第四章 「独立」 第一話

 二〇二三年、六月六日、午前四時半。


 眠ったのか定かでないままソファーから身を起こし、ケトルのスイッチを入れる。

 

 クロゼーットの隅に置いたキツネ色の段ボール箱から一本の空き缶を取り出し、ブラックコーヒーを無心で啜る。

 缶の手触りを確かめながら、何度も回してひたすらそれを見続ける。


 栞に置手紙を残して家を出る。

 まだ薄暗い空を見上げ息を吐く。近所で始まった工事の機械音や、目の前の保育園で燥ぐ園児の声も聞こえない静寂に不安定な精神が落ち着く。


 電車で巣鴨に向かう。先頭車両の車内では、早朝から仕事へ向かう、夜勤から帰る人々が兄弟のように首を折り曲げて寝入っている。幾つもの「終わり」と「始まり」が滞在し、彼らに暴れを成すような気力はない。


 巣鴨駅に着いて商店街へ入る。四が付かない日。ほとんどの店が寝静まっている中で、一角のパン屋に辿り着く。ガラス越しの店内は既に明かりが点き、「ベーカリートキエダ」と書かれた錆びれた黄色い軒先テントが透き通っている。


(B ヤーゴ)

 LINEでメッセージを送るが、直ぐに既読はつかない。三十分近く店の前で立哨し反応を待つ。携帯画面を気にすることなく、極寒で無ければ数時間待つことも苦ではない。待つことは昔から得意だ。


 先月担当したキリスト教の葬儀を振り返る。教会で行ったのだが、厳格な神父さんで十字架の角度や生花の飾りつけでだいぶ怒られたが勉強になった。またお世話になることがあったら次はミスをしない。


「ちょ、ちょっと先輩。来るの早すぎですよ!七時半の約束でしょう?まだ六時半ですよ!どこの不審者かと思いましたよ!!」

「悪い。寝付けが悪くてな。家にいても落ち着かなくて。」

「勘弁して下さいよ!さ、さあ、中に入って下さい。」

「何だよ、その恰好。全く似合ってないな。」

「仕方ないでしょ!まだまだ見習いなんすから。」

「ちょっとトキ君。目を離したらダメでしょ!焦げちゃうよ!」

「ご、ごめん。直ぐ行く。」


 ボタンが吹き飛びそうで、明らかにサイズのあってない白いユニフォーム。新妻に呼ばれたガチムチが調理場に戻る。


 ガチムチこと松永時男はリンクス渋谷事件の翌年三月に K'sプロテクションを退社した。当時から付き合っていた彼女との結婚を機に相手の両親が営むパン屋の跡継ぎになる決心をした。

 章兄の死、彼女との結婚。核となる退職の理由は聞いていない。


 あんパンにクリームパン。中身は甘味でも、香ばしく焼き上がったパンが次々と陳列棚に並んでいく。どれも美味しそうで、今日では無ければ幾つでも食べられてしまいそうだ。でも今日は腹が減らない。


「澤さん、初めまして。時男の妻、時枝怜です。澤さんのことは彼から良く話を聞いています。警護員時代に凄くお世話になったって。」

 深いお辞儀をして、相手の目をしっかり見て話す人間に悪い人はいない。長くない黒髪を後ろでギリギリで束ね、清潔感のある白いユニフォーム姿の若妻。ぼそっと話すガチムチとは対照的で、ハキハキとしていて二人のバランスは良さそうだ。


 午前七時半。

 大方の開店準備を終え、着替えを済ませたガチムチが店内に戻って来た。

「先輩、お待たせしました。」

「おう。やっぱりでかいな、お前は。」

 黒いスーツを見ると、一緒に働いていた過去を思い出す。店の天井に頭が突き刺さりそうで、傍で購入を待つあんパンのようなこんがり肌。無条件で周囲を威嚇して、今にも警護を始めそうな迫力だ。


「とき君、いってらっしゃい。はい、これ持って行って。澤さんの分もあるから、お昼にでも食べてね。」

 袋一杯に詰めたパンを見習い夫に手渡した。

「ああ。師匠とお母さんには宜しく伝えておいてくれ。」

「分かった。澤さん、とき君をお願いします。」

 お願いだなんて。平常を装っているが、頼りたいのはこちらの方なのに…。

 深くお辞儀をして店を出発する。

 

