第四章 「独立」 最終話


 胸ポケットに入れたお守りの所在を確かめる。

 尾張さんの念力か、LINEの同期チャットには一ノ瀬を除く全員からの応援メッセ―ジが届いていて、社用携帯が過去一番に忙しい。

 

 会場の裏口を抜けて、一ノ瀬が用意してくれた第二の間、弔辞の準備時間を過ごす。そして、都会の狭い青空を見上げて目を閉じる。

 幼少時代の親友が捧げた弔辞が終わり、同じボクシングジムで汗を流した盟友の大声がマイクの表面にぶつかり電波の悪いラジオのような声が外へ漏れている。喚きではない。ずっと溜め込んできた心の叫びだ。


 他人に奪われた命に、時の経過は逆らえない。

 特殊な液体で拭いても、尖った爪を立てて齧っても取れない汚れは、それぞれの意識世界に登場しないように上手く放置するしかない。でも、それは極めて難しい。

 忘れかけると「私は淡白な人間だ」と根拠のない罪悪感が襲ってきて、余暇に浸り過ぎると執拗な沼から這い上がれなくなる。


「一緒に強くなろう。」

 一度として納得のいく文章は書けなかったが、お別れ会の本番が迫って来ると、栞が弔辞の練習に付き合ってくれた。


「西岡さんに会ったことが無いのに、私がお呼ばれされて良かったのかな?」

「昔の自分には章兄の存在が必要不可欠だった。自分には栞が必要なんだ。その自分が章兄の葬儀を担当して弔辞をする。だから喪主の朱音さんには栞が必要なんだ。それに葬儀は故人を偲ぶためだけに必要では無くて、残された人々に必要なものでもある。栞にも章兄の存在を知って欲しい。目に刻んで欲しい。」

「嬉しいけれど、プレッシャーを感じるな。まるで遠回しのプロポーズみたいで。」


 人として弱くなったのかもしれない。

 独りが当たり前だったのに、東京に来てから独りが億劫になった。冷徹で淡白が適宜だと思っていた東京。人の優しさや温かさに触れ、いつの間にか「感情の教科書」を与えられ、子供のように夢中になってそれを読んでいる。

 弱くなったのではない。人に頼ることを学んでいるのだと思いたい。


「感じるんだ。今を乗り越えたら、栞のことをもっと愛することが出来る。より人間らしく、どんなことにも前向きになれるって。」

「そう。それはとっても大事なことね。もう私の斜め後ろを歩かなくなるし、席が空いてたら隣に座ってくれる。それに流行りの話にも付き合ってくれる。手を繋いで一緒に未来を歩いていける。」

「そういう訳じゃ…」

「いいの、直ぐにではなくて。少しずつで。」

「うん。必ず乗り越えて見せるよ。」

「約束だからね。さあ、最後にもう一回。光史、西岡さんをしっかり見て、想いを届けるんだよ。」

                

                ※


「こちらブアイ。不愛想、仏頂面の澤光史です。」

 遺影であろうと、いきなり目は直視出来ない。

 日下部部長のアドバイス通りに額を見る。


「章兄、ご無沙汰しております。実は今、葬儀社で働いています。立派な警護員になるために手塩にかけて育ててくれたのに申し訳ございません。でも、そんな自分が章兄のお葬式を担当しているのです。驚きの他ないですよね?」

 後方に座る多くの仲間達は逃げずに、勇敢に警護と向き合い闘い続けている。視線は目を合わせるどころか下方に落ち、目の前のデルフィニウムと見つめ合う。


―退避だ!―

 

「章兄は人には確かに温もりがあることを教えて頂きました。外気より体温が高いから、冬は寒く感じるのですが、章兄に出会ってから寒さに寂しさが混じることがあると気付きました。そんな時は章兄の存在と缶コーヒーが私を温めてくれた。代わって夏は体温並みに外気が暑いのですが、章兄は熱気以上の笑顔と情熱で、熱さに希望が加わることを教えて下さいました。それまで感じたことのない感情が体中に満ちて、新しい世界は新鮮で、表情には出なくても、毎日が本当に楽しかったのです。」


