでは足りない。三つでも遜色ないSSS級の怪物だ。


 十二時四十五分。

 ほぼ席が埋まりかけるが、手配した導師が来ていない。

 西岡家には菩提寺はなく、寺院手配会社に依頼し浄土真宗本願寺派の「延光寺」から住職が派遣されることになっている。

 自家用車で来ると聞いているが、渋滞にでも巻込まれたのだろうか?

 司会の準備をする一ノ瀬を目視しながら、入り口付近でソワソワしながら導師を待つ。もう開式の十分前だ。遅れるなら連絡の一つくらい入れるべきだと焦る。 


 するとようやく飾り気のない一台の軽自動車から、焦る様子もなく住職が姿を現した。直ぐに駆け寄って、手荷物を預かろうと手を差し伸べる。

「あなたが葬儀担当者か?」

「は、はい。想別社の澤です。」

「そうか。」

 住職は荷物を持ったまま会場へ直進すると、祭壇へ向かって一礼し、一言も述べずに導師控室へ移動する。何か思うことがあったのか、表情が険しい。


「読経は40分でまとめる。焼香は好きなタイミングで始めてくれていい。私は読経を終えたら直ぐに失礼する。今晩は檀家の通夜があって忙しいのだ。」

 お父様が地元の住職にお願いし、法名は頂いている。本来はその住職に読経をお願いしたかったが、高齢で遠方のために呼ぶことが出来なかったそうだ。

 この導師はあくまで手配導師で読経をするだけの立場だが、まるで菩提寺のような大きな態度をとって話しかけてくる。


「人の死はお祭りか?」

「どういう意味ですか?」

「あの祭壇周りの飾りつけと、色とりどりの生花は何だ?」

「ご参会の皆様に故人との思い出を振り返っていただくための写真や思い出の品を飾らせていただきました。色鮮やかな生花は、人一倍に明るかった故人の人柄を表現しております。」

「葬儀は祝いではない。」

 

 思わぬ難所が待っていた。長話は出来ない。開会まで時間がない。


「いいか?浄土真宗本願寺の葬儀は、故人への供養のためではなく、阿弥陀如来に感謝の意を表すためのものだ。故人は即身成仏。既に仏になられている。あなたはそれを分かっているのか?」

 住職は上着を脱ぎ、読経の準備をしながら話をする。


「正直に分かっているようで、分かっていないのかもしれません。しかし、二年以上の歳月が過ぎた今、突然故人を失ったご遺族やご参会の皆様には、会を通じて故人の姿を目に焼き付けて、故人の死と向き合う時間が必要だと思うのです。故人は仏様になられているのだと思います。しかし遺された方々は、故人とのお別れが出来ずに苦しんでこられました。救って差し上げたい。私も私を救いたい。そこは譲れません。」


「まさか、勤行中にスクリーンで映像も流すつもりか?」

「住職の読経を聞きながら、故人のスライドショーを皆様に見て頂きたいと強く願っています。」

「流したら帰ると言っても、譲らぬか?」

「流していいと言って頂けるまで、開会を延ばします。」

 覚悟を決めて無線機のボタンを押しかける。


「ふん。相当な頑固者だな。最近、こういう派手な演出をしたがる葬儀社が増えて頭が痛い。仏教元来の意義を軽視して、目に見えるものばかりに拘る。」

「申し訳ございません。」

「私の意志が固ければ、あなたの意志も相当固いようだ。大体こう言われると引いてしまう腑抜けが多いのだが。まあ、いい。好きにしなさい。私は、私の出来るだけの読経をする。それだけだ。」

「ありがとうございます。」


 導師控室を出て、急いで司会台に向かう。

「澤さん。大丈夫ですか?開会まで三分切っていますよ。私、五分前のアナウンス入れておきましたから。」

 一ノ瀬とレディーのおかげで参会者は全て席に案内され、開会の知らせを静かに待っている。席を見渡すと、栞とガチムチも無事に着席をしている。

「助かったよ。ありがとう。」

 住職と交わした会話内容をそのまま無線で発信し、心を落ち着かせる。

 ついに章兄のお別れの会が始まる。

            

                 ※


 午後一時。定刻。

「ご案内申し上げます。ただいまより、故西岡継章様のお別れの会を開会致します。導師ご入場でございます。ご参会の皆様、ご着席をされたまま合掌をもちましてお迎えください。」

