第二章 「天職」 第二話


 栞との仲が険悪になったからだけではない。担当者として独り立ちするまでに吸収すべきことが供糖のように山積している。先輩が行う葬儀の式前MTGには出来るだけ出席し、夜の会議室を拝借して自習をすれば自ずと帰宅は遅くなる。


 就寝時間を早めた拗ねた同居人との会話は減った。それでも夕食を作り置きしてくれているが、「シーチキン炒飯」や「ニラ玉丼」等、以前より明らかに手を抜いた料理が増えている。だから無言のマイナス波動を感知して、リビングのソファーで睡眠を取るようになった。苛立ちはなく、圧倒的な申し訳なさが安眠の地を奪った。


 実質、自分は葬儀社社員。身辺警護員でも、引き籠りの居候でもない。早く一端の担当者になって基本給を上げ、少しでも栞を安心させたい。


 そのためには結果で示すしかない。

 明後日の担当者試験に向け、午前七時に出社し自習に励む。夜遅くまで賑やかな社内の毎朝には別の良さがある。一時の休息で電気信号の更新が弱まり、「澄み」が広がる。


 オフィス中央部に設置されている神棚。神具から神聖なイオンが噴射され、無音無臭の心地良さが広がり、都会のオアシスを形成する。誰かが連れ来たお化けや生霊がいようと構わない。サーバーから放たれた温かい静岡茶で喉を潤し、サンプルの司会原稿を読み込む。昨日は曹洞宗と浄土真宗本願寺派だったから、今日は日蓮宗と友人葬にしよう。


「只今より、故想別太郎様の葬儀・告別式を謹んで開式致します。」

「おはようございます!」

 入口で深々と一礼した加賀美社長が意気揚々と挨拶する。

「おう、澤!朝から励んでいるな。」

「社長、おはようございます。明後日が試験なので。」

「だいぶ防弾メッキが剥がれてきたようだな。和らいできた。表情も声も。」

「ありがとうございます。」 


 社長が背中を一つ、二つと叩く。警策で叩かれるより優しい精魂注入だ。

「得意の護身術を発動しないのか?」

「ええ。社長は危険度ゼロですから。」

「でも人間は分からないぞ。新規取引先の候補企業が前金を返さずに昨日頓挫したばかりだかりで心底腹が立っているんだ。」


 社長は笑顔でフロアー奥にある自席へ向かった。加賀美社長は恩人だ。社会人である前に、一人の人間として救いの手を差し伸べてくれた。早く会社の戦力になりたい。給与に見合った仕事をしたい。期待に応えたいと原稿を握る手に力が入る。

       

                ※


 昨年の五月上旬。世間はゴールデンウィークの真っ只中。四月に新入社員を迎えて間もない多忙な期間にも関わらず、想別社からは手書きの履歴書が到着したその日に電話連絡が来て、翌日には面接に応じてくれた。


 警護員を退職し、四月半ばから就職活動を始めた。二月に出会った栞の支えがあって、二足歩行で外を歩けるようになったのは二月半ば。手足に力が入るようになったのは三月終わりだった。例え知恵のある人間でも退化をして、再び立ち上がるのは大変なことだと思い知らされた。


 転職に関して栞は一言も口出しをしなかった。流石に葬儀社で働くと伝えた時は渋い表情を見せたが、返事さえ出来なかった男が、貸したノートパソコンを開いて就職活動を始め、スーツを着て面接に向かう成長過程を間近で見守ってくれた。面接前夜は回鍋肉と雲吞スープに加え、天津飯まで作ってくれた。流石に全部は食べられなかったが、まずは一次面接を通過するぞと意気込んだ。


「君はどうして他人のために命を懸けてきたの?」

「え…それは…」

「緊急連絡先は友人の女性、独身。今、誰か大切な人はいるの?」

「いえ。いません。」

「僕には愛する家族がいて、信頼する友人が大勢いるけれど、仕事上の相手に自分の命を懸けろと言われたら、きっと出来ないよ。」


 何故なのか。自分でも答えは出てこない。

「失礼だけど、何か嫌な過去があって、自分の命なんて蔑ろにしてもいいと、投げやりに思っていたの?」

「いえ。断じてそのような理由では。」

「うん。そうしたら、君はその正体を探しにきたってことでいいのかな?」


「はい。実は昨年、私の身代わりになって命を落としてしまった大切な人がいました。情けないのですが、そこからずっと立ち上がれずにいます。それから何もかもが無意味に感じて、結局辿り着いたのが(人の死)でした。」