                 ※


 出来立てパンの入った袋をぶら下げて、黒スーツ、黒ネクタイ姿の大柄な男二人が早朝の商店街を歩く。ようやく他も開店準備を始め、店先に商品や洋服が色付いていく。バディーを組むことが多かったガチムチの隣を歩くのは約二年ぶりだ。


「晴れて良かったですね。」

「ああ。そうだな。」

 行けずだったが、去年の六月六日は確か土砂降りの雨だった。

 休みを取ったが部屋から出ることが出来ず、窓に打ち付ける雨粒を呆然と見続けていた。


「チェーンの修理代はまだか?」

「じゃあ、その分を頂いていないお祝儀ってことで。」

「時系列でいったら、修理代が先だろ。」

「酷い先輩ですね。破壊しなかったら、一生引き籠りでしたよ。」

「ところで何パンが一番人気なんだ?」

「アンパンです。」

「何でだ?」

「程よい甘さの餡が地域の高齢者に人気なんです。それに生地の柔らかさを大事にしているので、歯が無くても食べやすいって。」

「そうか。いつ一人前になるんだ?」

「どうですかね。師匠が高齢なので、何とか三年以内にはと言われてます。」

「急ぎで三年はかかるのか。職人は大変だな。」

「葬儀の仕事も専門職じゃないですか。仕事、どうですか?」

「どうろうな。担当者試験には何とか合格できたよ。」

「良くわかないけど、おめでとうございます。」


 巣鴨駅から電車に乗り、章兄の墓地がある多摩へ向かう。

 車窓から眩しい日差しが、自分の体に当たる。

「まさかそのネクタイ、首絞められないためのワンタッチ式じゃないですよね?」

「良く分かったな。」

「全く…。先輩、もう俺等は警護員じゃ…」

「分かっているよ。」

「だったら席に座って下さい。俺だけ座って、先輩が舎弟みたいじゃないですか。」

「警護員でないなら、人の目なんて気にしなければいいだろう?」

「それにやっぱりそのスーツ、シングルボタンなのですね。もう無線機や警棒なんて必要ないのに。それにサイドベンツだし。」

「別にいいだろ。葬儀だって常備品が多い。設営用の軍手や式典用の白手袋、それに花をカットするためのはさみだとか…」

「何にも付けてないのに…もういいですよ。分かりましたから。」

「別にいいだろ、このままでも。」

 

 空いた下りの電車内。普段通りに吊革を掴んで、出入口に目を向ける。

 約二年ぶりに章兄に会いに行く。生半可な気持ちで会いには行けない。

 身辺警護員として、全ての時間を共に過ごして来たんだ。

 血縁のない自分を、愛してくれた人なんだ。


                ※


「お前、いい目をしているな。」


 身辺警護員の養成学校に二年通い卒業。

 二〇一五年十月。入社日にそう声をかけられた。

 警護二課課長、西岡継章。元プロボクサー。引退後に妻を日本に残して海外留学。語学を習得した後、日本人で初めて世界最高峰の国際ボディーガードスクールを卒業し、最高ランクのライセンスを取得。既に業界内では知られた存在だ。


「いえ、そんな大そうなものでは…」

 波乗りを終えたサーファーのように焼けた肌と白い歯が眩しく、学校で鍛錬したはずの語彙が出てこない。情けないが、緊張していた。

「二十一歳か。お前、竹内さんとこの卒業生なんだな。あそこはカリキュラムがしっかりしているし、訓練も厳しいと聞いている。若いのに感心だが、ウチにはウチの信念と警護スタイルがある。もう練習はない。厳しくいくからな。」

「はい。」

「今日から命懸けで一緒に警護対象者の生命と生活を護っていく。とっくに覚悟は出来ているよな?」

「はい、勿論です。」

 初めての会話だった。

                  

                 ※


 電車を降りる。タクシーには乗らず、霊園までの道のりをひたすら歩く。ガチムチはそのことに文句を言わない。募る話をしたいのではなく、お互い心構えが必要なのだ。去年、ガチムチは一人でお参りに来たようだが、黒々とした肌に青みが増したように感じる。表には出さないが、あの事件の記憶が「生きる」を考え直すきっかけになったはずだ。怖くないはずがない。


