第二章 「天職」 第三話
「奥様にまでお手を添えさせてしまい、大変申し訳ございませんでした。」
尾張さんは優しく言葉を投げかけるが、ミラー越しに映る喪主様が右手に持つ、クリーム色のハンカチーフは額の汗で湿っている。
「いいのよ。私が肥やした体なのだから。こんなおデブちゃんで、こちらこそごめんなさい。現役を引退して三十キロくらいは減量したのだけど。」
「そんなことを仰らないで下さい。闘うために必要な肉体だったのですから。」
安置先の想別セレモニーホールへの道中、喪主と尾張さんはテンポよく、小刻みに会話を重ねる。心境は不明だが、喪主様は終始笑顔で目は泳いでいない。その表情、言葉には嘘は一つもないようだ。
想像を遥かに超える重みだった。病院の男性スタッフ二名、付き添われていた元力士の同僚と喪主様の助けがあって、ようやくご遺体をストレッチャーに移動できた。地面に擦れる車輪が外れる恐怖心に苛まれながら、皆でストレッチャーを押し続けた。入社以来、初めての冷や汗が襲い、ようやく寝台車へご遺体を収容できたのだ。
午後の八時過ぎ。車窓から明かりの点いたホールが見える。尾張さんと相談し、今晩はご遺体をストレッチャーに載せたまま安置することに決まった。個室に最低温度で冷房を利かせ、大量のドライアイスで応急処置。明日、社員の協力を得て保冷庫へご遺体を収めることになった。
冷や汗が報われたのか、入社以来、一番の幸福も訪れた。
明後日の通夜日まで時間を確保できない喪主様が、今晩中に全ての打ち合わせを終えたいと申し出たのだ。一度だけでもと焦がれていた尾張さんの打ち合わせに同席出来る。自習、ロープレどころではない。神のお告げが聞けるのだ。胸ポケットに忍ばせた厚手のメモ帳は残り十ページもないけれど、字幅を詰めてでも全てを記録する、感嘆詞も逃さないと意気込む。
ホールに到着。故人へのお参りを終え、清め所へ移動。
給湯室で温かいお茶を淹れ、対面に座る喪主と尾張さんへ差し出す。
二つの「ありがとう」を受けて、尾張さんの隣に静かに座る。
エースプランナーの打ち合わせが始まる。元力士で関係者の参列が多く見込まれるのだから、土俵型の派手で大きな祭壇を提案するのだろうか?
どんな切り口で高額見積りをとっていくのか、興奮で舌が渇く。マニュアル通りであれば、まずは三つ折りのパンフレットを開いて会社案内だ。太ももの上にこっそりメモ帳を忍ばせて、開始の合図を待つ。
え、冒頭で会社案内をしない?
尾張さんは突拍子もない語りを始める。突然自宅に飛び込み訪問してきた空気を読まない営業マン。いや、どちらかというと宗教勧誘に近いだろうか。「愛」や「平和」は持ち込まないが、会って間もないのに「人類はみな仲間です」とやんわり土足で踏み込んでくる言葉にも聞こえる。
「お葬式を終えるまでの数日間。私を慶子さんの一番身近な他人にさせて頂けないでしょうか?」
でも、不思議と馴れ馴れしさは感じない。
作られた台詞ではない。良く分からないけど、生きているステージが違う。
思想、歩き方、食べ物、一日の過ごし方。未熟者の君とは違うんだよと声が聞こえてきて、表情、振舞い、言動の種類が一層輝きを増す。糸か何かが天と繋がっていて、金色に近い黄色のオーラを纏っている。
いや、でもこの言葉は流石にまずい。一歩間違えればセクハラにだって…
「いいわよ。でもどうして?」
「本気で第三者を想うからこそ、気付けることがあると思うのです。」
「尾張さんは主人と私のことで、既に何か気付きましたか?」
車内で二人は会話をしていたけど、何気ない話だった。尾張さんは聖人だけど、エスパーではない。流石に…
「慶子様の笑顔は、お二人の晩年を現しているようです。終わりよければ全て良しではございませんが、故人様に連れ添われて良かった。そんなご様子に見えます。」
「尾張さんはお幾つですか?」
「三十七歳です。」
「私は子を授からなければ、兄弟もいないの。では、葬儀を終えるまでは歳の離れた弟とさせて頂こうかしら。」