「でも亡くなった命は蘇らないよ。君が護ってきたのは生きる命だろ?」

「漠然としていて申し訳ございません。しかし、対象者の生命を護ってきた私は、命の重み、尊さを知らずにいました。だからこそ得体の知れない何かから逃げ続けています。」

「そうか。だから生きた心地がしない風貌なのだね。」

「すみません。」


 これでは一次面接で落選だ。でも仕方がない。落武者がいとも簡単に武将に受入れられるはずがない。この会社は諦めよう。自分の意思で面接に来られただけでも大きな進歩じゃないか。と席を立とうとした。


「ねえ、まさか防弾チョッキは着ていないよね?」

「ええ。もう警護員ではありませんから。」

「残念だな。どれくらい重いのか、頑丈なのか、知りたかったな。」

「防刃ベストなら私物があるので、宜しければ持ってきます。」

「結構だよ。二次面接はないから。」

「そうですよね。すみません。」

 予想通りだ。見事に花は散ってしまった。


「ねえ、もし君が復活して、僕が護って欲しいと言ったら、護ってくれる?」

「警護員の復帰は考えていません。でも本当に困っているのであれば必ず護ります。」

「分かった。そうしたら土日はしっかり休んで、月曜日から出社してくれるかな?」

「え、でも二次面接は?」

「要らないよ。だって一応、僕が社長だもん。加賀美です。これからよろしくね、澤光史さん。」


 久しく交わしていなかった握手。共に鍛錬を重ねてきた警護員たちの手よりは小さく、きっと握力も大したことはないのだろうが、ザラザラしていて、度重なる苦労を乗り越えてきた分厚い手。


「まさか社長だったなんて。」

「それを明かしたら、君は力んで素を出せないでしょう?あ、でも君なら人によって態度は変えなさそうだね。すんごい実直さを感じるもん。真っ直ぐな一本線。」

「い、いえ。融通が利かない頑固者なだけです。」

「いや。僕に出来ないことを使命にしてきた君は、人として途轍もなく恰好いい。心から尊敬するよ。君がこの会社で学ぶことは多くある。でも社員が君から学ぶことはもっと多くあると思う。君が来てくれたら会社は、仲間はもっと強く、優しくなれる。今日という日に君と出会えて、僕はとっても嬉しいよ。」


 救いが続いている。

 絶対「今」から手を離したらいけないよ。室内に漂う誰かの魂がそう訴えているようだ。もう「今」から逃げたくない。ここで働きたい。


「加賀美社長、宜しくお願い致します。」

 腰が折れんばかりのお辞儀をした。

「もし僕が誰かに襲われそうになったら、その時は防刃ベストを貸してね」

 貴重な自習時間に、社長との思い出が混じった。

 久しく感じたことの無い、気持ちのいい朝を過ごした。 

              

               ※


―カシャ―


「澤さん、おはようございます!」

「一ノ瀬、おはよう。っておい、人の顔を勝手に撮るなよ!」

「だって良い横顔だったから。澤さんのそんな穏やかな顔、始めて見たかも。」

「おい、消せよ。無断撮影だぞ。」

「嫌ですよ。せっかくの激レアをゲットしたんだもん♪」


 一ノ瀬が同期に画像を見せびらかして笑い合っている。

 あっという間に時間が過ぎ、午前八時半。

 既に社内には昨晩の活気が戻っている。

 先輩社員が本日のスケジュールや担当する葬儀についての話を交わしている。どんな時も彼らの話題は故人や遺族のことばかり。不謹慎に感じるかもしれないが、故人の遺影やデザインパネルを見せ合って、微笑みや真剣な眼差しが交差している。

 彼らの情と熱が人肌から溢れている。


 ここは会社ではない。

 確かにプライベートを犠牲にしているかもしれない。新聞やニュース、それにアプリで漫画を読む暇もなく、世間に疎い集団だ。余りの激務に深夜の高速で車の窓を開けて発狂する先輩もいると聞く。


 大袈裟なのかもしれないが、探偵になりきって故人の人生を辿り、心理学者になりきって遺族の深層心理を探る。心拍が停止した冷え切った遺体なのに、まるで人命救助に向かうかの如く、年中無休、二十四時間、関東圏内を走り回る。