 マイク越しに一ノ瀬声が響く。

 レディーの吉永さんが住職を誘導する。住職が曲録に座ろうとすると、美しい所作でそれをを引き、一瞬の狂いもなく押して住職が着席をする。


「この度、お勤めいただきますのは、浄土真宗本願寺派、延光寺ご住職でございます。よろしくお願い申し上げます。」

 スクリーンに流れるスライドショーを引き立たせるため、一部の電気を消灯した薄暗い場内で住職は読経を始めた。


 開会して五分後、喪主から焼香を始める。

 朱音さんは華南ちゃんと章二君にそっと声をかけ、三人で焼香台へと進む。二年を超える歳月のせいか、三人は強くなったのかもしれない。緊張しながらも凛々しい表情で参会者へ一礼し、揃って遺影に振り返り焼香をした。続いて章兄の両親と両家の親族の順に焼香が進む。吉永さんが二人の後輩とアイコンタクトで連携を取り、焼香台の前に綺麗な列を作り、五人ずつ、スムーズに焼香案内をする。


「続いて、ご来賓、ご一般の皆様方に焼香を賜ります。」

 多忙な方々が多く、招待状を出した全ての来賓者の参加は程遠かったが、名だたる企業の重役、俳優やストーカーに悩んでいた女性タレント、何億もする邸宅警護を依頼していた芸能人が焼香をする。章兄が命を懸けて護り、信頼関係を築いてきた「証」が、つまんだ抹香を額の前に捧げ、香炉に優しく振り撒く。

 火種を得た鉱炭が力を増し、幾つもの煙が天に昇っていく。


 続いて一般参会者の焼香が始まる。

 一際涙を流し、やっとの思いで焼香台へ歩く女性がいる。新人レディーの岡田が両手で体を支える。

 彼女は髙橋愛子。四年前に自宅から病院へ身柄を移送した女性だ。

 岩手県に住む両親が娘と何年も連絡が取れず、母親が東京にある彼女のマンションへ行っても居留守を使って一向に出てこないため、Ksプロテクションへ調査依頼が来た。数日間に渡り彼女の素行調査を実施。撮影した映像を医師に見せると、統合失調症と診断された。両親立ち合いの元、彼女の住むマンションへ向かった。


「愛子さん、いらっしゃいますか?私は西岡と言います。ご両親のお友達です。ドアを開けて下さいますか?少しお話しましょう。」

 事前の調査から彼女が家にいることは分かっていたが、やはり一向に応答がない。

「入りますよ。」心苦しいが、持参していたバールでドアを破壊した。

「何ですか急に。強盗!誰か助けてー。」


 部屋一面には紙に書かれた解読不明な呪文が貼られ、至る処に置かれたガラスの器には彼女の爪が幾つも供えられていた。

 両親に声をかけてもらったが、受け答えしない彼女を男二人で掴み、車両に乗せて病院へ連れていく。舌を噛み切らないように口に当て物を詰め込まれた彼女の悶え顔を今でもはっきり覚えている。


 彼女は元々有名一流大学を卒業した才女だったが、就職活動に躓き、精神のバランスを崩した。母親の仕送りのみで暮らしていたが、メール連絡さえ取れなくなっていた。移送後は病院の治療を受け徐々に回復し、岩手の実家に帰省し両親と生活。今では地元のIT企業に勤めている。帰省した頃合いで、K's プロテクションにお礼の電話をかけたようで、電話で話した西岡さんと意気投合し手紙をやり取りする仲になった。彼女も章兄に人生を救われた一人だ。


 開式して約三十分後、間もなく読経を終えると気付いた吉永さんが、スッと住職の元へ向かい、読経を終えると共に曲録を引く。

「導師、退堂でございます。ご一同様、合掌をもちましてお見送り下さい。」

 住職が退場する。そして出口付近に立つ自分を横切る。

「私の役割は終わったぞ。頑固者。」

「ありがとうございました。」

 住職は馬場さんの案内を受け、直ぐに会場から消え去った。


                ※


 次は衛藤さん力作の映像放映。

 吉永さんと岡田さんが会場を消灯した合図で、一ノ瀬のアナウンスが始まる。

 自分はスクリーンの前にあるプロジェクターの前に移動しセッティングを始める。


「…。西岡継章様の在りし日の姿をお偲び下さい。」

 参会者の視線がスクリーンに注がれ、目印を貼ったテープにつま先を揃えて慎重に再生ボタンを押す。


 映像には威力がある。はっきりと目に見えるから、映し出される故人の面影が無条件で参会者の視覚と感情を動かす。既に骨となり、体の無い章兄とのお別れだからこそ、お別れムービーは必要不可欠だった。

 機器異常か何かで、映像が途中で止まらないかが気になって緊張が止まらない。

 僅か十数分の時間がとても長く感じる。


 そして会場内へ目を移すと、ハンカチでは拭き取れない、無数の涙と鼻水がバスタオルを欲している。

 奥のテーブルに座る栞を見つめる。

 彼女はしばらく映像を見続けていたが、ふと目が合う。

 初めて働く姿を見せるのは恥ずかしいが、彼女の表情はこれまでで一番に穏やかだで、澄んだものだった。


                 ※


 管理人さんにもゴミ収集業者の方々にも謝らなければいけない。

 分別のままならないゴミ袋で部屋が覆われ始めると、人気のない深夜のゴミ置き場だけを往復した。小音量で流し続けるテレビは見るものではなく、社会との疎外を和らげる音でしかない。それでも無差別殺人や幼児虐待などの痛々しい事件の情報が耳に入り、人を護るために生きていた自分が、二足歩行にさえ億劫になっている事実を思い知る。