幅の太いテーブル越しに座る二人の距離がグッと縮まったように感じる。
「今、故人様が横に座られていらしたら、どんな言葉をかけられますか?」
「色んなことがあったね。それにそのほとんどが苦しかった。でも最期は最高の夫だった。挽回するのが遅過ぎだけど、生まれ変わってくれてありがとう。」
「お疲れでしょうから、もう少しだけ詳しく話をして頂けないでしょうか?」
尾張さんの上半身が少しだけ前のめりになる。
「主人は土俵に生きた人だった。だから土俵を降りたら廃人。四六時中、相撲のことを考え、私には見向きもしなかった。二人で旅行に行ったのは婚前に熱海に一泊しただけ。思うように結果が出なくて苛々して。若いお弟子さんに追い越されて、いつまで経っても昇進できない。幾度も引退勧告を受けたらしいけどね。そして力士としての人生が伸びる分、夫婦の距離は遠のいた。子供はいないし、何度も離婚を考えたわ。でも出来なかった。なぜだと思う?」
「喪主様と離れないために、敢えて土俵を降りなかった。最後まで幕内昇進の夢を諦めなかったのではないでしょうか?」
「そう。そして主人は奇跡的に幕内昇進を果たし、当時の最年長記録を作った。残念ながらその場所で大怪我を負って、引退してしまったけれど…」
「そして、廃人のようになってしまった…」 尾張さんは聞き手に徹する。
「ええ。引退後は一瞬の栄光を引き摺った。狂ったようにお酒を飲んで、ギャンブルにも嵌って。私がパートで稼いだ給料を使い込むこともあった。」
表情を曇らせた慶子さんは、それを払うかのようにバッグから写真を取り出した。
「はい、遺影写真。この主人、とっても解れた顔をしていると思わない?」
「ええ。今のお話からは想像できない、とっても穏やかな佇まいですね。」
「約一年前。肝臓がんで余命宣告を受けたの。頑固だから、当初は私に内緒で通院していてね。白状した時は赤ん坊のように大泣きして、私に抱きついた。そしてその日から別人になった。体に無理のない範囲で自宅近くの清掃会社で働いて、帰ると一切の家事をしてくれた。毎晩のように食事を作ってくれて私を待ってくれた。始めは味が濃すぎて嫌だったけど、彼の優しさのように味も優しくなった。この写真は結婚三十周年のお祝いでプレゼントしてくれた熱海旅行で撮った一枚なの。三泊したの、しっかりと。」
慶子さんは一度置いた写真を胸にあてた。
「人は変わることが出来る。全てを打ち消すことは出来ないけれど、たった一年の間で感じられたの。最期に苦悩を上回る幸せを私に与えてくれた。亡くなる今日まで諦めずに、幕内の土俵に上がった時のように勇ましく闘病して、私の心は打たれたわ。そう、主人は正しく大器晩成なの。」
「仰る通りだと思います。そして慶子さんは、故人様以上に諦めなかった。」
「え、私が?」
「はい。私なら直ぐに逃げ出しているはずです。私は未婚者です。愛を決意したことのない未熟者です。しかし、慶子さんが諦めなかったから、故人様は二度も生まれ変われた。不屈に愛してくれる方が傍にいないと、出来ないことです。」
笑顔だった慶子さんが泣き出して、次は涙でハンカチを濡らす。
他人に言われて気付き、胸に突き刺さる言葉がある。当たり前にしてきたことが特別だったりする。気付かせてあげること。それが一番近くにいる他人に出来ることなのかもしれない。
尾張さんは一枚の白紙に絵を描き始めた。涙が落ち着くのを待って、その絵を慶子さんに披露する。
「慶子さん、ペチュニアという花を存じていらっしゃいますか?」
「ええ。庭弄りは好きだから。」
「赤いペニチュアには(決して諦めない)という花言葉があります。最後まで諦めなかった幕内の土俵、夫婦の絆。こうして遺影写真は二つにして、解れたお顔と幕内初土俵の写真をお飾りするのはいかがですか?」
尾張さんは幕内の初土俵で四股を踏む故人の写真を慶子さんに見せた。行きの車内で検索していたものだ。
