百華舞う夜

あかさ

第1話 

青嵐の空、一羽の鷹が悠々と風に乗り、地に薄色の影を落とす。

「くあー。吞みすぎた。ちょっとばかし腹が重い……」

鷹は大きな嘴を広げると、くわっと欠伸をしながら気だるそうに呟いた。

目は半開きになり、今にも閉じてしまいそうだ。大きな翼の羽ばたきは、力強さに欠け、徐々にその身は降下し始めた。もはや風に身を任せているだけの状態に変わってきている。

決して羽を痛めたり怪我をして弱っているからではなく、単純に酒に酔っているだけである。

「あー……。もうすぐ陽が暮れてしまう。浅樹に怒られてしまうな。頑張れ儂。もうすぐそこだ」

自身に気合をかけなくてはならない程に、体力が限界に近づいてきている。

目指す先は、もう一山超えたところにある、蒼詩(あおし)の森。

この鷹は、、その森の主である水神・昊我(こうが)である。近くに住まう神の祝い事の知らせが届き、幾日か滞在してきたところだ。祝い事とあっては断れぬと、進められるがままに呑んでしまうのが昊我の良いところであり、悪いところでもある。最も、無類の酒好きだから断る理由など、どこにもないのだが……。

「いかん……」

風の流れに体を揺らされ、酔いが回ると同時に強烈な睡魔が襲ってきた。目を開くのも、羽を動かすのも億劫になってきた。

意識が途切れそうになった時、一陣の風が昊我の周りに勢い良く現れた。昊我の体を絡めとるように風が包む。その風の香りに覚えがある昊我は、その身を風に任せた。

「頭から墜落するおつもりですか」

風が止んだところで、昊我の体を腕で受け止めたのは、蒼詩の森の精霊・浅樹(あさぎ)である。昊我はひとつ欠伸をすると、安堵の表情を浮かべた。

「ああ、助かった浅樹。そろそろ来る頃だと思っていたところだ」

「全く。どれだけ呑んだらそこまで酔えるのですか。森に辿り着く前に、その身がどうにかなったらどうしますか。大概にして下さいませ」

「すまん、すまん。説教は後から聞くから。今は一刻も早く床に就きたいから後は宜しく頼む……」

そう言うと、昊我は浅樹の腕の中であっという間に伸びた。

気を許して貰っていると、喜んでいたのは遠い過去の事で。目の前のだらしないとも言える無防備な姿を晒され、水神の威厳はどこ吹く風かと、浅樹は諦めの嘆息を溢す他なかった。浅樹は、豪快にいびきをかき始めた、鷹の姿のままの昊我を懐に抱き、森へと滑空した。


人里離れた蒼詩の森、そこは若葉が芽吹き、新緑の季節を迎えていた。

樹々は陽の光を受けて生命力に満ち溢れており、風に吹かれてゆらゆらと揺れ、緑一色の景色がどこまでも続いている。

森にはいくつかの清水が沸き出ており、それらが合流し、一つの川を形成していた。美しい清水は森を潤し、樹々は瑞々しさを保っている。清水が最も多く湧き出る場所は、この森の湖となっている。

そこには、森に住む動物や鳥が集まり、草花も咲き誇り、陽光を受けて輝く水面を風が滑り、穏やかに波打っていた。恵み豊かなこの森は、楽園のようであると詠われていた。

湖の畔には、静かに佇む樹齢千年のヒバの樹があり、長い年月を経て大木となった幹は、蒼詩の森の随一の巨木である。樹の幹に背を預け正座しているのは、ヒバの樹の精霊・浅樹。

浅樹は陽を受けると、銀色の輝きを放つ白髪を長く伸ばし、後ろでゆるく一つに纏めている。淡黄色の着物の上に青磁色の羽織りを纏い、袖から覗く指先はとても細く白い。

伏せられていた双眸が、陽の光を受けて静かに開かれた。翡翠色の瞳は湖の青を映し出し、瑞々しい輝きを含んでいる。

いつもなら、ここで湖の美しさに見惚れながらひと時の時間を費やすところだが、今日ばかりは違う。

「……」

翡翠色の瞳の視線は目の前で伸びている、一羽の鷹に寒々と注がれている。

浅樹は、丁寧な所作で立ち上がり、湖にたもとに跪き両手を浸して水を掬った.。溢れそうなほどの水を両手に溜めると、鷹に近寄り無言のままに一度に落とす。

バシャリと音がした瞬間

「‼」

突然、冷水を浴びせられた鷹は驚き、飛び起きると羽をバタつかせ、突如、本来の姿である人型に戻った。

「……」

慌てて飛び起きた為か茫然としている。

「なんで水が……?」

 昊我は頭から次々と水滴が滴り落ちていく理由を探してみた。

いつの間にここに来たのか全く分からん。

犬のように頭をフルフルと振るい、水滴を飛ばした。寝起きの上に酔いが残っているので、頭は機能してはくれない。

祝い酒と御馳走をたらふく食べて呑んで呑まれて呑んで。

それはそれは心地良く帰路に着いたような気がする。そして、どうしたか、だ。何故今現在濡れているか、も含めてだ。

昊我はこの森の水神だ。艶のある黒髪を短く切り揃え、白銀色の着物に藍色の帯を締めている。その帯には金糸の細かな刺繍がほどこされており見事だ。黒の瞳は深く濃く、強い輝きを放ち、懐の深さを感じさせる。がっしりとした体格でもあり、ハクを感じさせる風貌である。最もいつもなら、の話で今現在は濡れネズミのような状態であるが。