 遺族が未来を生きる糧になると思えることならば、想別社の担当者は、例え思い上がりや的外れであったとしても体をフル回転させる。


 四つ葉のクローバーがキーアイテムであれば、何百キロの距離があっても取りにいくし、故人が愛したSLの汽笛を録音したければ、深夜の高速をかっ飛ばして生音を録音しに行く。そんな人達ばかりが集まっている。

 だから職人気質の口悪い人、すれ違いから恋人別れて苛立つ人、それに酒浸りで指を震わせる人でも、誰もがどこかで敬い合って、認め合っている。


 その情熱が葬儀に気吹を乗せる。

「サービス」の器を食み出した想別社のお別れは一定の利用者に高く評価され、「日本で一番温かいお葬式」と呼ばれ始めた。今では三年連続、都内の葬儀社成長率でナンバーワンを記録している。


 朝礼が終わり、多くの先輩が打ち合わせや葬儀施行のために社を勢い良く飛び出していく。中途入社して約一年。自分も使命に向かう担当者になりたい。


 すると、教育責任者の山野辺が新人デスクゾーンへと歩いて来た。

「皆さん、おはようございます。いよいよ担当者試験が明後日に迫っています。今日と明日の二日間は通常業務から外れての自習期間です。先輩の皆様方が皆さんの業務を負担して貴重な時間を用意して下さっています。こちらが試験のスケジュール表です。各自の弱点は明確で、一年もの準備期間があったのです。当然いい結果が出ることを楽しみにしています。」

 素っ気ないが、彼女も大きな使命感を抱き、真剣に教育に携わっている。


「ありがたいけどさ、あの顔、あの口調で言われてもね…」

「プレッシャーだけで、モチベが下がるよね。」

「何で教育担当が山野辺さんなのだろう?それだけは意味不明だわ。」


 同期の本音は仕方がないのかもしれない。人の事は言えないが、超硬合金のような人だ。彼女の鋼を貫く矛先が存在するのかと思わされる強情さだ。

 その鋼の成分を調べたくなるが、試験準備が先決だ。先輩が与えてくれた二日間を有意義に過ごさねば。直ぐに葬儀の予定が無い想別セレモニーホールへ移動し、司会練習を行うことにした。

                

                 ※


「お葬式にだって、驚きと感動があってもいい。」

 二〇〇八年四月。

 著名な大道芸人だった加賀美さんが創業した葬儀社「想別社」。

 社長自身が東京で母を亡くし、不透明な料金設定、加えて何の特徴もない形式ばったお葬式に疑問を抱いたことから始まった会社だ。


「おかんは僕ら団員の芸が大好きだった。ピエロ姿になって、出棺前のおかんに芸を披露したいと伝えたら、式場だの寺都合だので葬儀社さんに断られてしまった。まだ葬儀業界と遺族の想いの間には大きな隔たりがあると感じたんだ。」


 潔く芸人を辞め、都内の葬儀社で修行を重ねた加賀美さんは、大田区内にある古い木造倉庫を間借りして事務所を構えた。そして持ち前の明朗な人柄で繋いだ人間関係を駆使し、どんなことでもした。


 葬儀を担当することなく、座席、焼香案内をする式典スタッフとして。重い祭壇器具や生花を運ぶ人材として、他社の葬儀を手伝い続けた。

 そして合間に欠かさずに行っていた地元での営業活動が少しずつ実を結び、自社で行う葬儀件数を増やしてきた。


 此処、唯一の自社式場である「想別セレモニーホール」は創業から十年後の二〇十八年四月にオープンした。 

 鉄筋コンクリート造りだが、内外の壁一面には温もりを感じる木造タイルが貼られ、見た目は大きなログハウスに見える。しかし葬儀場からは逸脱していない。モダン和室は品格を感じさせ、宗教者や年配者が寛げる。ダークブラウンで統一された受付テーブルや記帳台などの常備品には威厳を感じる。


 式場は約百席の大ホールと三十席の家族ホールがある。遺族から希望があれば、清め所ではなく式場内で食事をすることが出来る。通夜の夜には好きな音楽を薄っすらと流しながら、布団を敷いて家族団欒の一夜を過ごせる。それにスクリーンで映画や動画を見ることも可能だ。

 加賀美社長の拘りで、音響と照明器具はライブハウス並みに整っているから、無宗教や音楽葬には打って付けだ。


 祭壇にもオリジナリティ―が溢れている。

 最大千個の生キャンドルを供えることが出来るモニュメント祭壇。強化アクリル素材の容器に水と魚を入れて、会葬者に癒しを与えるアクアリウム祭壇。都会のネオンを表現する光り輝くステージ機材もある。どれも厳正な社内決議を通過し、専門業者へ特注した代物だ。