 霊園に近付くと会話はなくなる。久しぶりに木々の自然に囲まれて、新鮮な空気に触れても、それらを楽しむ余裕など全くない。

 頭の片隅に誤魔化し置いていた懺悔や恐怖心が脳内を埋め尽くす。


 坂道を上りながら吐息の音に言い聞かせる。塞ぎ込んでいた生活から脱却できたはずだ。栞が応援してくれて、想別社では尊敬する社長や社員に出会えた。もう家を出られなかった自分とは違う。謝りにきただけではない、踏み出せたはずの自分を報告しに来ているんだ。

 

 過去が、記憶が、ごちゃ混ぜになる。


                 ※


「澤、お前全く笑わないよな。」

 警護二課のデスクでは大爆笑が起きていた。

 トレーニングルームで行われた護身術訓練で、指導員、代田部長のズボンが破れ、臀部のパンツが丸見えだったのだ。

「踏ん張るごとに真ん中のタコみたいなキャラが踊っていたよな!」

 涙目の章兄は周囲を煽るように言い放つ。


「そうっすよね。あのいかつい顔で真っ赤なブリーフ、俺は無理!」とマッチ。

「私だって赤は履かないわよ。仕事の日には♪」高姐もこういう話は好きだ。

 誰にだって好きなパンツを履く権利がある。同僚どころか上長を馬鹿笑いするなんて以の外だ。警護員たる者、常に冷静で感情は一定であるべきだ。


「決めた!」

「え、何をですか?」涙目のマッチが聞く。

「澤の警護員コード!」

 コードは主に無線交信で警護員を呼び合うものだ。「スター」「章兄」はS、「高姐」はT、「マッチ」はM。

「Bだ!言っておくけどボディーガードのBじゃないぞ。不愛想のBだ。それに仏像面のBでも通ずるのであーる!」

 再びその場に大きな笑いが起きた。全員が俺を指さして、「それは良い!」と声を揃えた。

                 

                 ※


 ガチムチの案内で木々に囲まれた小高い霊園に到着する。鍛え抜かれた警護員時代とは違い、額から汗を掻き、防弾シャツを着ない体は涼しい風にヒンヤリする。

 周囲の墓石から線香の匂いが漂ってくる。葬儀社員の今では慣れた匂いだが、それまでは章兄を思い出させる、ただ悲しい匂いだった。


「先輩、こちらです。」

 近付く。約二年ぶりに章兄に会う。死の瞬間が色濃く襲ってくる。何発もの銃声が聞こえてくる。墓石を見られない。ただ目を瞑ってガチムチの横で手を合わせる。


(どうしてかける言葉が浮かばないんだ?燻っていた時間、転職して抗ってきた時間。その積み重ねが癒してくれるとは思わない。でも、過ごして来た二年ってそんなものなのか。だったらどうすればいい?)


「先輩、お線香とお供え物を。」

「ああ。」

                 ※


「こんな極寒の日に、外で六時間立ちっ放しはきつかったろう?ジョバンニさんは一度飲みだすと止まらない。これで手、温めろ。」

 真冬の著名人警護。西麻布のバーで酒を飲むイーグルを店の外で待っていて、暖房の効いた待機車輌に章兄が乗り込んできた。


 美味しいと感じたことはないが、決まって差し入れされる微糖の缶コーヒーが、不安を潤し正義を宿す精神安定剤になっていた。

 初めて奢って貰ったのを筆頭に、銘柄違いの多くの空き缶が殺風景な部屋を鮮やかに色付けした。記念ではなく、記憶に残しておきたかった。民間警護界のホープ、西岡継章の存在は、それ程大きな憧れだった。


「動き、連携は問題ない。異変への察知はずば抜けている。でもな、このまま警護を続けても、対象者はお前に心を開かないよ。腕っ節に自信があっても、強い正義感を抱いていても、愛情を伝えられる人間でなければ、真の警護員にはなれないと俺は思う。信頼関係を築けなければ、イーグルから得られる情報は少ない。情報があるから気付きがある。警護活動の幅がグンと広がるんだ。」