 明るい時間を「朝」と断定し、頭痛で目が覚める。閉め切ったカーテンが他人との共生を分断してくれる。その時の自分にとって、その安心感が一番の救いだった。

 週末になったら、月末になったら。いや、あと一週間したら会社に何かしらの連絡はしようと考えはするが、携帯を握っても電源は入っておらず、充電する気もない。


 既に五キロ以上は痩せただろうか。ベッドに腰かけることが全ての活動で、疲れ切った心身が重度のカロリー消費をしていると錯覚させる。腕の血管を見て、血色がおかしいのではと錯覚し、このまま廃人となって死ぬのではないかと「終わり」を考える。そして、それでも腹が減る自分に、物凄く腹が立つ。


(麺花)マンション前の道を挟む真向いの中華料理店。

 黄色い屋根看板に、一輪の赤い花が咲いている。血の色にしか見えないが、その時だけは携帯の電源を入れ、出前アプリから麺花のページを開いていた。

 電源を入れると(ブー・ブー)と音を立て、溜まっていたメールが絶え間なく届いたが、しばらくすると通知はほとんど来なくなった。それも一つの救いだった。


 税抜き八百円の半拉麺と中華丼のセット。以前、他の中華料理店に出前を頼んだことがあったが、目の前にあることもあって、陶器の器に盛られた麺花の出来立て料理は熱くて「これでも生きている」ことを知らせてくれるものだった。

 だから、麺花への出前が唯一の日課になった。


(毎度、ありがとうございます。またのご注文、心からお待ちしております)

 連日注文が続くと、手書きのメッセージが付くようになり、店名の近くに丸みを帯びた赤い花のイラストが描かれた。

 そして定型文はそのバリエーションを増して、いつしか感情を宿し始めた。


(当店の人気ナンバーワンは海鮮坦々麺なのですよ。是非ご賞味下さい♪)

(今日はしっとり雨が降っていますが、明日は晴れるようです。ご来店を頂くと割引メニューが沢山ありますよ。ご都合が合えば、ぜひ一度ご来店下さいね。)

(明けましておめでとうございます。年始は何を食べたのですか?私は実家に帰って蜜柑とお餅にお世話になりました)

 返答のない置き配客を相手に、この人は何を伝えたいのだろうか?

 相手がいる久しぶりの接点に、指が動いた。


(毎日温かい夕食を有難うございます)

(食器の引き取り、いつもご苦労様です)

 そろそろ返事をしないと。罪悪感を覚え、手書きの返事を書くようになった。

 そのやり取りが外部との唯一の会話になり、紙で触れ合うごとに拉麺の具材も豪華になった。半熟卵が一つから二つに。叉焼の枚数が二枚から三枚に。半拉麺なのに一端の拉麺に姿を変えていく。


(同じ値段なのに、無理して豪華にして頂かなくて大丈夫です)

 そう書いたメモ紙を食器と一緒に置いていたが、相手の気持ちを害してしまうと思い、違うものと差し替えようと玄関を開けた時だった。


「あ、こんにちは。麺花の者です。」

 想像していなかった若い女性が岡持から出来立ての料理を取り出し、昨晩の食器を片付けようとしていた。しかし、咄嗟に扉を閉めてしまった。

「ご、ごめんなさい。今日の分、置いておきますね。外は寒いですね。温かい内にお召し上がり下さい。」

 情けない落武者のような姿を見せるのが恥かしかった。


「じ、じつは書き間違いをしてしまって。本当はこれを。」

 手だけを外に出して、彼女の手が触れた。

 受け取った彼女はその場で笑った。

「最初は申し訳ございませんばかりだったのに、今はありがとうに変わっています。嬉しいです。だからお気持ちです。断らずに食べて下さい。」

 生まれて初めて一目惚れをした。

「では失礼しますね。」

「あ、あの、お名前は?」

「顔も出さずに(笑)名乗る時は男性から。ですよ。」

「は、はい。澤です。澤光史です。」

「初めまして、澤さん。私は立花栞です。今後とも宜しくお願いしますね。」


 無だった世界に彼女が現れて、四六時中、彼女のことで頭が一杯になった。

 何歳なのだろう、店主の娘だろうか?

 どうしてあんなに綺麗な女性が古びた中華料理屋で働いているのだろう?

