第二章 「天職」 最終話

 

五月七日、友引の日曜日。担当者試験当日。


 先輩社員が早朝から試験会場の準備を進めている。本社の全会議室、地下の車庫と倉庫、想別セレモニーホールを利用して大規模に行われる年一回のイベントだ。

「ひっそりでいいのに。こんなに表立ってされたら緊張するよ。」

「この前の設立15周年パーティーは楽しいイベントだったけどね…」

「ただでさえ人に見られるロープレ形式って苦手なのに。特に打ち合わせ試験の試験官が山野辺さんだなんて。相手が気になって集中出来ないよ。」


 同期から次々と不安の声々が集まる。ネガティブな若い巣からハチミツが生成されることがあるのならば、甘い蜜を舐めさせてあげたくなる悲惨さだ。

 但し、周囲の目ばかりを気にして、各自に秘めた可能性に蓋をしてはならない。試験官を前に収縮し、実力を発揮できないのは虚しいことだ。


「良かったらこれをポケットに入れて。」

「え、これはお守りですか?」

 慣れないことをした。

 顔が火照るが、同期全員にねずみ小僧のお守りを配る。

「ねずみ小僧って誰ですか?」

「響きからして、余り縁起がいいように思えないのですけど…」

 あの大作アニメ―ションを知っている同期は一人もいない。


 昨日の車中に尾張さんと話をしていると、お調子者の山下が裏で自分のことぬりかべと呼んでいることが判明した。

「流石に飛べないぬりかべは失礼ですよね。」

「まあ、実際にまだ担当者として飛べていないですし…」

 まだパンケーキを奢って貰う前で、桜山部屋を出て間もない時だった。長い赤信号で停車中、白湯を一口飲んだ尾張さんの眉毛が勢い良く上がった。

「あ、いいことを思いつきました。」


 そう言って車をUターンさせた尾張さんは、墨田区の寺院内にある「ねずみ小僧の墓」に向かった。そして院内で専用のお守りと袋を6つ購入し、案内されるがままに、二人で墓石の前にある大きな石を削った。


 ねずみ男は大名や商人から盗んだお金を貧しい民衆に配ったことから「義賊」と呼ばれた。警備が厳重な屋敷に幾度も忍び込み、一度も捕まらなかった伝説を持つ。


「これで全員がスルリと難題を突破して合格できるといいですね。本日のお礼です。澤さんから皆さんにプレゼントしてあげて下さい。」

 憧れの尾張さんから買ってもらったお守り。効力がないはずがない。


「嬉しい。澤さんから初めてのプレゼント。」

 目を輝かせ、鼻息を荒くした一ノ瀬が、ポケットではなくバックの持ち手にお守りを括りつける。横にいた増田は胸ポケットにお守りを忍ばせた。

「百花、身に付けないと効力が薄れるよ。」

「いいの。だってポケットに入れたら落としちゃうかもしれないし。」


 何もそこまでしなくても。脇役のぬりかべが渡しただけなのに。しかし、冴えない同期の様子が明るくなったように思う。


「そうだよ。私達のために先輩の皆さんが時間と手間をかけてくれているんだよ。全力を出してあっと驚かせよう。よし。皆で円陣組もう!」

 同期一の元気っ子、その場に立った一ノ瀬が急に大きな声を出した。

「嫌だよ、恥ずかしいよ。」「また急に変なことを言い出した。」

 その反応にも一ノ瀬は止まらない。

「こんな激務な会社で働けない。先輩が神過ぎて自信喪失。状態の悪いご遺体に触れるのが怖い。あと、山野辺さんも。でもさ、色々あったけど、今日まで一人も欠けずに皆で頑張って来られたじゃん!私は皆を誇りに思っているよ。だから円陣を組んで、今日を一緒に戦おう!」