「頭では分かっているのですが、上手く行動に出せなくて…」

「と言いつつも俺も、朱音の愛情を知るまでは何も分からなくてさ。お互いヤンチャしていた悪ガキで、出会ったのはボクシングを始めて間もない頃だった。下らない理由で喧嘩ばかりして、目を悪くして引退した後は朱音にきつくあたった。でもボディーガードになりたいから海外留学するって言ったら、あいつ何て言ったと思う?」


「朱音さんのことですから、あんた馬鹿。とか?」

「確かに始めはそう言ったよ。でもな、人のために命張れる人間なら、どんな挑戦をしても愛し続けていける。いいんじゃん。って言ってくれたんだ。お腹に赤ん坊がいるのに即決してくれて。その時、たぶん愛に気付けたんだ。それから出会う人、誰をも愛おしく思えるようになった。愛って受取るとさ、自分で離さない限りずっと残るんだよ。ここに。」


 章兄は利き腕の右拳で左胸を小突いた。

 そして皺くちゃになった紙袋から、微かな湯気を立てる肉まんが二つ姿を現した。


「なあブアイ。今、彼女はいないのか?好きな人でもいい。」

「いないですよ。明日死ぬかもしれないのに。」

「だったら人を愛したことはあるか?」

「人を愛したこと、ですか…」

「ああ。本気で誰かを愛したこと、ないか?」

「どうでしょう。あるようで、ないような…」

「なあ、今からキモイこと言っていいか?」

「まだ警護中ですよ。」

 

 章兄は口に残した肉まんをコーヒーで流した。


「今から、俺を愛せ。」

「はあ…」

「その何倍も俺がお前を愛するから、いいから愛してみろ!」

 恥ずかしい、嬉しいではなく、胃が逆流する以上に鮮烈で、熱を帯びた衝動が体内を走る。一度抱いたことがある感情のようだった。


 ずっとこの人の近くにいられたら、迷わず真っ直ぐに生きていける気がした。


「愛し方が分からないので、教えてくれるなら。」

「お前、今少し笑っただろう?」

「笑ってなんかないですよ。」

「早速、俺の愛が伝わっちまったか。なあ、ブアイ。」

                

                 ※


 目を開ける。竽石に刻まれた「西岡」の文字。西岡家先祖代々の墓地で歴史と年季があるが、台座、花立、香炉は綺麗にされている。遺族や関係者が欠かさず訪れているようだ。


 何となく「ブアイ、良く来てくれたな」と声をかけられた気がして、

「遅くなってすみませんでした。」と自然に応える。でも、それ以上には言葉は出ず、墓前にしゃがみ手を合わせることしか出来ない。


 線香を焚いて、霊園近くで買った新鮮な供花を備える。そしてガチムチはカレーパンを台にそっと置いた。肉まんの方が喜んでくれたよな。と今更に気付く。


「章兄、先輩と会えて嬉しいって言ってくれていますよ。次は三周忌ではなくて、もっと近い日に来ましょう。」

「そうだな…そうしよう。」

 懺悔は終わらない。分散させるのがいいのかもしれない。

「じゃあ先輩、そろそろ…」


「澤君、松永君?」懐かしい声が聞こえる。

「朱音さん…」

 章兄が愛した妻、朱音さんが二人の子供を連れて墓参りにやってきた。会うのは章兄の遺体と面会した日以来だ。

「ねえお母さん、お父さんの好きだったパンが沢山おいてあるよ。」

「あら。お父さん凄く嬉しい、早く食べていいか?って聞いているわよ。」


 朱音さんはどんな時も気丈に振舞う。良く家に招かれて食事を振舞ってくれたし、夏には川にキャンプに行って一緒にバーベキューもした。家に泊まった日の朝は、ふりかけを混ぜた爆弾おにぎりとなめこの味噌汁を作ってくれた。