「そして二枚のお写真を囲むように、赤いペニチュアで土俵の円を描くのはいかがでしょうか?」
「尾張さんは絵がお上手なのね。凄く素敵だと思う。でも派手だし、主人は有名人ではないわ。私達は一般人の夫婦だもの。」
「仏教式ではご住職の読経が大切です。式の大部分を占めるお時間だからこそ、ご参列いただく皆様に故人様の姿を目に刻んで頂きたいのです。この二枚のお写真には、それだけの意味と価値があります。」
「尾張さんはセールストークもお上手なのね。お葬式でこんな祭壇や飾り方が出来るのね。」
提案を承諾するのか、しないのか。聞いているこちらが緊張してしまう。慶子さんは黙祷を捧げるように目を閉じて、尾張さんは夕陽のように穏やかに慶子さんを見つめる。
「不思議ね。今日初めて会ったばかりなのに、尾張さんのことを信じてみたいと思う。セールスではなくて、私と参列者のことを本気で考えてくれていると感じられる。何でなのかしらね?」
「日々、人様の死に触れて、人としての学びを頂いております。そして、至らずとも与えられる日々を真剣にに生きているつもりです。ですから私の存在や言葉そのものが、精一杯の本気なのです。」
「分かったわ。尾張さんの本気を信じてみます。その絵の通りにお願いするわ。」
その後も提案が次々と受入れられていく。全ての提案が葬儀のテーマに沿っているから、慶子さんが頭を悩ませる必要はなく、一つ一つの提案に「それでお願い」と頷くだけ。相撲関係者の参列が見込まれるため、通夜料理の内容と量の相談には多少の時間を費やしたが、手書きの見積りを提示し、慶子さんは快く了承した。
尾張さんは故人と喪主に会う前から葬儀のイメージを創造していた。ただ相手の希望を聞くのではなく、売りつけるのではなく、打ち合わせの準備時間がほとんど無かったにも関わらず、提案の全てに意味と願いを込めていた。それは打ち合わせでなく、「提案」と「了承」の連続だった。
午後十一時過ぎ。ホールで慶子さんを見送る。明日から熱海で一泊するらしい。故人が一番気に入っていた温泉の湯を体にかけてあげたいと源泉をもらいに行くそうだ。旅館支配人の許可は既に得ていると笑顔だった。
「家まで送りますよ。」
「いえ。まだ電車が走っていますから。尾張さんはご自宅に?」
「会社に戻ります。明日の午前、別件の打ち合わせがあるので今日の内に発注をかけておきたいのです。それに許可を頂けたら、午後は桜山部屋に伺いたいと考えています。故人様の力士時代、特に幕内昇進された時の話を直に聞いて、喪主様や会葬者様に伝えるべきことがあれば、旅立つ前に伝えて差し上げたいのです。」
読経どころじゃない。やっぱり自分が死する時は、尾張さんに葬儀を担当して欲しい。
「良ければ明日、自分が相撲部屋に行きますよ。」
「しかし次の日は大事な試験ですよね?ご準備は大丈夫なのですか?」
「前日にあたふたしても仕方ありません。それに喪主様の知らない故人様の姿があるのなら、自分も知りたいです。」
「助かります。しかし山野辺さんに知られないように注意して下さいね。」
「はい。」
今日も栞は既に就寝していた。LINEも置き手紙も無い。今日の作り置きはまたしてもシーチキンの入った炒飯と卵スープ。しばらく中華料理が続きそうだ。ずれた布団を直し、栞のおでこにキスをする。そしてソファーに寝転んで、尾張さんと過ごした数時間の過去を、頭の中で何度もリピートした。
※
翌朝、相撲部屋へアポイントを取るために早めに出社すると、一ノ瀬たち同期メンバー全員が珍しく出社していた。各自が目の色を変え、来る明日の試験に標的を絞っている。
「澤さん、おはようございます!」
これまで試験を言い訳に殺伐としていた増田の声が明るく跳ねている。
「何か良いことでもあったの?」
「何となくですが、私も人に必要とされる人間になりたいなって思って。」
一同が顔を見合ってニコニコしている。奇妙に感じたが、直ぐに地下の車庫へ降りて相撲部屋へ電話をかける。