 半ば強引に手を引っ張って、新人デスク近くに小さなドーナッツが形成されていく。一欠片を除いて。

「ほら、澤さんも一緒に!」及び腰だった増田が手招きする。

「いいよ。中途入社だし、同期といっても一か月遅れての入社だし。」

「そんなことはどうでもいいのです!今日だってそう。大事なとき、ピンチの時には澤さんが立ち上がるきっかけをくれる。背中を押してくれる。皆、そうだよね?」

 頷く皆に合流して手を繋ぐ。一緒に闘う仲間に断る理由は見当たらない。試験は個人戦だけど、仲間と手を取り合えない者は、警護員だろうと、葬儀社社員であろうと失格だ。


 若々しいドーナッツが完成する。

 たまに栞が焼いてくれるサクサクのチョコクランチが好きだけど、砂糖を塗しただけのシンプルドーナッツも悪くない。

「チーム澤!ファイティーン!」

「チーム澤!ファイティーーン!」

 余りの恥ずかしさに小声になったが、同期のみならず、周囲にいた先輩社員も大いに笑った。苦笑いだろうが関係ない。口角があがれば前向きになれる気がする。

 一人も欠けることなく全員で合格したい。

 目を尖らせた、目玉おやじのような山野辺梓をギャフンと言わせたい。

 いざ尋常に。ついに担当者試験が幕を開けた。

                

                ※


 自分専用のスケジュール表を見る。

 最初の試験は自社ホールに移動しての設営試験だ。試験官は吉竹課長。

 会葬者百名の仏式葬を想定し、制限時間内に導師机と木魚や大鈴などのお経用具、音響機材、焼香具に司会台、それに受付、記帳所をミスなく準備できるかをチェックされる。


 四つの試験の中で一番自信がある。搬送業務の補助さえ熟せずにいた新人時代。率先して倉庫に入り浸り、何百もある備品の設置位置や特徴は全てノートにメモした。それに備品の積込み、積み降ろし作業に率先して参加した。何処に何がある、どう積み込んでリセットするかは容易いこと。それを続けていたら倉庫番の神田さんに気に入られ、夜遅くまで祭壇や各機材の設営方法を倉庫で伝授してもらえるようになった。音響の配線に養生テープを張って見栄えに気を付ける。記帳台に並べるカードとペンの角度を整える。実寸大の巨大なプラモデルを作り上げるように、滴り落ちる汗の存在を忘れ、無我夢中で完成させる。


 「早いなぁ!まだ三十分も残っているのに、このタイムは歴代ナンバーワンの速さだよ。怪力、迅速とは聞いていたけどここまでとは。それに目立ったミスもなし。設営に関しては文句なしだよ。今すぐ設営人材のSランクを上げたいくらいだ。」

 最高の船出だ。大海原に張った帆が春風を浴びて、船が出港した。


 二つ目の試験は本社の車庫に移動しての搬送・安置試験。試験官は山下だ。

 実際に停車した寝台車を使用し、後部ドアを開けて車輛からストレッチャーを降ろすシーンから始まる。降ろしたストレッチャーの車輪にロックをかけ、シーツ、枕、かけ布団をセットして病院へ入って行く。


 山下が病院スタッフ役をし、院への挨拶と確認事項、霊安室へのお迎えに不備がないかをチェックする。そして山下が遺族役へ切替わり、遺族への挨拶、病院出発までの案内、ストレッチャーの扱い方や立振る舞いまで一連の動きを細部に渡り採点する。ここまでが前半戦。


 後半戦は布団をくるめて作った模擬故人を車輌から降ろし、自宅に安置するまでの流れ、ドライアイスをあてた後の線香道具の設置、お参りの案内までをチェックする。ご遺族を不安にさせず、堂々と、誠意ある対応が出来ているかが重要だ。