 ぼんやりした頭も徐々に覚めてきたらしく、周りを見回すと見慣れた顔がそこにあった。

 無駄に冷ややかな視線を投げかけている浅樹を視界に捉えたところで、昊我の脳裏には朧気ながらも昨日の記憶が蘇った。そして濡れている意味も理解した。

「浅樹よ。もう少し優しくてもいいんじゃないか?」

昊我は、盛大に溜息を吐き、頭を振って水しぶきを飛ばしている。

「起こして差し上げたのです。優しいと思って下さいな。いつまでも伸びた姿のままでいては、森の皆に示しがつかないと言うものですよ」

「どうってことないだろうがこれくらい。いつものことだ」

「いつもだから毎度私が迎えにいく羽目になっているのではありませんか。祝い事とはいえ、加減して呑むようにと、立たれる前に強く申し上げましたのに」

「あー……そうだったかもしれん。すっかり忘れておった!いやなに、祝いの席で酒を断るなんて無粋な真似はできまいし、皆の顔を見ていれば、酒も一層美味くなるというわけでな。美酒爛漫とはまさにあのことだな」

昊我は思い出しながら、うんうんと頷いている。

「ご迷惑をおかけするようなことはされてませんよね?」

 反省している素振りが全くない昊我の言い分に、ぐったりとしながら浅樹は尋ねた。

「……たぶん」

「……」

 昊我は再び冷たい視線を浴びせられている。

記憶を辿っても、誰もが上機嫌に酒盛りをしていただけのように思えて、誰かと口論したようでもなかった気がする。記憶のあるところでは。従って導き出される答えは問題無し。

「まあ、大丈夫だろう!小さいことは気にするな!」

昊我は両手をパンと一打ちして、浅樹からの冷たい視線に終止符を打った。いつものことなので慣れてはいるが、持続的ではやはり気分が良いものではない。

「そうですね、無事に帰還したことですし、良しとしましょうか」

溜息混じりに浅樹が溢す。

「そういえば、主催から土産を頂戴したぞ。浅樹や森の物たちにも是非にと言っていた」

懐から取り出したのは小さな瓢箪だったが、それを地面に置いて手をかざすと大きな水瓶となった。中には並々と酒が注がれており、豊かな香りがする。さきほどまで冷ややかな視線を投げていた浅樹だが、酒を見ると相好を崩した。昊我ほどではないが、浅樹も酒好きなのだ。

「美味い酒は皆で呑むとしよう」

「有り難いですね。とても美味しそうです」

 浅樹の機嫌は一気に良くなった。神経質なきらいはあるが、単純なところもあり、熟知している昊我からすると、浅樹の扱いはあまり難しくはない。

昊我は濡れた着物を、陽と風に良く当たるように態勢を整えた。

不変的な存在として蒼詩の森を守り続けてきた昊我と、そこに寄り添うように長い時を一緒に過ごしてきた浅樹。動物の生は短く、植物の生も変遷していく中、千年という時の長さというのは自然界に置いて稀なもので、昊我にとっても浅樹の存在というのは頼もしく、強き支えでもある。

仲が良いだけに、優しく、時には厳しく昊我を叱咤できるのもこの森では浅樹だけだった。この森の物たちも、それはよく見知っているので、湖の畔で繰り広げられる痴話喧嘩のようなやりとりを、咎めるものは誰もいない。

草花は笑い歌い、樹々はくつろぎ、湖の精霊は悠久の時の中で浅く深く眠りについているのが常だった。動物たちも変わる変わる湖の畔に遊びにきては昊我たちと戯れ興じる。

怖れ敬われるのではなく、同じ目線での共存が昊我の願いであり、それこそが蒼詩の森に平穏な恵をもたらす光の加護となっている。

昊我が持ち帰った水瓶に気づいた森の住人たちは、珍しがって、そこかしこから集まってきた。浅樹は兎や鹿たちと微笑み合いながら語り合っている。その光景は昊我が一番好きなものだったので、目を細めながら微笑ましくみていた。

微かに酔いが残る体を横たえ、湖畔に集まり戯れる者たちを見ていると、胸の奥底から優しさと愛おしさが溢れ出てくるようで、なんとも言えぬ温かさに包まれる。湖を滑る風を感じながら、昊我はうつらうつらと眠りに吸い込まれて行きそうになった。

大人しい昊我を心配し、浅黄が具合でも悪いのかと聞いてきたので、なんでもないと言って手を振り誤魔化す。

隣に腰を下ろした浅樹が、囁くような静かな声音で言う。

「昊我様が留守の間、木霊たちと話をしていたんです。なんでも、隣の山ではもう蛍が見られるそうですよ。ここの湖でも、もうすぐ見られかもしれませんね」

「蛍?そうか。もうそんな時期になったか」

「ええ。毎年見ていますが、今年も楽しみでなりません。何しろ、この蒼詩の森の蛍の数は近隣の湖や川と比較しても、桁違いの多さですからね」

「当たり前だろう」

 昊我はうっすらと目を開けながら、自信あり気な笑みを見せた。

「昊我様がいらっしゃるから、と皆口を揃えて言っていますよ。勿論私も」

 珍しくも、素直な賛辞に意標を付かれ、昊我は目を見開き視線だけを浅樹に向けた。浅樹は、満足そうに微笑んでいる。

「……そんなにあの酒が早く呑みたいのか?」

「は?」

「いや、なんでもない」

 浅樹は、呆れたように溜息を吐く。

「あなた様の捻くれにも参ったものですね。素直に受け取ったらいいじゃないですか」

「お前が儂を褒めるなど、滅多にないことだからな。裏があるのではと訝ってしまっても仕方あるまい。もしや儂は今夢の中か?まだ目が覚めていないのか?」

 浅樹は昊我の額をぴしりと叩いた。

「痛いぞ」

「夢じゃないとご理解頂けて何よりです。あとは、皆の期待に答えられるようもう少し威厳を湛えて下されば言う事無しです。あなた様は蒼詩の森の守り神である水神なのですから」