「おはようございます。桜山部屋です。」
「おはようございます。私、葬儀社、想別社の澤と申します。」
「ああ、葬儀屋の方ね。今朝早くにおたくの尾張さんから話は聞いているよ。それで、何時に来られるの?」
やはり、尾張さんにぬかりはない。
稽古で多忙とのことだが、午前十時に訪問のアポイントが取れた。
今日も司会練習で自社ホールへ行くと嘘をついて墨田区の桜山部屋へ向かう。最寄り駅から電車に乗り、学校をサボるような罪悪感と未開の地へ向かうワクワク感に揺られながら両国駅で下車する。
何軒かのちゃんこ屋を通り過ぎる。まだちゃんこは食べたことがない。担当者試験に合格したら栞と行ってみようかと考える。オーソドックスな鶏ガラの塩味が食べてみたいけど、濃い味が好きな栞は味噌かカレーを選ぶのだろうな。意見が割れそうだが、まずは仲直りしないと箸は進まない。
携帯のマップアプリで、容易く「桜山部屋」の木看板を見つける。
一見、ヤクザ事務所のような立派な門構えをしているため、防弾チョッキを着たくなるが、怯まずにチャイムを鳴らす。
「親方なら稽古場に。ご案内致します。」
女将さんだろうか。着物姿の気品高い女性に迎えられると、稽古の大詰め「関取稽古」の真っ最中。巨大な肉体がぶつかり合う衝撃で、地面が振動する。余りの迫力に圧倒され、土埃で革靴が汚れていることに暫く気付かない。
「親方、葬儀社の方です。」
「おお、来たか。元ボディーガードっていうのは君か?思ったよりも小さくて細いんだな。そんなんで要人を護ってきたのか?」
「え、ええ。私は軽量級でして。初めまして。想別社の澤光史と申します。」
「親方をしている角桜だ。力桜について聞きたいのだろう?」
相撲は見ないけど、この方は知っている。元横綱。TVで何度か見たことがある。
「ええ、どのようなことでもいいのです。奥様や会葬者の皆様に、現役当時の故人について伝えられるお話がないかと思いまして。」
「そうか。ただ今はな、ウチの看板力士の稽古中だ。少し稽古を見ていきなさい。力桜の話はその後にでも。」
「分かりました。」
こんなに近くで生の力士を見られる機会などそうはない。人と人がぶつかり合う姿を見ているだけで、苦しい息遣いが都会の息苦しさを吹き飛ばして、こちらまでスッキリさせてくれる。ぶつかる、押す、投げる、そして倒す。その姿が「一足す一の足し算」のようにシンプルで潔い。
社会のルールや、どっちつかずのコンプライアンスがどうでも良く思えてくる。会社のトレーニングルームで護身術訓練に明け暮れた頃をふと思い出す。
「澤さん、だったな。」
「はい。」
「もうすぐ稽古は終わりだ。まあ細いけど、シャツの下はそれなりにええ体してそうだし。一勝負して汗を流していかないか?」
「は、はい?私は勝負を受けるのではなく、逃がす専門でしたので。」
「実は力桜について、とっておきの話がある。しかし男の世界にタダはない。聞きたければ体一貫で勝負。ありきたりな話だけで良ければそれでいいが。」
聞きたい。喪主様のために。そして尾張さんのために。
「分かりました。」こうなればやけくそだ。
「おい!開桜山を呼んでくれ。」
親方が若い力士を呼んだ。ガチムチより大きいかもしれない。裕に百九十センチを超える大男が、オイルを塗ったような贅肉を揺らして歩いてくる。
「期待の若手だ。一分間。土俵から出ずに逃げられたら、澤さんの勝ちだ。」
「は、はい。」最近は筋トレさえしていない。体力が持つだろうか…
「あと、手はついていいぞ。あと倒してもいい。出来ればだがな。」
上半身は裸に、ブカブカの半ズボンを借りて土俵に立つ。
「始め!」と親方の合図がなる。
開桜山の巨体がゆったりと笑いながらこちらへ向かってくる。明らかに手加減をしているが、少し気を抜けば捕まってしまう。
残り三十秒がカウントされ、徐々にスピードを上げる巨漢。逃げても勝負に負ける訳にはいかないと、マタドールのように土俵内を駆け回る。