「今日は一年で一番、お父さんの体を綺麗にしてあげる日だから、しっかり磨くのよ。」その笑顔が、前向きで明るい声が、悪夢を蘇らせる。


 長女が水を汲んできて、長男が柄杓を掬う。

 墓石に水をかけて、楽しそうに石を磨く。


 もう少し季節が温かみを増したら、派手な模様が入った水着を着て、一家でプールを楽しむ情景が用意に浮かんでしまう。

 強く取り戻したいと思う反面、積み重ねた時間に押し潰されて、また塞ぎ込みたくなる。

「朱音さん、俺等は先に失礼します。」

 ガチムチの代弁に救われたかと思うと、雑巾を手にした朱音さんが振り返る。

 笑顔の瘡蓋が一瞬だけ剥がれて、寂しそうな表情を見せる。


「私、車で来ているの。それでね、近くに最近オープンしたお洒落な喫茶店があるの。二人共、今日はお休みでしょう?」

「ええ、まあ。」

「なら、少し待っていて。」

 家族三人がお参りを終えるのを待って、「パパ、またね」の合図で、章兄の愛したジープに乗って喫茶店に向かった。


「それじゃあ二人は、この大きくてムッキムキなお兄さんと遊んでいて。」

「え、俺は子守りですか?」

「ごめんね松永君。私、澤君に話があるの。とっても大切な話が。」

 夏を待ちきれないガチムチの黒い肌に薄っすらと赤みが加わる。

「先輩、もしかして彼女さんがいるのに朱音さんとデキていたとか?」

「馬鹿野郎、言ってはいけない冗談だろ!」

「すみません…」

「ほら澤君。こっちこっち。」


 予約をしていたのだろうか?

 墓参りの度に幾度も訪れたことがある慣れた様子だ。

 そして朱音さんは生い茂る東京の緑が一望できる大窓のついた個室へ手招いた。


 初めて見た。

 席に座るなり、朱音さんは何かが弾けたように泣き出した。

 咄嗟にハンカチを差し出す。

「だ、だいじょうぶですか?さっきガチムチが節操も無いことを…」

「ありがとう。違うのよ。」

「だったらどうして?」

「私に涙は似合わない?」

「い、いえ。でも初めて見たので。」

「どんな時でも前を向くのが私。くよくよせず、家族を守るのが西岡朱音。火葬場で継章を見送った時にそう誓った。でも命日が近付くと、どうしてもこうなっちゃうの。」

「せめてこの部屋にいる間は無理をしないで下さい。」


 少し落ち着いて飲み物をオーダーする。

 ストローを使ってレモネードを飲み始めた朱音さんは、初めて自分の目を真っ直ぐに見た。

「澤君、葬儀社に勤めているんだって?」

「ええ、そうなんです。でも、誰から?」

「高姐。実は彼女、ずっと私達家族を心配してくれて、定期的に家に来てくれているの。子供が寝静まった後は、女二人でお酒をガブ飲みして。」

「高姐が…」


 余程に喉が渇いていたのか、美味しいのか。アイスティーを数口しか含んでいない間に、朱音さんはレモネードを飲み干した。氷に挟まれた檸檬の輪切りが涼やかに寝そべっている。


 開いていた拳を握る。一度大きく下を向いて顔を上げる。一度は緩んでいた表情が険しくなる。朱音さんの本題が始まる。


 自分の顔を一定時間見ると、朱音さんは何かに納得するように頷いた。

「ねえ、澤君。やっぱり貴方も私と同じだよ。」

「え、何がですか?」

「貴方と私は一歩も進めていないよ。」


 進んだようで進んでいない。朝起きる度にそう思って、仕事や何か行動すれば踏み出せたと錯覚して、また夜になって元に戻る。


「私達は継章の死と向き合えていない。しっかりお別れ出来ていない。彼が死んだ日のことを真正面から受け止めないといけない。彼が澤君や松永君、それに高姐とどう出会って、どんな歴史を築いたのかを辿らないといけない。でないと本当のさよならは出来ない。とっくに分かっていたことなのに、ずっと逃げ続けてきたの。」


 時間は止まっていた。

 逃げて、逃げて、逃げ続けたきたからこそ、触れてさえいなかった核心。

 人道を知ったように時を過ごして、自分のせいだと悲劇のヒーロ―を演じて、過ぎ去った時間と出会った人々を傷つけてきた。気付いているのに、それでも正当化しようとして目を背けてきた。