「威厳など、余分にあっていいものでもあるまい。儂には今が充分だ」

「そうやってはぐらかす」

 浅樹は不服そうにしていたが、昊我は今の状態に満足していた。森があり、友が居て、森に住まう者たちが幸せであれば、それで良い。威厳を振りかざし支配する気もなく、崇めたてられたい訳でもない。

 蒼詩の森の水源が清らかさを保ち続けていられるのは、自分の力だけではない事を知っていた。浅樹はそこまで理解してくれていると思っていたのだが。

「それに……お前は分かっていないな。この森の清らかさの源は何か、を……」

「え?何と仰いましたか?」

 再び睡魔に襲われて、途切れ途切れの昊我の声を、浅樹は耳をそばだてて聞こうとしたが、聞き取れなかったらしい。昊我は小さな寝息を立てて眠っていた。

 風の音、湖のせせらぎ、樹々の葉擦れの音、動植物たちの賑やかな話声が、昊我の眠りをふわりと包んだ。

 初夏の陽光は、森に集う者たちを明るく照らし、のどかなひと時を与えた。大地も湖も温められ、蛍の誕生は目前へと迫って来ていた。

 時は、真夏へと向かって静かに過ぎゆく。



大地を温め尽くして、生命に陽を宿し終わった後、一日の役目を果たした太陽が姿を隠した。稜線から溢れ出る残り陽が、空一面を朱色に染めると、何処からともなく虫の鳴き声が響き渡った。

リーン、リーン。

リーン、リーン。

鳴き声を合図とするかのように、湖には森の住人が沢山集まり始めた。草木も樹々も、いつもは早寝をするおしゃべりな鳥や動物たちもこの日を待ちわびており、眠い目をこすりながらも仲良く語らっていた。

やがて夕闇の幕が森に降りはじめ、月明かりと星の瞬きが森を照らし始めた頃、ぽっとほのかな明かりが、ひとつ灯った。

「あ!蛍!」

一羽の鳥が大きな声で言う。その声を聞き、皆一斉にしんと静まりかえった。

淡い黄緑色の光は、ひとつ、またひとつと闇夜に浮かんでは消え、強く弱く儚く光る。待ちに待った蛍の舞いが始まりを告げた。

「わぁ。綺麗」

どこからともなく声が挙がる。

蛍の数は時間と共に増えていく。生を受けて一年、ようやく空へと飛び立つ事が出来た蛍は、次々と自然の中へと飛び立つ。

 次から次へと、舞い立つ蛍は時間と共に増えていき、やがては数百から数千へと増えていく。湖一帯を浮遊し、ほのかな明かりで森を照らす、これがこの湖で毎年皆が待ちわびている蛍の群舞である。

蛍が舞う様子を、静かにを見守っていた昊我と浅樹は、微笑みを交わし、そして昊我は皆へ声高らかに告げた。

「今年も素晴らしい蛍の舞いが始まった!皆も思い思いに飲んで食べて歌うとしよう!」

歓声が挙がり、湖の畔にはいくつかの明かりが灯され、宴会が始まった。蛍の舞いに合わせるように、草花は静かにメロディーを奏で始める。鳥や動物の中には、それに合わせてしっとりとした躍りを披露するものもいた。