「まだ少し硬い表情に感じましたけど、ぬりかべは遂に空を飛んだのではないでしょうか。入社当初に比べて見違えましたよ、澤さん。」

 山下の言葉を素直に嬉しく思うが、いつもの覇気がない。

「お前が冗談一つ言わないなんて、何か事件でも起きたのか?」

「はは。事件なんてそう簡単にはおきないですよ。でも実は…」

「何だ?会社に脅迫状が届いたとか、社長が誰かに狙われているとか?」

「違いますよ。実はモモちゃんなのですが、先ほどここで試験を受けていたのです。でもご遺体を車から降ろす際にストレッチャーの操作を誤って地面に落としてしまったのです。その後も続けたのですが、ずっと泣きながらで…」

「そうか。一ノ瀬が…」


 円陣を組んで一番大きな声を出していた。最近は遅刻も無くなったし、昨日だって真面目にこの試験の練習に望んでいた。彼女がいなかったら同期の誰かはネガティブの沼に嵌り途中で辞めていたかもしれない。同期一番のムードメイカーだった一ノ瀬が涙を見せるなんて。


 自分事のように悔しく残念な気持ちになるが、時間は待ってくれない。牛乳を混ぜたプロテインを飲んで、次の試験会場へ向かう。


 三つ目の試験は難関の司会・ナレーション試験だ。後半二つの試験には苦手意識がある。宝島に辿り着くためにも、本社にある会議室の前に設置された椅子に座り、昼食を摂らずに創出した時間で原稿を読み込む。

 あっという間に時間となり、会議室のドアをノックする。


「いらっしゃ~い、澤君。調子はどうだい?」

 試験官は仏の日下部部長だ。お腹に多くの脂肪と愛を蓄えて、七福神のイラストが描かれた湯のみでお茶を啜っている。

「本当はゆっくりお茶でも飲みながら、澤君が担当した奥田家の話を聞きたいところだけど、あいにく今日は担当者試験だものね。」

「はい。厳正な指導とチェックをお願い致します。」


「目が鋭いねえ、それに肩に凄い力が入っている。僕はガンダム世代だから、君は赤い彗星のシャーと闘いにいくアムロのようだよ。でもねえ、君は闘いに来ているのではない。悲しみに暮れるご遺族を安心させ、時には癒しを与える案内をする葬儀担当者なのだよ。だからまずは力を抜きなさい。」

 部長は背後にあるドリンクサーバーでホットコーヒを淹れ、ゆっくり飲むように言い、少し時間を空けてくれた。


「ナレーションは君の苦手分野だと聞いているが、真面目でストイックな君のことだから、原稿が擦り切れるまで、何度も読み返して来たのでしょうね。」

「はい。脳に染み込ませて、見なくても話せるように自分なりの努力は…」

「染み込んだのに、原稿をじっと見続けるから困惑するのです。顔を上げて意識を天に近付ける程、染み込んだ努力が開花する。不安が昇華される。ですから私を喪主だと思って、原稿を見るのは必要最低限。僕の目を見るのが恥かしければ、この広いおでこでいいからね。まずは仏式から始めよう。」

「は、はい。」

「君の思いを、紙にではなくて、届けたいご遺族に向けてごらん。」


「只今より、故 想別太郎様の葬儀、告別式を謹んで開式致します。本葬儀は喪主様のご意向により、仏式、曹洞宗にて執り行います…」

 そうか。原稿が頭に入っていなかったのではなく、伝えるべき相手に自分の心が向いていなかったのだ。部長の照ったおでこを見つめながら前を向いた顔からは、今までより自信に満ちた声、間合い、抑揚が生まれているような気がする。


「只今よりご焼香を賜ります。係の者がご案内致しますので、喪主様より順にご焼香台へとお進みください。」

 原稿から目を離し、今まで目にしてきたお葬式の映像が流れてくる。自分が堂々としていれば、顔を見て安心してくれる遺族がいる。自分の声がはっきりと届けば、迷うことなく葬送に集中し、会葬者は故人を偲ぶことが出来る。