 頭がパンクしそうになって、伸びた髪を後ろで束ね、髭を剃った。

 そしていつも出前を頼む頃合いに、たった数メートルの横断歩道を渡って店に向かった。足はふらついたが、視界が広がり、目は見開いた。

 緊張で汗を掻き、カウンター席に座るなり温かいおしぼりで何度も顔を拭った。


「へい、いらっしゃい!何にしましょうか?」

 本場中国の方だろうか。発音が独特だ。勇気を出して厨房を見渡すが、店主の他にいるのは同世代の中年女性だけだ。

「では海鮮担々麺を。」勧められたものを初めて頼んだ。

 調理中、厨房から会話が聞こえてくる。

「おかしいね。七時を過ぎたのに、Bセットさんから注文入らないよ。シオリから今日の分のカードを預かっているのに。」


 Bセットさん。そう呼ばれていたのか。今日、彼女は休みか。それはそうだ。休みなく働いている方がおかしい。残念だけど、休み用にメッセージを用意してくれていたことが嬉しくて、鼻水を垂らしながら海鮮担々麺も食べた。

 そして麺を啜りながら、携帯から追加のBセットを注文した。

 今日のカードが欲しい。彼女のメッセージが見たい。


「良かったあ。Bセットさんから注文入ったよー。」

 厨房の安堵を確認して店を出た。

 確か今日は一月半ば。そうか、二十八歳になっていたんだ。

 何か一歩を踏み出せたような気がして横断歩道を渡った。


 しかし直ぐに酷い体調不良に陥った。

 四肢に激痛が走り、計らずとも高熱に魘されているのが分かる。何とかいつも通りに夕食を注文してテーブルに運んだが、一口も食べられない。翌日は体を起こすことも出来ず、朦朧とする意識の中で午後六時、七時と時間が過ぎていく。

 そして部屋のインターフォンが鳴る。


「こんばんは。麺花の立花です。昨日の容器を引き取りに来ました。」

「澤さん。いらっしゃいますか?昨日の容器を引き取りに伺いました。」

 少しして、彼女が遠ざかっていくと直感した。

 大袈裟にもこれまでの積み重ねが終わってしまうようで、自分でも理解できない喪失感に襲われた。生きたい。まだ終わりたくない。だから、だから。


「助けて下さい!」

「え?」

「お願いです、助けて下さい!」

「え、大丈夫ですか?ドア、開けてもいいですか?」

 彼女は部屋に入ると直ぐに異変に気付き、駆け足でベッドに駆け付けてくれた。

「大丈夫ですか?」額に触れて熱を測る。

 そして直ぐに店に電話をかけて、台所に向かって冷やしタオルを作った。


「食べられないのなら、無理に頼まなくていいですから。」

 箸がつけられていない残飯を片付け、食器を洗ってくれた。

「毎日同じ食事をしたら、栄養が偏りますよ。」

 冷やしタオルを交換してくれた彼女は笑顔で人を心配する人だった。

「早く元気になって下さい。体だけでなくて、心もです。」


 理由なく涙が流れる。

「また元気になったら、次はお店に食べに来て下さい。私のお休みは毎週月曜と金曜日です。」

「はい。」

 また理由なく、彼女に抱きついていた。「ごめんなさい」と「ありがとう」を呪文のように繰り返し、涙で彼女を濡らさないように、目を閉じて泣き続けた。

「今日だけの特別ですよ。まだデートすらしていないのに。」

 栞の匂い。ラベンダーの香水と、ごま油が交じった彼女だけの匂い。


 彼女は初めて弱さを曝け出した自分を、初めて受け入れてくれた人。

 

                ※


 無事に映像を終え、会場に明るさが戻る。

 直ぐに弔電拝読へ移ると思ったが、一ノ瀬は会場の空気を汲み取った。

「次に進ませていただく前に、一分間の黙祷を捧げます。着席をされたまま、故人をお偲び下さい。」

 同僚して感動する。黙祷と銘打った一時の休息を取ったのだ。ハンカチで涙を拭う、目を瞑って心を落ち着かせる、フリスクを食べたっていい。会場の多くが次に進むための「間」が必要だった。

 

 司会台に戻り、自然と呟いていた。

「凄いな、一ノ瀬は。」

「故人は凄い。死して尚、こんなにも多くの方々の感情を揺さぶることが出来てしますのですね。私は凄くないです。私も揺さぶられたから、弔電を噛まずに読むために間が必要なのです。」


 多くの涙が拭われた後、一ノ瀬は分厚く重なった弔電を読み上げた。

 所々で声が震えたように感じた。

 自然と揺さぶられた感情と声は、予期せず出会う澄明な景色と同じだ。

 どんな相手にも無条件に染み込んで、それもまた感情を揺さぶられる。


― 第四章 「独立」 第三話 完

 

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