皆、御馳走を食べながらお酒を飲み、蛍の群舞にうっとりとしている。

蛍は空へと飛びだせた事が何より嬉しそうに、輝きを増していった。畔に佇む昊我と浅樹の元に浮遊してきて、肩や袖に留まるものもいた。

昊我は喜び、好きなだけ蛍に体を貸している。頭にも腕にも数匹の蛍が留まっている。

「儂の方に多く留まるか、浅樹の方に多く留まるか、賭けてみるか?」

昊我はにやりと笑いながら浅樹を見る。

「そんな賭けしませんよ。結果は見えていますからね」

「始める前から敗北宣言か?」

昊我の言葉を聞き、浅樹は自信満々に言い切った。

「いいえ、勝負は私が勝ちます」

「なぜ、言い切れる?」

「私の方が、蛍が留まると美しく見えるからです。そしてその姿を見た蛍がまた次々と……」

昊我は一瞬時が止まったような顔をし、噴出して大声を上げて笑いだした。

「そ、そうだな。美しいものは美しさに惹かれるからな……」

昊我は笑いが止まらないらしく、目尻に涙を浮かべている。

「……冗談ですよ」

浅樹は大笑いしている昊我を、横目でちらりと見ながら呟く。

「いやいや、いいと思うぞ。美しさでいったら儂は到底お前には勝てそうにないから、辞退申し上げる」

負けましたと言わんばかりに昊我は手を振っている。浅樹は軽く息を吐き笑っている昊我から視線を外し、再びふわりと舞う蛍を見た。

ひとしきり笑った昊我もまた、ほのかに光る蛍をまじかで見ながら、今年も良い夏が来た、としみじみと思っていた。  

そっと差し出した浅樹の手のひらに、一匹の蛍が留まり、ほのかに灯る。わずかな温度も感じ取れる浅樹は、手のひらで命の灯を感じていた。

誰もが時を忘れ、蛍の舞いと湖の演奏会に酔いしれた。


蛍の寿命は、雄は約六日、雌は約十二日とされている。前年の初夏に産み付けられた卵は、一年の時の中で脱皮を繰り返し幼虫になり、約一カ月のサナギの時期を超えて成虫となり空へと飛び立つ。寿命を終えるまでに産卵をして命を繋でいく。この約十日間の輝きはとても儚く、幻のようでもある。


ある日の夜、いつものように湖の畔に座り、蛍の舞いを眺めていた昊我に、一匹の蛍が飛んできた。蛍は昊我の膝に止まり深々とお辞儀をした。

「昊我様。お願いが御座います」

「どうした?」

蛍は緊張しながら、たどたどしく言った。

「私は……こうして飛び立つ前は、長い間水の中で暮らしておりました。その後、土繭の中にいた時も時折外に出て四季を見てきました」

蛍はゆっくりと語り、昊我はその言葉をしっかりと聞いた。

「自然界はいつも美しく、そのまぶしさにいつも感動しておりました」

蛍は記憶を辿り、うっとりとした表情をした。

「中でも、一番心を奪われたのが冬の雪景色です。雪の舞い降りる様子を見てから、雪と一緒に舞いたいと思うようになり、その思いは日毎増すばかりです。でも……」

言葉が途切れ俯き加減の蛍を見て、昊我は「どうした?」と優しく続きを促す。

「私達は夏のうちに命を終えてしまいます。雪の降る頃に、外の世界で飛ぶことは出来ません」

昊我は頷きながら言う。

「確かにそうだな」

「はい。ですが、私はどうしても、雪の降る世界で飛んでみたいのです。……どうか、お力を貸して頂けないでしょうか」

蛍は昊我の膝に頭を付けて懇願した。

「……そなたはいつ成虫になったのだ?」

「今日です」

「早々に儂のところに飛んできたのだな」

「はい……」

次第に声が小さくなってきた蛍に向けて昊我は言った。

「では、まだ満足に飛んでいないだろうし、役割も果たしていないだろう。己の仕事を果たした後、再び来るが良い。その時気持ちが揺らがぬ様なら考えてみよう」

その言葉を聞いた蛍は、勢いよく顔を上げて昊我を見た。

「分かりました!ありがとうございます!」

蛍は何度も繰り返し深々とお辞儀をした。必ず来ますので、と言い残し仲間の元へと飛んで行った。

やり取りを近くで見ていた浅樹は、昊我の傍へ行き声をかける。

「昊我殿、簡単ではないかと思いますが、何か策があるのですか?」

昊我は、う~んと唸る。

「覚悟があるのならば考えてみようと思っている。その時には浅樹にも力を貸してもらうが良いか?」

昊我は何か企むような表情を浅樹に向ける。

「はぁ……」

浅樹は気の抜けた返事をしつつも、承知しましたと頷いた。


 蛍が舞う湖は毎夜賑やかに時が過ぎていった。湖の畔には、噂を聞きつけた近くの森の鳥や獣も遊びに来てくつろいでいた。皆が喜びを享受出来ている事を、昊我は心から満足していた。



 昊我の元に蛍が相談に来てから5日後、再び蛍は昊我の元へ飛んできた。

「昊我様、お役目を終えて参りました」

「ご苦労であった。そして、心積もりはどうだ?」

蛍は昊我の眼をじっと見つめて口を開いた。

「仲間と毎夜舞って、それはそれで幸せなのですが、どうしても雪への憧れは消え去りませんでした。日毎想いは増すばかりです」

蛍は短い手を一生懸命伸ばし、額を地面に付け懇願した。蛍の眼には涙が浮かんでいて、ぽとりぽとりと地面に点を付けた。 昊我は蛍にそっと手を伸ばし、その身をすくい上げ自分に近づけた。

「仲間は、お主の心の内を知っているのか?」

「はい。土繭に居た時からずっと言っていましたから、変わり者、大馬鹿者と言われていました」

「そうか。お主のような小さな体では、雪の中に飛び立ったとしても、その寒さに耐えられぬだろう。冷気は体に染み入る。想像以上に雪の世界というものは辛いものだ。もし、飛べたとしても……もって一夜限りの事になると思うが」

「構いません!元より短い命です。最後は、夢見る雪の中で終えたいのです!」

昊我はしばし思案したが、承知したと頷いた。

「心は変わらぬようだな。お主の勇気を買うとしよう」

その言葉を聞き、蛍は瞳から大粒の涙をいくつもいくつも落とした。昊我は目を細め、優しく笑いながら言う。

「涙はもう良い。待望の時までとっておきなさい」

蛍は何度も頭を下げて、ありがとうございますと言った。

昊我は近くにいた浅樹を手招きして呼ぶと、事の流れを伝えた。浅樹は蛍をそっと撫でる。微笑みを向けられた蛍は浅樹にも深くお辞儀をした。

「私の方ではもう準備は整っておりますよ」

浅樹の言葉を聞き、昊我は浅樹が宿るヒバの樹へと近づいていく。

その後を浅樹も着いていき、こちらです、とある部分を指し示した。

そこにはヒバの樹にできた、くぼみがあり、木の葉や枝が丁寧に敷き詰められた寝床が完成していた。

昊我は浅樹にご苦労と伝え、蛍を手のひらへと移し、もう片方の手をかざし、蛍の体の周りに薄い皮膜を作った。皮膜は5センチほどの円形をしていて、蛍の体は、中央に置かれるようにして包まれた。