 間違える、間違えないではない。届くか、届かないかなんだ。


「うん、いいと思うよ。あとは場数を踏んでいくだけだよ。弔電については見慣れない言葉が多いから、通夜の前日に必ず語彙と読み方を確認しておくこと。それに読み方が難しい差出人がいらっしゃれば、シャープペンで薄く振り仮名を買いておくこと。あと拝読する順番の番号も忘れずにね。そうすれば間違いを恐れる必要はない。もう君は大丈夫だよ。」

 部長のアドバイスは適格で、時間はあっという間に過ぎた。

「じゃ、これで試験は終了です。」

「え?これで終わりですか?」

「うん。じゃあ、余った時間で奥田家様のお話を聞かせて。」

 余った二十分。コーヒーをお替りして、部長と楽しく話をした。


「それはとってもファンキーな喪主様でしたねえ。ああ、そろそろ時間だね。最後の試験は何ですか?」

「打ち合わせ試験です。試験官は山野辺さんです。」

 部長は「ワッハッハ」と腹太鼓を叩いて笑った。

「理想的な順路ですね。何かと仕込まれた感は否めませんが、山場というものは最後に控えるからこそドラマチックです。」

「そうですね。私もそう感じていました。」

「グッドラックだよ、ミミガー澤君。」

「はい。ミミガー、です。」

                

                ※


 打ち合わせ試験会場の会議室Aに到着する。

 海を渡ってきたのはいいけれど、此処は鬼岩城か竜宮城か。資料の入ったキャリーバッグと共に、刻々と決戦の時を待つ。

「山野辺さん…半端ない…」

 真っ青な顔をした増田が退出する。鬼の総大将、山野辺のことだ。無理難題をふっかけて、結成したばかりの一味全員の合格を先延ばしにしようと企んでいるのかもしれない。ハンカチで額の汗を拭う。


 定刻。ドア向こうから「どうぞ」と冷徹な声が届く。

 微糖の唾をゴクリと飲み込み、ドアを二度ノックして入室する。


「葬儀社、想別社の澤と申します。宜しくお願い致します。」

「そちらの椅子におかけになって。」


 驚いた。淀殿か極道の妻か。黒い喪服に身を包み、いつもの薄化粧から打って変わっての厚化粧。紅赤の唇が強烈に相手の視線を鷲掴みする。揺動作戦の極めつけはいつもの眼鏡をせず、切れ長の二重瞼から醸される鋭く無力な眼光。山野辺はイベント事に全力を注ぐ女性なのか。夫を亡くした未亡人を見事に再現する。


 事前情報を頭で整理する。若くして夫を失い、山野辺が妻で喪主で子供はいない。故人は急性心不全。職場で倒れて亡き人に。ご遺体は自宅に安置。親族五名前後の家族葬を希望し、自宅で打ち合わせをする設定だ。

 一番広い会議室の中央にポツリと置かれたデスクで顔を合わせ、喪主は早く何か話せと無口を貫いている。


「この度はご主人さまのご逝去に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。しっかりとお見送り頂けるよう、誠心誠意お手伝いさせて頂きます。」

「はい。宜しくお願いします。」

 一切表情を変えず、力なく、淡々と答える山野辺。突然に夫を亡くし、他人に心を許す人間はいない。会社説明や式場提案にも「はい」と単調に答えるだけだ。

「続いてお葬式のご要望についてですが、ご親族のみで五名程度の…」


 何かが来る。閉じていた赤い唇が薄っすらと開く。

「はじめはそう考えていたのですが、親戚は皆さん遠方に住み、ご高齢のため参列しないことになりました。私達夫婦には子供がいないので、葬儀は一切必要ありません。火葬だけして下さい。」


 火葬式。儀式を行わず、火葬前に数分のお別れ時間があるのみの極めてシンプルな形式。営業面でいえば、見積金額が格段と安くなるため会社からは望まれない。その簡略度合いを含め、火葬式と家族葬の流れを比較して説明をするが、頑固な山野辺の考えは変わらない。