残り十秒。まずい。踏み止まろうとした右足を滑らせ、隙を見せてしまう。
嘘だろ!強烈な突っ張りが迅速に目の前に飛んでくる。
このままでは突き飛ばされて木っ端微塵になる。怪我をして、明日の試験に支障がでたら本末転倒だ。
眠っていた脳内の危険センサーが発動する。問題ない、焦る状況はない。
鷹の目ブアイはピンチになるほど冷静で、機敏に動く。
瞬時にしゃがみ、両手を地に付けて体制を立て直す。間一髪で右方向へ移動して突っ張りをかわすと、開桜山の体後ろに回り込んで土俵の外に押し出した。
手をついて相撲の一番では負けたが、親方との勝負には勝ったのだ。
「ほう、大した度胸と判断力だ。手をついていいと言われても、いざとなると意固地になって手をつけんのがほとんどだ。どうだ?うちの若弟子はボディーガードとして使えそうか?」
「周囲を威嚇する陽の警護であれば適任ですが、存在を消す陰の警護では目立ち過ぎてしまうかと。」
「ほぅ、警護の世界にも陰と陽があるのか。それは面白い。澤さん、一汗掻いて腹が減ったろう。ちょうどちゃんこの時間だ。食べていきなさい。」
出来るだけ早く会社に戻りたいが、とっておきの話はまだ聞けていない。
と力士が作ったちゃんこをご馳走になる。希望していた鳥ガラ塩味。普段昼食は取らないが、見たことのない大きな椀に盛られたちゃんこを三杯も平らげた。鶏のつみれの歯応えが抜群で、トロトロになった野菜とスープの塩加減が絶妙過ぎた。
親方の部屋で故人、力桜の話を聞けたのは、午後二時過ぎ。
一枚板のテーブル前に座った親方は、アルバムを開きながら語り始める。
「人によって成長のスピードは違う。面構えと体格はいいが、人の何倍も不器用だったあいつが勝てないのは目に見えた分かった。しかしあいつは誰よりも日陰で努力した。相撲を愛し、相撲に人生の全てを懸けていた。」
土俵に上がった若者は思うように勝てずにいたが、努力を怠らなかった。亀のように鈍感であった分、丁寧に心技体を習得し勝ち星を増やした。
「辞める奴には言葉はかけない。辞める者は自分でここを去っていくからな。だから、これまでの引退勧告は、あいつに発破をかけるための激励に過ぎなかった。」
幾度も勧告をしたのは確かだが、相撲への熱意を増強するためのカンフル剤は故人を更に成熟させた。
親からはページを捲りながら、その他にも故人に纏わる思い出話を時系列で聞かせてくれた。愛弟子として親方から愛されていたことが伝わってくる。
そして、「よっこらせ」と重い体を起こすと、部屋の奥から鮮やかな桜色をした化粧まわしを持ってきた。
「実はな、登録こそ間に合わなかったが、幕内昇進を機に、あいつはしこ名を変更する予定だった。一人前の力士としてスタートをする区切りとしてな。」
「そうだったのですか…」
「晩成丸(ばんせいまる)。いい名だと思わないか?不器用で人一倍生きることに時間はかかる。しかし強い信念と地道な努力で最後には結果を出す。癌で苦しんだと聞いたけど、あいつは最期まで諦めずに闘ったはずだ。」
「はい。私もそう思います。」
「この化粧まわしを奥様に渡してくれ。祭壇に飾ってくれても、棺にかけてくれてもいい。そして旅立つ前に、裏にある刺繍を必ず奥様に見せてあげて欲しい。」
涙を流した親方からまわしを受取る。
一度も汗が滲まなかったまわしからは、男くさい匂いはしない。綺麗に保管されていたのだろう。埃一つ被らず、出身地である鹿児島の桜島が黄金色に美しく刺繍されている。このまわしを悲しい過去にしてはいけない。故人を称え、未来を生きる喪主や会葬者の希望にしなければいけない。
親方と女将さんに見送られ、桜山部屋を出発したのは午後三時過ぎ。
駅へ向かうために角を一つ曲がると、営業車に乗った尾張さんが待っていた。
「澤君、お疲れ様です。ずいぶん時間がかかったのですね。」
既に午前の打ち合わせを終えていた尾張さんは、車内で資料をまとめながら待ってくれていた。正に気遣いの塊だ。