「夏が終わり秋が来る。そして、気温が下がっていき紅葉の時期を終えると、ようやく雪の降る冬が来る。約半年ほど時間が経過し、お主の願う日は訪れる。それまで、この皮膜の中に居てもらう。お主の時を止める形を取るが、命が途絶えるわけではない」

蛍は頷き、昊我を見つめ返した。期待と不安、どちらとも読み取れる瞳をしている。

 昊我は、蛍をそっと浅樹へ手渡した。

「昊我殿から言われ、準備しておきました。今日から私が景色が真白に染まるその日まで、お守りしますからね」

浅樹は蛍に暖かな微笑みを向けた。蛍の体から緊張が少しずつ抜けて行くのが分かり、昊我は、こういう時は浅樹には敵わんなと内心思った。

 浅樹と蛍の支度が整ったのを確認すると、昊我はヒバの樹の根元に腰を下ろすと、懐から取り出した酒を飲み始めた。隣に佇む浅樹にも、杯を渡し酒を注ぎながら蛍へ向けて言った。

「今宵も、湖は蛍の光りでとても艶やかだ。お主もしばし見ているといい。自然に眠りに落ちるだろう。眠りに着くと同じくして時が止まる。それまで仲間の群舞をしっかりと見ておくと良い。いい思い出になるであろうよ」

昊我は、蛍に笑顔を向けた。蛍の眼には、先ほどまであった不安の色は見られなくなっていた。

「私はこの森で生まれて、昊我殿や浅樹殿と出会えて幸せでございます。夢のような願いを聞き入れてくださり、ありがとうございます」

蛍はお礼を言うと、湖の方へと視線を向ける。どこまでも優しい昊我と浅樹の心に触れ、蛍は暖かな気持ちを携えて仲間の舞いを目に焼き付けた。

 一陣の風が吹き、夏特有の緑の香りが昊我の鼻孔をくすぐる。湖の蛍はふわりふわりと舞う。畔にはしっとりとした歌がいつまでも流れていた。

 しばらく経った後、昊我は空を仰ぎ呟いた。

「今宵の月明かりは、より一層蛍の光りを輝かせるな」

「ええ。本当に美しい。蛍も月も何もかも、この世は全て美しいものばかりだそうですよ」

浅樹の言葉に、昊我は誰が言っていたと問うと、浅樹は微笑みながらヒバの樹に触れて言う。

「さきほど蛍殿が眠りにつく間際、心の中で思ったのでしょうね。樹を通じて私の心に届きました」

「なるほど。あやつはこの自然を美しいと思えるのだな。良い目をしておる」

昊我は満足気に頷き、浅樹も同じく頷いた。

湖には優しく暖かな風がそよそよと流れ、草花もそれに留まる蛍も楽しそうに揺れていた。

 目の前に広がる景色を焦点の合わないまま見つめながら、昊我は胸の内で思っていた。

鮮やかで艶やかな景色を、美しいと褒め称えるものは多いが、ごく当たり前に在る物や事象を、美しいと捉えるものはどれほどいるのだろうかと。一つ一つの命が重なり彩られているこの世界。一瞬一瞬全てが美しいのだが、それに気づき足を止めてゆっくりと感じようとするものは少ない。例え衰退しているかのように見える場所であっても、そこには命が宿り懸命に生きていることを、知ろうとするものは、多くはない。

何年時を重ねても、自然界の在る意味というのは、不変的であるのだと、気づいてくれる者が増えていけばいい。

 この蛍のように、全てが美しいと思えるものは、一体どれだけいるのだろう。

決して交差することのない蛍と雪。届かないと思うからなおさら求めてしまうのか。

「雪に恋をした蛍か……」

昊我が息を吐くと同時に出た小さな声は、浅樹の耳に届いていた。

「ええ。きっと初恋ですね」

「そうだな。成就させてやらんとな」

蛍の情熱に触れ、昊我の胸の中には、暖かな熱が波紋を描くように広がっていた。

こうして、夏の夜の日は、一日一日と過ぎていった。


森は緑一色の景色から、赤や黄色に色付き始める木々が多く見られるようになってきた。昊我は日課である清水の見回りをしながら、森のあらゆるところで食糧を蓄えている動物や鳥達とおしゃべりをして、日々を忙しく過ごしている。見回りの後には決まって清水の合流地点である湖にやってくる。

