新卒マジック

佐々井 サイジ

新卒マジック

 新卒マジック。それは新社会人たちが、オトナにたじろぎつつも人間関係を必死に築く中で、先輩や同期がアプリで加工したように過剰に美しくカッコよく見え、桜の木に葉が育ち始める頃に恋愛が生まれることをいう。そしてそのほとんどの恋は桜の花びらのように短期間の栄華のあと、すぐに散ってしまう。


 新社会人・野本も新しい恋心を密かに育んでいた。野本は大学を卒業後、地元で不動産賃貸仲介業の会社に就職。同期の中に寺西ひかりがいた。彼女は素朴な顔立ちが性格を表しているかのように、先輩からの指導を素直に聞く姿勢とスカートから伸びるやや肉付きのある脚を野本は好きになった。


 新社会人であるがゆえ、いきなり客前に出ることはない。研修担当の社員から座学の研修を受ける毎日。だが、ひかりの隣に座れるだけで野本のモチベーションは最高潮だった。「お昼だし、休憩行っといで」これが心が躍り始める瞬間だった。家で事前に調べたひかりが好きそうな店を提案して行くようになった。


 野本の同期には、池田という体の凹凸の無い痩せた男の同期もいた。顔面偏差値も仕事偏差値も四十未満だった。しかし、ひかりに良いところを見せるため、野本は家で復習した業務を池田に教えていた。「野本くん、努力家だね」ひかりの一言は野本を搔き立てた。


 ここだけの話だが、野本は彼女いない歴二十三年だ。バレンタインのチョコレートも母親と七歳年の離れた姉からしかもらったことがない。弟なら身近に女性がいるから扱いになれるはずではという声が聞こえるが、どこにでも例外は存在する。野本は中学生まで女子とまともに会話できない男子だったのだ。


 転機は高校進学だった。野本は甲賀市というかつて忍者が存在していた地域の出身だった。周囲はほぼ市内から出ようとしない中、野本は自分のことを誰も知らないところに行った方がキャラを変えられると思い電車で一時間かけて通学することを決意し、滋賀では賑わう地域の高校に進学した。


 野本の試みはほとんど成功した。野本は進学してから、愚直に男女問わず話しかけた。最初は会話に変な間が空いたが、恥を忍んで姉にも女子との会話の仕方を聞いてスキルアップした。おかげで野本はクラスにいち早く溶け込み、浮いている生徒を引き込む立場にまでなることができた。


 一定のクラスカーストの地位を揺るぎないものにしたが、好きな女子に告白することがどうしてもできなかった。高校の三年間、ずっと思いを寄せていた内山紗菜がいた。高一の終わりに告白するぞ、高二になったら、夏休み前に……。告白の期限を先延ばしするうちに紗菜には三人彼氏ができていた。


 結局、紗菜に告白できないまま卒業を迎え、大学に進学した。ちなみに野本は大学でも思いを寄せる人に出逢うものの、紗菜のケースをトレースしたように告白できず卒業している。だからこそ、ひかりは人生で初めて告白し、成功できるかもしれない極めて大きなチャンスなのだった。


 にもかかわらず野本は良い同期という関係性から抜け出すことができない。内定者研修会の時期から一緒になることも多く、もうお互い抵抗なく話すことができるのに、だ。ひかりの横顔を見るたびに僕は切なくなる、という誰かの楽曲の歌詞にありそうなセンチメンタルな気持ちに苛まれる野本。


 しかし、業を煮やしたのか、まさかのひかりから動きがあった。「家のwi-fiがつながらなくて困ってるんだよね」これは家に来てつなげてほしいという合図なのか。野本は人生で最も早く頭の思考を巡らせた。もうチャンスはないかもしれない。口から出そうな心臓を手で押さえながら言った。


「俺、直しに行こうか?」


 野本がインターホンを鳴らすと微かに足音がしたあとに間が空いてドアを開けてひかりが顔を覗かせた。「野本くん、わざわざごめんね」まさか本当にひかりの部屋に入れるとは。無理やり抑え込んでいた下心はもう膨張しすぎて蓋が閉まらない。しかし野本は漬物石を想像して無理やり蓋で欲望を抑え込んだ。


 Wi-fiはいたって簡単だった。テレビの裏にあったルーターのほこりを掃除して、もう一度接続し直すだけでwi-fiが問題なく起動した。楕円形のテーブルにはお茶らしき飲み物とお菓子が置かれていた。


「お礼にしては貧相なんだけど、ごめんね」


 気遣いのできるひかりに野本の心臓は暴発寸前だった。


 胃もたれするほどお菓子を食べても「好きです」が言えない。二十三歳で未だに童貞だとバレたら、そもそも付き合ったことがないとバレたら引かれるに違いない。そんな考えが去来して、ついに告白できず、ひかりの目が無くなるほどの笑みで感謝されながら、甘い匂いのする部屋から出るのであった。


 GWが明けて野本は早めに出社した。「野本くん、休み明けなのに仕事頑張ってるね」とひかりに言われたいからだった。「おはようございます」とひかりが出社してきたとき野本は違和感を抱いた。一年先輩の丸山とひかりが同時に出社してきたからだった。偶然だと思った。だが、その偶然はそれから毎日続いた。


 久しぶりに同期とご飯に行ってきなと上司から言われ、野本は三人で以前ひかりから好評だった店に行った。もう同期の池田のことなんて考える余裕はなかった。まさか丸山さんとひかりが……。そんなわけない。こんな非生産的な思考しか回せずに店員に指示されたテーブルに座って一段落するとひかりが言った。


「実は丸山さんと付き合うことになったんだ」野本は重低音が心臓に響くような気持の悪さを感じた。ひかりを直視できず、池田に視線を置き続ける。その後はひかりが何を話していたか覚えていない。池田が祝福していたことに怒りを覚えたくらいだった。以降、何の仕事をしたかも頭から抜け落ちていた。


 休日に野本はスーパーへ食材を買いに出かける道で、ひかりと丸山が手を繋いで歩いているところを見かけた。彼女は白のショートパンツを履き、薄い緑のサマーニットと黒いカーディガンを合わせている。あの美脚は丸山さんに良いようにされているのか。羨望と嫉妬が野本の下半身を逆立ちさせ始めた。


 人前で顔を近づけ合ってこけそうになりながら歩く二人を見て、野本は熱が冷める心地がした。これは新卒マジックだったんだと。過剰にきれいに見えていただけだったんだと思った。ちらりと見えたひかりの横顔は特徴のない顔に思え、丸山への羨望と嫉妬と下半身の膨張は急速に萎んでいった。

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