 伝統の仏式白木祭壇や神式祭壇も常備しているが、ここには、これまでのお葬式にはない世界観がある。


 告別式の予定がない家族ホールを拝借して司会練習を始める。

 白手袋をはめて、マイクの電源を入れ、音量を調整する。

 警護員時代から愛用しているボイスレコーダーを起動し、喪主席に置く。ついでに拡大コピーしてきた山野辺梓の顔面を、テープを使って背もたれに貼る。

 鉄仮面に動揺しなければ、大抵の遺族相手にも平常心を保てると思ったからだ。


 仏式、学会葬、キリスト教、無宗教。各原稿をひたすら読み続ける。

 哀悼、惜別、勤行、祈祷、衷心、懇ろ、そして合掌。もう二度と間違えない。

 少しでも原稿から目を離して喪主の山野辺を見る時間を増やしたい。

 

 汗が原稿に滴り落ち、黒インクが滲む。

 慌てて拭き取ろうとして、真っ白な手袋が鼠色になる。


 夢中になって望んだ警護員養成学校の訓練。

 初めて自分の意思で進んだ道。

 夜のバイトを掛け持ちしながらテキストを読み、無線機をつけて著名人に扮した対象者をエスコートし、六本木、渋谷、新宿など都内を駆け回った。仲間と協力して警護車輌のドアを幾度も開閉し、多少の怪我を厭わずに退避訓練を繰り返した。

 

 今も同じように汗を掻いている。

 また、あの時と同じように生きる目標がある。

 

 午後は本社に戻って打ち合わせ試験の練習。

 昼食など食べる暇はない。玉になったプロテインを全力でシェイクし、一気に飲み干し本社へ戻る。


 予約していた会議室Aに向かうと、一ノ瀬が扉の前で待ち構えている。

 ニヤケと懇願が混ざった表情に、嫌な予感しかしない。


「澤さ~ん、一生のお願い。今から搬送と安置の練習を手伝って欲しいの。急な仕事入って山下さんがいなくなっちゃったから、私一人ではできなくて。」

 他の同期に相談したのかと聞いても、「だってえ」とはぐらかす。

 確かに搬送、安置の練習には人手がいる。病院スタッフ役に遺族役。それに車輌、ストレッチャーを始め、線香道具や布団一式の準備も必要だ。

「はい、これ肩叩き券一時間分です。」

「分かった。手伝うよ。なら会議室のキャンセルをしないと。」

「既にキャンセル済みです。てへ♪」

 午後は用意周到な一ノ瀬のスキルアップに貢献することになった。

                

               ※


 何かに立ち向かう時、無性に時間を憂い、恋しくなる。


 明後日に控えた担当者試験。給与が発生する勤務時間を丸一日与えられたというのに、課題が浮き彫りで残ったままになる。

 午後六時前。定時ベルを待ち、一ノ瀬たち新人は荷物をまとめて退社の準備を始めている。駅近のファミレスに集合して勉強会をする者がいれば、自宅に帰って精神集中する者もいるだろう。


 自宅に仕事は持ち帰りたくない。既に日下部部長に会議室Bで一時間の自習する許可は得ている。抗いを重ね、若干でも後悔を削ぎ落とした後は、スーパーに寄って栞の好きなクリームシチューを作ろう。まだルーと蟠りは解けていない。


 すると、けたたましい電話の受信音がフロアー内に響く。

 電話番の吉竹課長が受話器を取り、「大変ご愁傷様でございます。」が聞こえる。 

 誰かの命が消え、助けを求めている。その場にいた全社員に緊張が走る。


 迎えに行く当番はスケジュールで管理されていて、この時間の一番手はエースプランナーの尾張さんだ。一度電話を切った課長と尾張さんが対応について話をしている。その他の社員はフロアーの片隅に移動し、小声で終礼を行う。


 気になる。熟練プランナーの尾張さんが何やら困った顔をしている。

 滅茶苦茶に興味をそそられる。自然と目が、体が尾張さんに向く。

 そして目が合ったような気がして、早歩きでこちらやってくる。

 プランナーの誰もが憧れるエースが半人前に何の用が…

 終えられた葬儀の事務処理依頼だろうか…それでも光栄だけど…


「澤君、お疲れ様です。一つお願い事を聞いて頂けないでしょうか?」

 尾張さんは誰にでも平等で謙虚で誠実だ。羽根が生えていたら妖精確定レベルの聖人で、自分が死んだらお坊さんでなく、尾張さんに読経と説教をして欲しいと本気で思っている。正に想別社の象徴たる存在だ。