そこには、いつも浅樹がいる。浅樹は宿木であるヒバの樹のくぼみの様子を伺うのが日課となっていた。

「今日も変わりはないか?」

ヒバの樹の近くにやってきた昊我は、浅樹に話かけた。

「問題ありませんよ。すべてつつがなく順調に運んでおります」

「そうか。浅樹にも皆にも迷惑をかけてすまないな。もうじき冬の訪れる季節となるだろうから、もうしばらく宜しく頼むぞ」

そう言いながら、昊我は浅樹が宿るヒバの樹に触れ、その周りの木々達にも触れて回った。

「楽しみですね。森の皆で話しているのですよ。昊我殿の力が無かったなら、蛍と雪の競演なんて見る事はできませんから、この森に生を受けて良かったと思っているのですよ」

「そんな大それたことではなかろうに。儂の気まぐれに皆を付きあわせているだけにすぎんよ」

そう言いながら昊我は懐から瓶を取り出し、目の前にちらつかせながら杯を浅樹に手渡した。

「約束通り、秘密の酒を汲んできてやったぞ。迎え酒といこうじゃないか」

にやりと笑った昊我を見て、浅樹は呆れた顔をしながら杯を受け取り言った。

「全くあなたと言う人は。真面目な話をしているのだから、はぐらかす癖はやめて下さいませ」

「おや。美酒はいらんというわけだな」

「そんなこと一言も言っていませんよ。待望の美酒ですからね。勿論頂きますよ」

「では一献。日頃の労を労るとして、皆に注いで回るとするか」

「皆喜びますよ。……うん!美味しい!」

浅樹の声を聞いて、昊我は笑いながら、畔に集まるものたちと酒を酌み交わしに行った。


蛍はゆるやかに流れる意識の中で、幸せな夢を見ていた。真白に染まる景色の中に飛び立つ自分の姿であった。雪を浴び、雪を抱きしめ、雪の中に身を埋める、そんな姿を蛍は見続けている。

雪のどこまでも白い、その美しさに心を奪われた時から、蛍の命は雪と共にあった。雪の中で眠り続けいる自分の姿を捉え、その喜びに酔いしれる。 

いつまでもこのままで……。雪の中に消えてもいい。美しく清い中に我が身も溶けてしまえばいい。

蛍の夢は、蛍の願いそのものだった。


「さっ……寒い!」

白湯を注いだ湯呑みを両手で持ち、ふうふうと適温になるのを待っている昊我が、あまりの寒さに耐えかねて思わず叫んだ。

「日々の鍛練が足りないのではありませんか?」

 ちらりと横目で見ながら、しれっと言うのは浅樹であった。

「儂はな、デリケートなんだ、デリケート、分かるか?決して鍛練が足りないという事ではないのだぞ。全力投球な儂は少しばかしデリケートなだけなんだ。しかし、なぜお主はいつも同じ格好をしていながら、平然としていられるのだ」

「精霊の強みとも言いますか。私たちは自然界そのものですからね。いつ何時でも、その時に対応できるのですよ」

「けしからん話だな。儂も今すぐ精霊になるかの」

「何をバカなことを言っているのですか。そもそもあなたの力であれば、寒さなど全く感じないようにするなど、容易いことではありませんか」

「そんなのつまらぬではないか。自然のものを自然のままに感じるのが粋というものだ。力を使って悠々と過ごすなど、ぬるい!生ぬるいぞ!」

 そう言いながらも、昊我は体をぶるぶると震わせている。

「デリケートなのは分かりますけれど、あなた様には似合わない言葉ですねえ。ほらほら、そんな事を言っている間に、白湯が冷めてしまいますよ」

「こんな日には白湯より熱燗だろうに。朝からは誰かさんが許してくれぬだろうなあ」

 昊我は横目でちらりと浅樹を見てみると、珍しく鋭い眼光をしていた。目が、ふざけたこと言っていないで、早く飲みなさいと言っている。

しかたなく白湯を啜る昊我の後ろから、元気な声が響いた。

「昊我様!僕を使ってみませんか?」

 そう言うのは、いつも畔に遊びに来るキツネの子供だった。

「キツネの襟巻ってあるでしょう?僕がそれになってあげる!」

「おお!名案じゃ!ほれ、早速試してみようぞ」

 昊我はキツネの子供を持ち上げ、首にくるりと巻いてみた。キツネの子供は、しっぽまで使い、くるくると昊我の首元を器用に巻いて包んでいく。キツネの体温が首にほっこりと馴染み、ほっと安堵した。

「昊我様。あったかいでしょう?僕時々友達にしてあげるんだよ」

ほくほく顔をみせるキツネの子を撫でると、満足気な表情をしている。

「その順番に儂も入れてくれな。凍えてしまうわ」

「日々の鍛練も怠らないで下さいませ」

 昊我は呆れたような声を出す浅樹を振り返り、キツネの襟巻を自慢して見せた。

「デリケートだと言うておるのに。耳が遠くなったのかの。なー?キツネっ子」

「はいはい。しかし、今日の空模様はいつもと違いますね。いつ雪が降ってもおかしくない雲行きです」

 浅樹がそう言うと、昊我もキツネの子供も空を見上げた。

「確かにな。いつ降出してもおかしくない空をしておる」

空は白と灰色が混ざった色を見せ、一面を覆っていた。このところ気温はどんどん下がっていき、吹く風も冷気を帯びている。畔に並ぶ木々達も豊かな葉を全て落とし、細い枝を寒そうに揺らしている。誰もが空から舞い降りる、冬の使者の到来を今か今かと待ち望んでいた。

突如、強い風が湖の上を駆け抜け、昊我と浅樹を倒すかのような勢いで吹き抜けたので、二人は体制を崩しかけた。体制を整えようとしている時、ふいに風の中から精霊の声が聞こえてきた。