「何度も言いますが、見送るのは私だけ。付き合いのあるお寺もないし、こうして自宅で一緒に過ごせているのだから、火葬だけで十分です。」

 眉間に皺を寄せる山野辺。ここで無理に方向転換しても本末転倒だ。

「ド」の音だけで「のど自慢」が終わってしまう。


「畏まりました。それでは火葬式でお話を進めさせて頂きます。喪主様の仰る通り、ご夫婦だけで自宅で過ごすお時間が、何よりも大切なことだと思います。」

「そうですね。」

 このまま火葬式の見積りを取れば、問題なく打ち合わせは終わる。無理矢理な理由付けをして商品を売りつけても意味がない。でも、このままでいいのだろうか。このままで悲しみに暮れる喪主は救われるのだろうか。


 会議室内の匂いを嗅ぐ。山野辺がつけた淡い香水の匂いしかしない。

 室内全体を見渡すと、細長いデスクの隅にある物が目に入る。

 人魚の模様が入ったシルバーの額に収められている夫婦の写真。遺影用の写真だろうか?夫妻がお洒落にドレスアップして抱き合っている写真だ。

 もちろん山野辺本人の写真ではなく、顔だけが鉄仮面に加工されている。


「あちらに飾られている写真は、何かの記念写真でしょうか?」

「ええ。もし遺影を作るのなら、その写真をと思いまして。」

「間違っていたら申し訳ないのですが、五月十一日はお二人の結婚記念日でございますか?」


― Wedding Anniversary 5.11.2020 ―


「あんなに小さな文字と数字がよく見えるわね。」

 鷹の目と言われたことがある。写真の隅に記された文字と日付も見逃さない。

「次の結婚記念日まで、あと四日だったのですね。」

 あなたには関係ない。他人のあなたには。喪主の顔がそう訴えている。


「気分が害してしまい申し訳ございません。しかしご主人の存在を振り返り、心に刻むためにも、もう一度。二人だけの結婚記念日を迎えませんか?」

「でも、そんなに日が空いたら主人の体が痛みます。記念日よりも夫の体が心配ですし、亡くなってまで負担をかけることは出来ません。」

 徐々に言葉数が増える。恐らく喪主の核心に触れた。故人への袖口から愛が姿を現して、本音が聞こえてくる。目が合う。後は熱意を伝えるだけだ。


「こちらをご覧いただけますか?エンバーミングと呼ばれるご処置です。」

 エンバーミングを施せばご遺体の腐敗を長期間防ぐことができ、これ以上ドライアイスをあてる必要が無くなる。お体や皮膚を傷めずに自宅で夫婦の時間を過ごすことが出来る。日々ドライアイスをあてるよりは高額だが、相応の価値がある。


 記念日までの四日間。自宅では二人が好きだった荒井由実の音楽を流し続け、作った料理を同じ部屋で食べる。前日には写真に映ったお気に入りの洋服に着替えて出発することに決まった。

 端から見れば日数の伸びた、ただの火葬式なのかもしれない。しかし、妻にとっては一生忘れることのない新たな命日になる。そう感じた。


「嫌でなければ、自宅を出発する前に、お二人の写真を撮らせて下さい。」

「気が向いたら。」

 口元が一瞬緩み、直ぐに元に戻った。

 その後、手書きの見積書と当日のスケジュール表を提出。

 終始険しい表情だが、目の前にいるのは「鬼」ではなく「不愛想な妻」だった。


「試験終了です。結果は明日の終礼後に。では。」

 一日がかりの試験が終わった。達成感はあるがそれだけではない。もし不合格だったら、葬儀の仕事は向いてないと判断し再び転職を考えるかもしれない。そして分かり合えないままの栞に捨てられて、また引きこもり生活に戻ってしまうかもしれない。しかし、そうなったとしても後悔は少ないだろう。