―生きろ!―


「章兄の警護は美しかった。力みや緊張が一切ない、滑らかな動き。どんな警護対象者とも強い信頼関係を築き、誰からも慕われた。何か嬉しいことがあると、直ぐにハグしてきてそれはどうかと思ったけれど、底抜けの笑顔が眩し過ぎて、私のテリトリーは無くなった。警護の技術だけでなく、人間としての生き方を伝えて下さった。そんな感謝すべき人だから、早く腕を磨いて一人前になりたい。一人前の警護員として認めてもらいたい。一歩でも近づいて、いつか「俺を超えたじゃないか」と言って頂くのが大きな目標でした。」


―あとは頼んだぞ。光史!!―

 

 章兄の声が聞こえてくる。

 原稿が読めない。

 そのまま読んだら一方通行で終わってしまう。

 まだいる。章兄の魂は、ここにいる。


「でも、私は逃げてしまった。章兄を守ることから逃げたのではなく、託された未来から逃げてしまった。今日までずっと、章兄の死に向き合えずにいたのです。」


―なあ、ブアイ。お前、本気で誰かを愛したことがあるか?―


「はい。ずっとあなたを愛していました。あなたといた時間は幸せでしかなかった。身辺警護が天職になって、連れションに誘われるだけで嬉しかった。ミスをして怒鳴られることでさえ至福だった。だから、そんな存在が目の前で死んでしまうことが認めれなかった。認めてしまえるほど、愛は軽いものではないと教えてくれたのはあなただから!あなたしかいなかったから!!」


 奉書紙から本心がはみだして、その後の言葉を失った。

 ざわつきのない違和感が背後を漂い、直立の金縛りに襲われる。

 折角作り上げてきたお別れ会を、最後の最後で台無しにしてしまう。


 異変を察知した司会の一ノ瀬が何とも言えない表情でマイクを握る。

 好きな先輩の打席を見守る野球部マネージャー。自分がアウトになれば最後の夏が終ってしまう。はずだが、彼女の顔は一気に笑顔になった。

 そして、右手の人差し指で、トントンと耳元を触った。


 耳から外して垂れるイヤホンマイクから音が聞こえる。

(こちらT B応答しなさい)

 高姐だ。

(レディーさんがこれで話しかけてあげて下さいって言うから)

 縛りから解放されて振り返ると、新人レディーの岡田さんが高姐に無線機を渡している。

(そもそも頭が筋肉なんだから、大した原稿は用意できないでしょう。だったら自然体で話した方が届く。ぶつけなさい、あんたの想いを。はい、マッチ。)

(俺だって同じ気持ちだ。章兄に憧れて警護の道に進んだ…これ以上泣かせるなよ)

(ガチムチです。ずっと燻っていた頃より、今の先輩の方が格好いいですよ)


(光史、一緒に強くなろう。ほら、西岡さんの顔を見て)

 

 祭壇の方を振り返って、章兄の目を見る。


「でも、葬儀の仕事が大好きなんです。社長がやかんの熱湯みたいに熱い人で、部長は先輩が好きなスラダンクの安西先生みたいな人で、産湯を飲む神様のような先輩もいます。そうなんです。七福神以上の神様がいる素敵な会社で働いているのです。遺族の役に立てることが嬉しくて、共に働く仲間のことが大好きなんです!そして出会えたのです、二度と離れたくない彼女が。章兄、愛する人ができました。あなたが死した後に、ずっと続けていきたい仕事と、ずっと一緒にいたい彼女が出来ました!」


 目を離さない。

 やっぱり寂しいけれど、しっかりお別れしよう。


「愛する人の死が紡ぐ未来がある。呼吸しているからではなく、自分で自分を諦めなければ今日がきて、幸せか不幸かではない明日がきっとくる。」


 ありがとう、章兄。

 どうか安らかに。


「もう生きていいかなんて聞きません。章兄の分もしっかり生きて行きます。」


               ※


「澤君、お疲れさま。」

 参会者の見送りを終えた朱音さんは、大仕事を終えて安堵した様子だ。その分、疲労も蓄積しているだろう。慣れない喪服を長時間着て、睡眠も十分に取れていない様子だし、家に帰ってゆっくり休んで欲しいと願うばかりだ。