「仰せの通りに。」

「有難うございます。実はこれからお迎えに伺う故人様がとても大柄な男性で、想別ホールへの移動が私一人では難しいようです。試験直前で申し訳ないのですが、ご安置までお力添え頂けないでしょうか?」

「畏まりました!直ぐに車輌とドライアイスの準備をしておきます。先輩は資料などの準備を!」


 役に立ちたい。尾張さんと、その先にいる遺族の力になりたい。憧れの先輩と時間を共に出来る。発する一語一句、所作、使っている手帳の種類でも、嵌っている趣味でも何でもいい。話を聞きたい。生き様を吸収したい。


「何かあったのですか?」

 まだ帰らずにいた同期一の心配性、増田若葉が声をかける。

「今から安置対応に行ってくる。あの尾張さんと!」

「え、何で澤さんが…試験明後日ですよ!」

「今、助けを必要とされている人が、自分に助けを求めている。来ないかもしれない明後日より、大切な今を選ぶに決まっているだろ。」

 唖然とする同期に一礼して、尾張さんと夜の東京へ繰り出す。

              

                ※


 迎え先の病院は会社と同じ大田区にあり、下道を使って十五分程度の道のりだ。帰宅ラッシュで混んでいるが、指定時間の午後七時には十分間に合う。


 病院を間近にして、助手席の尾張さんが魔法瓶に入れた白湯を飲む。

 なぜ白湯なのかを聞きたいが、会社を出てから同じ経路で後につくBMWを念のため警戒しているため声をかけ辛い。

 運転には自信がある。名だたるⅤIPを幾度も送迎したし、対象者車輌を護衛するため高度なドライブテクニックを磨いてきた。それでも助手席の神様を気にすると、ハンドル捌きが若干鈍る。


「澤君はお相撲が好きですか?」

「え、相撲ですか?いえ、すみません。野球くらいしか知らなくて。」

「突然すみません。今年のWBC、とても感動しました。大会終了後のドキュメンタリー映画も拝見したのですが、監督、コーチ、サポートスタッフと選手が一体となって優勝を辿った経緯に涙が零れました。」

「ええ、私も同感です。」


 まだBMWが後ろにいる。サイド、バックミラーに目を凝らし、停車時にはドアノブを握って待機する。それに違反、事故にも注意にも注意する。でも尾張さんの発言の意に執着し過ぎて警戒力が落ちる。


「諦めないことは、素敵なことですよね。」

「そうですね。準決勝のメキシコ戦、あの逆転劇は凄かったです。」

「それも、そうですね。」


 携帯で何かを調べながら尾張さんは穏やかに言う。画面を押す指の動きが、鍵盤を叩くように軽やかで優しい。そして尾張さんは指までも長く、細く美しい。


「澤君は元民間の身辺警護員でしたよね?私より随分に力持ちでしょうから頼りにしています。私は休みの日にスポーツジムに通っているのですが、まだまだ非力で。」

「そんなにお体の大きい方なのですか?」

「はい。男性四人がかりでも難しいかもしれません。喪主の奥様より、体重は百五十キロ前後と伺っております。」

「百五十キロですか…でも大丈夫です。お体は絶対に落とさず丁寧に移動します。」

「澤君が想別社に来て下さって、今日も目が合って本当に良かった。澤君といると自然と勇気が湧いてきます。いつも頼りにしています。」


 嬉し過ぎて、一時停止のサインを見逃してしまいそうだ。

「故人様は力士だったのですか?」

「はい。故人様のお名前は田名部敏郎様、享年五十一歳。肝硬変によりご逝去されました。喪主は奥様の慶子様。元横綱の角桜親方が師事する桜山部屋の所属力士で、更新はされたものの、当時の幕内昇進最年長記録を打ち立てられました。しこ名は力桜。怪我により一場所持たずに引退されましたが、当時四十一歳の故人様に感化され、同世代を中心に多勢の方が勇気づけられたそうです。」

「四十を超えての昇進ですか。それは凄いことなのでしょうね…」

「ええ。並々ならぬ気迫と努力があったはずです。私達も気を引き締めて、使命を全うしましょう。」


― 第二章「天職」第二話 完 ―

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