 そうだ。警護現場を終えるごとに感じていた感情だ。

 来ないかもしれないと思っていた明日がやってきて、その日を精一杯生きる。

 それをずっと繰り返していた。

 ジャケットの裏ポケットに遺書を忍ばせて、遺す言葉が変われば机に向かって万年筆を走らせる。

 それもずっと繰り返していた。

 その日を精一杯に生き始めていることに、今、気付いた。


 試験会場の片づけを行いオフィスに戻る。試験に携わって頂いた先輩の席に向かい感謝を伝える。「まずは今日までよく頑張ったな」と労いを受ける。

 自席に着くと、同期が全員揃っている。朝礼の時とは違い、試験を終えた充実感に浸るものは一人としておらず、苦戦、疲労した様子が明らかだった。一ノ瀬に限っては両腕で円を作って、悲しいドーナッツに顔を埋めている。


「皆さん、お疲れ様です。」

「あ、澤さん。お疲れさまです。試験、どうでしたか?」

「うん。出せることは出せた、かな。」

「流石、澤さん。」

「結果は明日だ。今日は早く家に帰ろう。」


 久しぶりに早く家に帰って栞と話がしたい。試験の結果は明日だけど、互いをどう思っているか、これからのこともしっかり話をしたい。手抜きの中華料理でなくて、凝った料理をまた食べたい。


 他のメンバーが気怠そうに帰り支度を始める中、一ノ瀬は微動だにすらしない。泣き疲れたのか。涙してはないようだが、亀の甲羅のように背中を丸めている。


 今日、日下部部長に言われた言葉を思い出す。

「澤君達はね、六人と人数は少ないけれど、一人も欠けずに担当者試験を迎えた初めての代なんだよ。入社前にどれだけ葬儀の仕事をイメージしても、この仕事は甘くない。ご遺体を見て、悲しむご遺族の姿を毎日のように見なければならない。気力、体力が必要で、葬儀の依頼が来れば昼夜は関係ない。まだまだ閉鎖的な業界で、葬儀社を良く思わない、見下す方々もいる。だから君達は少数精鋭。この人達なら会社の未来を担ってくれると、人事以外にも多くの先輩社員が関わった。君は特別だけど、何度も選考を重ねて入社してくれた、選ばれし者達なんだ。だから今年は新卒社員を採用していないんだ。今日まで仲間同士で支え合い、頑張ってきた君達を、私は誇りに思っています。」


 今日まで、同期を元気づけてくれた一ノ瀬を心から誇りに思う。

「一ノ瀬、また明日な。」背中をそっと叩いて退社する。


 自宅への帰り際。嬉しいメールが届いた。

(澤君、お疲れ様です。無事に試験は終わりましたか?先程、田名部家の通夜を終えました。澤君が体を張って預かった化粧まわし。奥様にお渡ししたら、泣いて喜んで下さいました。そして親族の皆様に手伝って頂いて、お通夜の前に棺にかけました。その様が凄く素敵で、菩提寺様も恰好良いと褒めて下さったよ。そして通夜後に奥様にお声がけして、まわしの裏の刺繍を見て頂いたよ。しばらくその場に座り込まれて泣き続けていらしたけど、私は嬉し涙だと信じています。澤君、心から感謝しています。本当にありがとう。またファミレスに行きましょうね。尾張 清太郎)


 良かった。ご遺族と尾張さんの役に立てたのだ。


―まだ間に合う まだ返せる

 晩成に奢らず これからは慶子へ不屈の恩返しを 晩成丸―


 付けることのなかった晩成丸のまわし。

 人の秘めた想いは、いつか伝わる。

 込めた想いが強いほど、永く、じっくりと力を留めて、その時を待つ。

 諦めなければ必ず伝う。

 死した後にでも、淀みなく伝う。


 故 田名部敏郎様は、最期まで晩成だった。

 翌日、澤光史は、晴れて想別社の担当者になった。


― 第二章 「天職」 最終話 完 ―

 

 










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