「本当にありがとう。凄く素敵なお別れ会だった。」

「いえ、最後はドタバタで本当に申し訳ございませんでした。」

「ううん。響いたよ。私はもちろん、継章にも必ず。」

 そして朱音さんは子供達とご両親へ先に控室に戻るように伝えた。

「私はほとんど満足。」

 ほとんどが気になる。最後のドタバタがマイナス評点になったか…


「だから、もう少し付き合って。」

「え?」

「会場へ戻るの。」

「でも、これから時間内に片付けをして会場の方へ報告しないと。」

「安心して。もう延長料金は支払い済みよ。」


 朱音さんに背中を押され会場へ戻ると、想像しなかった光景が広がっていた。


「只今より、西岡継章様とK's プロテクション警護課二課の皆様のお別れ会を開会致します。」

 中央に移動されたスクリーンの前に六席の椅子だけが円型に並べられていて、栞、ガチムチ、マッチ、高姐、が既に席に座っている。自分は空いていた栞の隣席に案内される。

「知ってたのか?」

「う、うん。実は朱音さんとメールのやり取りをしていて。」

 女性のネットワーク構築の速さには驚かされる。


「警護二課っていっても、その内の二人は既に退職したけど…」

「高姐、分かったから静かにして。」

 朱音さんが椅子に座り、六席が全て埋まった。


「皆様、スクリーンをご覧ください。

 一ノ瀬のアナウンスと共に、見たことのない映像が始まった。


 衛藤さんが作ってくれたのだろうか。K'sプロテクションで過ごした過去の映像と写真がスクリーン上で柔らかに切替わっていく。

 入社歓迎会の時に無理矢理撮らされたツーショット。海外から来日した有名アーティストを初めて章兄と二人で警護した時に朝の情報番組で流された映像。疲れ果てて事務所のデスクで寝落ちしている自分を章兄が撮った時の写真。独り立ちを祝って、銀座の店でスーツをプレゼントしてくれた時に試着していた自分の写真。山梨にバーベキューへ行った時に川の前で肉を齧る章兄との写真。


「章兄とブアイの写真ばっかりじゃない。」

「嫉妬の他ないが、それだけ章兄はブアイを可愛がっていたってことだろ。でも、ブアイはどの写真も真顔だな。今もだけど。」

「ブッ。」

 二人のガヤに、ガチムチが噴き出した。

「こら。折角のムードがぶち壊しじゃない。」

 朱音さんはそう言うが、誰もが穏やかな表情で映像を見続けた。


 映像が終わると、朱音さんが席を立ち、円の中央に陣取った。

「皆、今日は継章のために集まってくれてありがとうございます。継承が務めを全う出来たのも、皆のおかげです。それで今日は皆に渡したいものがあるの。」

 朱音さんは束になった封筒を順に配り始めた。


「遅くなってしまってごめんなさい。今渡したのは継章が書いた遺書。彼は毎年元旦に遺書を書いていたの。私たち家族だけではなくて、皆にも同じように言葉を綴っていた。それだけ皆のことを大切に思っていたし、可愛くて仕方がなかったのだと思う。直ぐに渡せたら良かったのだけど、彼の死後、遺品に触れることが長らく出来なかった。どうか許してくれた幸いです。」


 章兄の元で働いた約六年間。ブアイと表紙に書かれた六通の遺書を受取った。

「それぞれに遺書を。それも毎年…」

 サンタにクリスマスプレゼントをもらう無邪気な子供のようにマッチが喜び、

高姐は大切そうに胸に抱きしめる。ガチムチは恥ずかしそうに、直ぐにスーツの内ポケットに隠すように閉まった。

「皆が読みたいと思う時でいいから継章の言葉を受取って欲しい。」

 自分も含めて四人が頷く。

 ただでさえお別れ会の喪主を務めて疲労困憊なのに、自分たちのためにここまで尽くしてくれる朱音さんに脱帽だ。

 