「ふわふわくるよ。ふわふわくるよ」

「わたぼうしくるよ。きらきらくるよ」

 風の精霊は口々に繰り返しながら、突風に乗って森の奥へと走り去っていった。風の精霊が走り去った後は、枯葉が一斉に舞い上がり方々に散乱した。

 昊我はその声を受け、急いで空を仰いだ。浅樹もキツネの子供も、同じように空を見つめていた。しばらくすると、白い塊のようなものが一つ、二つ、三つと視界の中に増えていった。

「雪だ!雪が降ってきたよ!」

 キツネの子供は大声を挙げた。昊我もまた、感嘆の声を挙げた。声を聞いた、畔の木や草達は動きをとめた。皆が空を仰ぎ白い雪が舞い降りるのを待った。ふわふわと大きな雪は、風の精霊が言っていた通り、綿帽子のように柔らかく、舞い降りる様は優しげな微笑みを携えた、雅な舞のように見えた。

「待ちかねたぞ。ずっとお主を待っていたわ」

 昊我は、空から降り続く雪に向かって声をかけた。

「とうとうこの時期が来ましたね。待ち遠しくかったですね」

「そうだな。このまま降り続いて積もってくれれば、蛍を呼び起こせるな」

「白銀の世界を、早く蛍殿に見せてあげたいですね」

「見せるだけで終わりではない。儂にはのちに恋愛の神様と呼ばれるか否かという問題もかかっているのだぞ。分かっているか?」

「れ、恋愛の神様?あなた様が?似合わなっ……ぐっ……」

驚きと共に失礼な事を口にしたとも気づいていない浅樹は、ごほごほとむせていた。キツネの子供も、周りにいた精霊たちも皆、大笑いしているが、一切気にしていない昊我は自慢気に意欲に満ちた瞳を浅樹に向けた。

「そうよ。蛍の初恋を叶えてやると言っていたではないか。それを忘れたのか?そして恋愛成就の暁には、世間の皆々様に、儂の武勇伝を広めていかねばならんなあと考えておったのだ。水神とあれど恋愛の神だ。なかなかいいではないか」

一息に言いながら、しきりと頷き自慢げに仁王立ちをしている昊我を見て、浅樹は少しだけ眩暈を覚えた。

「昊我様かっこいい!僕の恋愛相談にも乗ってくださいね!」

「おお!勿論だとも!なかなかノリのいいものがこの森にはいるようだぞ。幸先いい証だな」

 キツネの子供と昊我はお互いに調子を良くしていると、周りにいた精霊たちからも、私もお願いしてみようかなという声がひそひそと聞こえてきた。

「全く、あなた様はどこまで本気でどこから冗談なのか、よく分かりませんね」

浅樹は呆れた様子を見せるものの、森全体が喜びに溢れているのを感じていた。

「儂はいつでも全力全開で本気一本だぞ」

 知らないはずもないだろう?という風に昊我は浅樹をにやりと笑いながら見ている。再び軽い眩暈を起こしかけた浅樹は、頭を抱えながら呟いた。

「ええ、その通りですね。ショックが強かったもので、一時忘れていただけのようです」

「どうした?頭でもぶつけたか?薬でも飲むか?景気づけの酒なら儂も一緒に飲むぞ」

「ご心配無く」

 そうか、と言うと昊我は温かい首元に顔を埋めた。楽しいお喋りと共に時は流れ、舞い落ちる綿雪は静かに森を覆っていった。


 ほどなくして、森は真白で覆われた。無邪気に飛び跳ねる兎やキツネの子供たちの声は楽しそうで、雪原にいくつもの足跡を付けては転げまわっている。


「蛍よ、待望の時が来たぞ。目覚めると良い」

 昊我はそういうと、 手の平に乗せていた皮膜の玉を消した。蛍は長い眠りから覚めて、ゆっくりと体を動かし始めた。寝ぼけ眼の蛍は、左右を見て自分がどこにいるのかを確認しているようだ。

「こ…れは……雪……」

 蛍はぽつりと呟いた。

「そうだとも。お前は待ち望んだ冬が来たのだよ。じっくりと周りを見てみるといい。辺り一面白銀の世界で覆われておるわ」

「寒いでしょう。目覚めの時がきましたよ」

 昊我と浅樹は、蛍に話しかけた。

 普段の夜の森は静寂に包まれているが、この日ばかりは蛍の目覚めとあって、森の住人は畔に集まっていた。皆蛍の小さな言葉に耳を傾け聞いている。

「美しいです。とても美しいとしか言えません」

 蛍は胸がいっぱいになり、言葉を詰まらせ、しばらく景色を見続けていた。

「飛びたいと思わぬか?」

 昊我は蛍に聞いた。

「あ!はい!すみません。見惚れてしまって……」

 照れている蛍の様子を見た昊我も浅樹も森の住人も、皆笑いを溢した。

「皆この時を待っていた。飛んで見せてはくれないか」

 そう言って掌を空へと伸ばすと、蛍は羽を動かしふわりと風に乗った。空からは小さな綿雪が舞い始めていた。蛍は雪を捕まえ、一緒に地面に降りてきたり、体全体を雪に埋もれさせてみたりと雪の柔らかさを堪能していた。