「あらまあ。力士さんと闘われたのですか!ということは澤さんが適任でしたね。」
「そんなことは。でも、田名部家の葬儀に携わることが出来て本当に良かったです。故人から聞くことの出来ない声を、拾っているような気がして。」
「そうですね。聞こえない声。ご遺族が気付かない声を拾い、集めることで、私達だからこそ伝えられることがある。想別社の担当者として一番大切なことです。」
中途半端な時間に帰社すると、逆に山野辺に怪しまれる。
尾張さんとファミレスに立ち寄り、塩味を堪能した後に一番高いパンケーキと苺パフェを奢ってもらう。尾張さんは20品目以上の健康サラダとトマトジュースを頼んだ。そして打ち合わせ時のトークテクニックや担当者としての心構えなど、沢山の話を聞かせてくれた。
想別社は大田区にある自社式場以外は箱を持たない。
東京、神奈川、千葉、埼玉。一都三県に点在する公営式場や提携する民間式場を利用して葬儀を行っている。「御社にお願いしたい」と言われれば何処へでも駆けつける。大田区から遠ければ遠い程、ガソリン代などの経費と移動時間がかかる。それでも昼夜問わず車を走らせる。
「想別社のお別れは、呼ぶものではなく駆け付けるものでありたいし、まずは心を込めて故人を送る文化を広げていきたい。日本中に。」
加賀美社長の言葉に呼応し、尊敬する先輩方は時間がある限り、担当する葬儀をとことん追求する。それに後輩の担当する葬儀がよりよいものになるようにと、遅い時間まで後輩の帰社を待ち、親身になって式前MTGをしてくれる。
約二年前。歩くことさえ苦痛で、外に出られなかった日々。車のクラクションを聴くだけで嫌になり、部屋の中に縮こまった。でも、動いた分だけ変化があった。溜まったゴミ袋を捨てに行く。家の目の前にある中華料理屋に拉麺を食べに行く。履歴書を書いて面接に行く。その行動に反応してくれる人がいて、人生に変化が生まれた。
尊敬する先輩と時間を共有して幸せを感じる。踏み出して良かった。
葬儀業界を選び、想別社に入社できて本当に良かったと感じる。
まだまだ尾張さんと話をしていたかったが、「そろそろ頃合いのお時間ですね。」とファミレスを出発し、午後六時前に本社へ到着する。
「今日は終日ホールで司会練習でしたよね?お昼前後に伺いましたが、姿が無かったようですが。」
山野辺が地下の車庫で待ち構えていた。
「お疲れ様です、山野辺さん。実は本日、私の打ち合わせでトラブルがありまして、自社ホールで司会の練習をしていた澤さんに助けてもらったのです。身勝手な判断と行動をお許しください。その分、隙間の時間は試験対策をさせて頂きました。」
「澤さんは私の管轄下にあり、明日に大切な試験を控えた身です。急な予定変更が発生した時点で、教育責任者の私に連絡を入れるのが筋です。」
「山野辺さんの仰る通りです。申し訳ございませんでした。」
年上のエースプランナーが、年下の教育担当に深々と一礼する。
尾張さんのお辞儀はその角度まで美しい。
「葬祭部のエースプランナーがそれでは困ります。但し、尾張さんが直々にレクチャーして下さったのなら、試験の合格は間違い無さそうですね。」
定時帰りへ向けて、山野辺は階段を上がっていった。
「抜け目がないですね。澤さんの今を預かる責任者として、使命を全うしていらっしゃる。素晴らしいお方です、山野辺さんは。」
「はい、同感です。どんな状況でもブレない。尊敬する先輩です。」
昨日と今日。憧れの存在と時間を共にした。
メモ帳には書き切れない、自習勉強では得ることの出来なかった、幸せな時間を与えられた。だから後ろ向きにはなるはずがない。
試験本番の直前に与えられた、合格するために起きてくれた至福の時。
大事にする。
助言と叱咤に感謝して、明日は自分の力を出し切ろう。
― 第二章 「天職」 第三話 完 ―
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