「最後にもう一つだけ…」

 朱音さんの表情が引き締まり、会場の雰囲気も明らかに変わった。

「読むべきではなかったのかもしれない。」

 そして一通の手紙を開いた。

「でも読まずにはいられなかった。」

「誰からの手紙ですか?」マッチが聞いた。

「継章から犯人へ宛てた遺書よ。」全員の顔が強張った。

「聞きたくなかったら会場を出てもらって構わないわ。」


 ガチムチが席を立って会場の外へ出ようとする。手が震えるが、気付いた栞が今までにない強さで握ってくれる。


「犯人のことは憎くて、憎くてしょうがない。でもね、継章の愛情は私の憎しみを超えていた。この先も犯人のことは絶対に許せない。でも、この一通の遺書のおかげで、私は人として、母として生きていけると思った。」

 出口の扉を開けようとしていたガチムチの足が止まった。

「だから、皆にも聞いて欲しい。」

 朱音さんは夫を殺した犯人へ宛てた遺書を読み始めた。


                ※

 東條へ

 お前とは終始気が合わないな。

 どうせこの遺書を呼んでも、俺のことを「気色悪ぃ~」と呼ぶ姿が浮かぶよ。ただの同僚で、ただの同学年。そして、お互いがただの警護課課長。


 当たり前のように意見は食い違うし、十年以上も共に働いているのに一度も飯を食いに行ったこともない。

 でもな。俺にとってお前は、一番のライバルであり、一番の理解者だと思っている。警視庁のSPだったお前だからこそ、民間警護の無力さを直に感じ、民間警護に本当に必要なものを知っているからだ。


 散々、民間警護を馬鹿にするであろうお前の入社を、最初は良く思っていなかった。俺が作り上げたい警護の邪魔をすると思ったからだ。


 真鍋社長は警視庁SPを務めた東條渚の血が入れば、更なる組織と警護技術の進展に繋がると信じた。そして、我が社に対してより強い信頼が生まれ、更なる仕事の獲得に繋がるとも仰っていた。

 社長の言う通り、にわか仕込みの俺の知識以上に、お前の培ってきた警護技術は新鮮で、他社に負けないと誇れる組織が生まれた。それに、警察が時間を割けない警備・警護の仕事の依頼も増え、利益にも多大な貢献を齎した。お前の存在は会社に欠かせない。官と民の警護を知るお前は、業界にとっても貴重な人財だ。


 俺には分かる。素直じゃないお前は、民間警護の技術向上を目指し、救われなかった命が護られるために警察を辞めた。歳の離れたお前の妹が、元恋人に付き纏われて殺害されてしまったのは知っている。これ以上同じような被害者を出さないために、お前はストーカ―やDV事案を低料金であろうと積極的に受け入れてきた。


 お前は立派な身辺警護員だよ。

 だから、もうこれ以上落ちぶれるな。


 この手紙がお前の元に渡るということは、残念だけど俺は死んだことになる。

 そこで、お前だからこそお願いしたことがある。

 俺の愛弟子を、いや、愛する仲間を護ってやって欲しい。


 高姐は秘書をも熟すスーパーウーマンだ。四か国語を話す何とかリンガルで、頭脳明晰。今では十社を超える企業の代表から指名を受ける有能な警護員だ。日本の治安が悪くなることを考えるのであれば、企業からの警護依頼は増えるだろう。そうしたら、彼女の存在がもっと必要とされるはずだ。だから彼女をリーダーとして、女性警護員の雇用と育成を進めて欲しい。高姐はそれをやり遂げられる強い人間だ。

 ただ、尋常でなく正義感が強い分、表に弱音を吐かないから、たまには息抜きをするように伝えてやってくれ。高姐は無類のチョコレート好きだ。出張先の海外や地方で美味しそうなチョコがあったら、差し入れしてやってくれ。お前のことは嫌いなようだが、高級な分だけいずれ蟠りは溶けていくはずだ。


 マッチは探偵業や調査業がより質の高い警護に繋がると熱心に学ぶ探求のプロだ。その調査力の強みから、先着警護員としての実力は飛び抜けている。どんな行先でもあいつがその先にいてくれれば安心出来る。それこそお前が警察で培った経験を彼にも伝えてあげて欲しい。民間警護の盲点である調査力をいつか強みに変えてくれる男だと思っている。

 ただ、幅広い知識と経験が仇となって、時に警護の原点を見失うことがある。あくまで基本がある上での応用であることを意識するように見てやってくれ。それに訓練を甘く見てサボる癖があるから注視してくれ。護身術の習得も含め、体の鍛錬は警護員にとって必要不可欠だ。