 涙が零れる。

 不愛想な表情は崩れず、泣き声も出ない。

 目頭に微かな熱を感じるだけで

 素直に、従順に、涙が頬を伝った。


「これ、使って。」

 バックから取り出された朱音さんのハンカチを受取る。

「もう少しこのままでいさせて下さい。」

 直ぐに拭き取ってしまったら、大切な「今」が消え去ってしまう。敢えて、逆らわずに流し続ける。それが深く愛した章兄への初めての供養になると感じた。


「じゃあ、本題にいくね。」

「え?今のが、ではないのですか?」

 二人でしっかりと泣き終えて二枚のハンカチが湿った後、朱音さんは少し照れたように言った。


「継章のお別れ会をしたい。それを澤君にお願いしたいの。」

「え?自分がですか?」

「何も可笑しくないでしょ。澤君は葬儀社の社員で、継章が一番に可愛がった弟のような存在なのだから。」


 頭が真っ白になる。逃亡者が置き去りにした相手を見送る。その相手のお葬式を担当する。確かに葬儀社勤めだが、想像が出来ない。


「お願い出来るのも、それが出来るのも、澤君しかいない。火葬だけで継章とお別れしたのが心残りだったの。遺恨しか残らなくて、あとは仕事と子育てに追われる日々で。だからしっかりお葬式をしたいと思った時、澤君が葬儀社で働いているって聞いた時、私には天のお告げに聴こえた。それが運命だと思ったの。」


 手が震える。引きこもりの時と同じだ。手に力が入らない。

 幾らでも別の葬儀社がある。章兄の自宅から近くて、綺麗な会館を持っていて。

 それに想別社には尾張さんや偉大な先輩が大勢いる。

 新米の自分では…


「手を握らせて。」

 朱音さんが両手でしっかりと自分の手を握った。

「残っているよ。だって継章の手に、体に一番触れてきた手だもの。今、握った手の中に継章がいる。成仏できていない継章が「光史、はよ見送ってくれ」って言ってる。澤君なら出来る。絶対に乗り越えられる。だからお願い。私と一緒に継章とお別れしよう。」


 一番苦しんできた人の、一番強い願いを受取った気がした。


 

                 ※


「お帰りなさい。」エプロンをした栞が玄関まで迎えに来る。

「ただいま。」

「あれ、スーパー寄って来たの?」

「久しぶりにビーフシチューを作ろうと思って。」

「やだ!ちょうど今、シーフードのクリームシチューを作ってるの。」

 互いの顔を見て、久しぶりに笑い合った。


 リビングの戸を開くと、シチューがコトコトと煮立っている。

 不安と危険のないすれ違いにとてつもない安心感を感じる。

 愛の証拠。これが愛する人と一緒にいるということなのかもしれない。


「光史。大丈夫?」

「見ての通り、大丈夫だよ。」

「光史が私に優しい時はね、何か辛いこと、悲しいことがあった後なんだよ。馬鹿真面目にそれを反省して、明日がないかもしれないからその日の内に心を入れ替えようとする。生き急ぐのバレバレなんだから。」


「そうか。そうなんだな。」

 気張っていた体が、神経が弛んでいく。伝えなくても分かってくれる人がいることは幸せの他ない。向き合えなかった長い日々がルーのように溶けていく。


「奮発して、上等な肉を買って来たんだ。豪勢に肉も入れていいか?」

「灰汁をしっかり取ってくれるのなら、許してやるのだ。」


 栞と食べる初めてのオールスターカレー。久しぶりに二人揃っての夕飯。中華料理以外の食事。幸せを噛みしめる分、朱音さんの顔が頭に浮かぶ。


 朱音さんの愛する章兄はもういない。

 自分には栞が傍に居てくれて、理解と衝突を経て、二人の時間は進んでいる。一人で闘っている朱音さんの時間を進めてあげたい。そう思った時に既に答えは出ていた。


 「今日は会わなければいけない人に会って、助けるべき人と話をした。そしてこうして久しぶりに栞とご飯を食べてる。良い事が沢山あったよ。」

 「そうだね。今年は逃げなかった。光史はまた少し、強くなったんだよ。」

  

 そして翌日、朱音さんへ電話して、章兄のお別れ会を担当することを決めた。

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