<中> 転機

 あれから数週間。

 私たちは相変わらず線を描きながら『案件』をこなし、何とか生き長らえていた。「劇場前」の方は警察の一斉検挙や一斉補導とかがあったけど、この小さな公園までは対象になっていなかったようで、警官が来るようなことはなかった。


「こんばんは」


 振り返ると、あの女の子の父親・シゲルさんが立っていた。


「わっ! 本当に来てくれたんだね!」


 私の声にみんなも集まってきた。


「誰がいい? それとも、みんなでする? ちょっとお高いけど」

「ハーレムプレイ、おすすめでーす」


 みんなケラケラ笑っていた。

 そんな私たちを優しい微笑みで見渡すシゲルさん。


「みんなの人生、丸ごとオレにくれないか?」

「……はっ?」


 シゲルさんの申し出に「はっ?」としか言えない私たち。

 シゲルさんは続けた。


「今、女性向けのアクセサリーブランドを立ち上げようと思ってる。みんなには、アクセサリーのデザインやそのショップの店員とかを任せたい」

「えっ? 何? 詐欺的な何か?」

「ち、違う、違う!」


 私たちの訝しげな視線にシゲルさんは焦った様子だ。

 シゲルさんは、プラスチックや金属を加工する会社に勤めていて、新しい事業としてアクセサリー部門を立ち上げようとしているとのこと。高級志向ではなく、子どもたちや中学生、高校生、そしてシルバー世代をターゲットに、手が届きやすくて高級品と差別化できるアクセサリーを展開したいらしい。

 もちろんお給料も出るし、住むところも提供してくれるとのことだったが――


「絶対に成功する確約はできないけど、どうだろう?」

「……ごめん、シゲルさん。私たちには無理だよ」


 ――私は提案に後ろ向きだった。

 みんなもうつむいている。きっと同じ気持ちだろう。


「どうしてだい? まぁ、確かに給料は安いけど……」

「そういうことじゃないよ」


 私たちは、左腕の袖をめくった。

 私たちのキャンバス。無数の線が刻み込まれたキャンバス。

 昨夜描いた線は、まだクリムソンレーキの絵の具が滲んでいた。

 シゲルさんは息を呑み、言葉を失っているようだ。


「わかったでしょ。キモいオッサンとセックスして食い扶持稼いで、リストカットしなきゃ生きてる実感が得られない私たちを雇ったりしたら、シゲルさんの立場が無くなって、新規事業どころの話じゃなくなるよ? アイツは買春してるって言われるよ?」


 私たちの描いた無数の線を見つめるシゲルさん。

 『かまってちゃん』『メンヘラ』『死ぬ気なんて無いくせに』

 どうせまた心無い言葉を投げかけられて――


 シゲルさんは突然その場で片膝をついて、跪いた。

 そして、私の左腕を手に取り、無数の傷跡にそっと口づけをした。


「シ、シゲルさん!」


 驚く私にシゲルさんは答えた。


「ヒロミちゃんが必死に頑張って生きてきた証だもの。だから、自分なりに敬意を……って、キザだったかな」


 顔を赤くして苦笑いするシゲルさん。


 彼は、キャンバスに描かれた無数の線を、繰り返し何度も刻み込んできたリストカットの痕を『必死に頑張って生きてきた証』だと言ってくれた。

 枯れ果てたと思っていた涙が頬を伝う。

 立ち上がったシゲルさんの顔が見れない。

 声の震えを止めることができない。


「わ、私……兄に犯されて……」

「うん」

「赤ちゃんまで堕ろして……」

「うん」

「身体を売って……」

「ヒロミちゃん」


 顔を上げると微笑んだシゲルさんがいた。

 涙でぼやけているけど、とても優しい笑顔を浮かべていた。

 そして、私の頭を優しく撫でながら言ってくれた。


「ヒロミちゃん、本当に一生懸命生きてきたんだね」


 私は涙ながらに何度もうなずいた。


「そんなヒロミちゃんが心配することなんてひとつもないからね」


 そして、みんなを見渡すシゲルさん。


「みんなも。みんな、頑張って生きてきたんだよね。その左腕の傷跡がその証だよ」


 みんな手で顔を覆い、身体を震わせていた。


「この先、みんなを傷つけるヤツらからは、オレが守る。頼りないかもしれないけど……でも、全力で守るよ!」


 私も、みんなも、シゲルさんにしがみついて泣き叫んだ。


 身体を売って悪夢から逃げていた。

 リストカットして死ぬことから逃げていた。

 もう生きている意味なんてどこにも無いことから必死で目をそらしていた。


 でも、こんな汚れた私たちを正面から受け止めてくれるひとがいた。私たちの穢れた心に寄り添ってくれるひとがいた。私たちが生きていることを認めてくれるひとがいた。

 この喜びは言葉にできない。止められない感情の高ぶりに、私たちはただシゲルさんにしがみつき、泣き叫び続けた。


 シゲルさんはそれ以上何も言わず、優しい笑顔を浮かべながら、泣き叫ぶ私たちの頭を撫で続けてくれた。


 この日を境に、私が悪夢を見ることは無くなった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 その後、シゲルさんは弁護士や児童相談所のひとたちと共に、みんなの親との交渉にあたってくれた。が、かなり難航した。


 借金に追われ、非合法なアダルトビデオへ強制的にミー子を出演させていた母親とは連絡が取れなかった。ミー子曰く、金貸しに取っ捕まって場末の熟女風俗で泡にまみれているんじゃない? まぁ、それで済んでりゃラッキーだけどな、とのこと。


 不倫癖のある母親から存在が邪魔だと刺されたことのあるアヤっちの母親も音信不通で所在不明。アヤっち曰く、いい加減もういい年こいたババァだし、誰からも相手にされずにどっかで野垂れ死んでるんじゃねぇの? 不倫相手の奥さんに刺されて死んだパターンも有り得るな、とのこと。


 唯一連絡が取れたのは、リクの母親だった。

 リクに幼い頃から性的虐待を加え続けてきた父親とは、その件がネットへの動画流出がきっかけで発覚し、リクが家出後に離婚。父親は児童ポルノ禁止法で逮捕され、前科があったことから実刑となった。母親とリクが顔を合わせることはなかったが、シゲルさんや弁護士を前に土下座して「リクをよろしくお願いいたします」と涙を流しながら何度も頭を下げていたらしい。でも、その話を聞いたリクは、何の興味もなさそうだった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 私たちは、会社が借りてくれた3DKのマンションを住居兼仕事場として新生活をスタート。住民票もここに移し、保険証ももらえた。何だか普通の社会人のようだ。

 諸々の保証人は、シゲルさんや会社がなってくれた。こんな私たちを信用してくれて本当に感謝している。

 会社のひとたちとも顔合わせをした。事情を全部知っているとのことだったので正直不安だったが、それは杞憂に終わった。私たちの過去のことは誰も触れてこず、大歓迎で迎え入れてくれたのだ。


 何のノウハウもなく、知識のない私たちを迎え入れたのは、この会社と、そして何よりもシゲルさんにとって、とても大きなリスクのはずだ。私たちはそのことを心に刻み、どんな苦労をしてでもアクセサリー事業を必ず成功させることをみんなで誓い合った。



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