 マッチは無類のマンガ好きだ。「俺は生涯結婚はしません」と言い張って、阿保みたいに職場にいることが長いから、時間つぶしになるマンガを時折差し入れすると、飛び跳ねて喜ぶぞ。きっとお前にも協力してくれるようになる。


 ガチムチは見ての通りだ。でかくて力が強い。肌は日サロで焼いて真っ黒だが、心は透き通る程に綺麗だ。物静かだが、人の悪口は吐かない。対戦相手を殴ってきた分、相手の傷みが分かる優しい青年だ。

 相手に対して必要な言葉だけを発することが出来るアイツが俺は好きだ。

 ただ、仕事内容で気を抜くことがある。特に雑踏警護は注意して見てやってくれ。どうせ危険はないだろうと舐めてかかるし、気に入らないことがあると血が上りやすい傾向がある。有事の際は基本が退避であり、格闘ではないことを重点的に見てやって欲しい。

 あいつは可愛いところがあって、無類のピンバッジコレクターでな。地方のご当地キャラのバッジをあげたら、滅茶苦茶喜んでいたよ。お前もその顔を拝みたかったから、幾つかプレゼントしてやってくれ。お前がまた部下に殴られそうになったら、ガチムチが護ってくれるかもしれないぞ。


 最後はブアイだ。あいつはお前も分かっているだろうが、まだまだ対象者や周囲の人間とコミュニケーションを取るのが下手だ。入社当初に比べればだいぶ柔らかい対応が出来るようになったが、誰よりも目をかけてやってくれ。


 なぜなら、あいつの警護員としてのセンスは天性だ。誰よりも早く異変を察知する洞察力があって、遠くを見渡せる鷹のような目を持っている。そして、愛しいほどに真面目で、素直な奴だ。血は繋がってはいないけど、本当の弟のように思っている。思い過ごしであればいいけれど、俺がいなくなったら、あいつはしばらく立ち上がれないはずだ。お前にあいつの兄になってくれとは言わない。でも、立ち上がれないことを責めないでくれ。時間はかかるかもしれないけど、あいつは絶対這い上がってくる。いつか民間警護業界を代表する男になるはずだ。


 悪いな、長くなってしまって。

 お前と違って煙草は吸わないし、ギャンブルもしないのに、お前より先に死んでしまうのは辛いな。

 それに、ボクサー時代の怪我の影響で、もうほとんど右目が見えていなかったんだ。医者の診断だと、半年もしない内に右目が失明してもおかしくない状況だ。完全に見えなくなったら警護員を引退するしかないとずっと前から決めていた。

 まあ、この遺書が読まれているということは、その心配は無かったようだな。


 東條。

 これからの警護課を頼んだ。

 4人の愛弟子を宜しく頼むな。

 警護員としてお前と出会えて、一緒にやってこられて幸せだった。

 小っ恥ずかしいけれど、遺書が届く前に一度でもお前と呑めたらいいな。

 あと、事務の森永さん。お前のこと気になってるみたい。

 綺麗な人だろ。今度声掛けてみろよ。


       令和五年 元旦                西岡 継章 


 遺書を読み終えた朱音さんがその場に座り込み、高姐と抱き合った。

 マッチは両手で顔を覆ってボロボロ泣き、ガチムチは固い壁を叩き続けた。

 隣で栞が一緒に泣いてくれている。

 手紙を宛てた相手に殺されてしまった切なさ以上に、愛された実感を噛み締める。

 愛が恨みに勝って、喪失が糧に変化した瞬間だった。


 栞の手から離れ席を立つ。

 座ったままでは苦しくて、目を閉じれば、瞼裏の赤い眼閃に包まれる。

 体中が愛で一杯になっていた。

 貰うだけでは駄目だ。これからは少しずつでも与えられるようになりたい。


 消えることのない愛が存在する。

 目に見えなくてもいい。触れられることも望まない。

 愛してくれているって思えれば、それが愛だ。

 

「章兄のこと、ずっと愛していますから。」

「もう大丈夫です。だから、安心して眠っていて下さい。」


 苦い過去からの独り立ち。

 七月八日が澤光史の独立宣言日になった。


―第四章 「独立」 最終章 完


 

 


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