 ひと時がたった頃、蛍は急に飛ぶのを辞めた。

「どうした、なにかあったか」

「雪は私の想像そのものでした。こんなに柔らかいものだとは思っても見なかったので感激したのですが、何故でしょう。どうして……」

 そのまま蛍は言葉をつぐみ俯いた。その姿は落胆しているかのように見えた。

「構わぬ、話してみよ」

「申し訳ありません。雪に感激して胸が弾むのはとまらないのですが、何故、何故私は愛しいと思えないのでしょうか。ときめかないのは何故なのですか。綺麗で美しく輝きに満ちている。確かにそう見えてくるのに、湧き上がってくる感情が想像と違いすぎて、私は自分に落胆しています」

「ああ、なるほどな」

「愚かだとおしかりになっても構いません……。こんなに自分が愚かだとは思わなかった。本当に馬鹿な事をしてしまいました。」

 愚かなこととは何を指してのことだろうな、と昊我は考えていた。むしろ、蛍がそれほど複雑な感情を持ち合わせていることを褒め称えていた。申し出があった時から、この蛍は繊細で賢いことは理解していたが、欲だけで生きているのではないことも良く知っていた。私利私欲だけならば、こんなに嘆くことも無いだろう。この小さな体に、どれだけの感情を詰め込んでいるのかと思うと、自然の脅威を見せられているようにも、思えてくる。

「まあ、そう落胆することもなかろう。結論から言うと、本能がお主を苦しめているのだろうな」

「本能……ですか?」

「さよう。蛍が短い生涯の中で、光を放ちながら飛ぶのは、子孫を残す為に伴侶を探しているからだ。お前が光を放っても雪は同じように光を放つことはない。光が会話に相当するのであれば、お主は誰とも会話を交わせないでいる状況にあるからな。それでは本能が働かず、愛しいと思えなくても当然のことではないだろうか」

「なんてことでしょう。私は自分の本能さえも理解せずに、あなた様にお願いをしていたのですね。とても恥ずかしいです。なんて愚かな……」

「そう嘆くこともなかろうよ」

「そうですよ。昊我殿の言う通りです。雪と会話が出来なくとも、愛でることはできましょう」

 浅樹は蛍を手のひらに乗せて、雪を見るように促した。蛍は大粒の涙を流していた。

 その様子を見た昊我は、意を決したように両手を構えた。

「お主を思ってしたことではなかったのだがな、結果お主が喜びそうなことを起こしてやろうぞ」

 そういうと昊我は、パン!と一つ大きな柏手を打った。

 すると、周りの木々がざわめき始め、雪の降り積もった幹の奥に小さな光が灯り始めた。その光は黄色や緑へと光を変化させる蛍の光そのものだった。樹の精霊たちは蛍が飛び立ちやすいように雪をかき分けた。ひとつ、またひとつと空へと飛び立つ蛍の姿が現れた。数にすると約百匹といったところだ。月明かりだけが照らしていた湖の畔を、百匹ほどの蛍が彩始めた。

森に住む住人は、皆感嘆の声を挙げた。昊我も浅樹もまた、素晴らしいと口を揃えた。ざわめきに気づいた蛍は、俯いていた顔を上げ、驚きの声を出した。

「昊我様!これは一体!」

 さきほどまで落胆していた蛍は、涙を流すことを忘れ、驚愕の瞳で光景を見続けていた。

「なにな、お主を眠りに就かせた後のことだ。お主の意志を知る者たちが儂の元にやってきてな、皆で同じことを言うのだよ。『雪と共に舞いたい』とな。お主だけ特別というわけにもいかぬだろう?望む者達全員を、お主のように眠らせておいたのだよ」

「森の住人皆も、協力してくれましてね」

 呆けたままの蛍は、動けずにいた。それを見た昊我は笑いながら言った。

「いつまで浅樹の手のひらにいるのだ?時間が勿体ないと思わないのか。仲間がお主を待っているのが、見てわかるだろう。儂にも早く喜ぶ姿を見せておくれ」

「は、はい!ありがとうございます!」

 そうして、蛍は皆のもとへと飛び立って行った。

「蛍殿が元気を取り戻して安心しましたね。一夜限りのことかと思うと少し辛いですが、この時間を楽しみましょうか」

「祝い酒なら容易してあるぞ」

 がははと笑う昊我を、浅樹は静かに見て尋ねた。

「ひとつ、お聞きしたい事があるのですが」

「なんだ?」

「このことは禁忌ではありませんでしたか?生命の時間を止めることは、自然の摂理に反すること。あなた様にとって後々、何かしらの処分が下ることにはなりませんか?」

「今言うか?」

「申し訳ありません。随分前からお伝えしようと思ってはいたのですが、その事で気が変わってしまわれたらこの景色を見る事はできなくなると思い、口に出せませんでした」

「そんなに薄情に見えるかの。がっかりじゃ!」

「いえ、決してそのようには思ってはおりません。感謝だけです」

「そうだのー。この件に関しての禁忌は、季節を反転させることだと思うが、それにそれほどのことは儂一人だけの力でどうこうなることではない。儂がしたことは、蛍の眠りをちょっとばかり長く深くしただけのことよ」

「ちなみに、この件は天界には報告されておりますか?」

「しとらんかった」

「だ、大丈夫でございますか?今からでもご報告なさいますか?」

「よし、こうしよう!この案件は秘密だ。この森の小さな永遠の秘密にしよう。罪だと裁かれるならば、その時はその時だ。その位の覚悟、儂にもあるわ。雪と蛍の演舞なんぞ、どこで見られる?この森唯一ではないか?」

「た、確かに、そうですね」

 そういって浅樹は、ゆっくりと溜息を落とした。

 昊我に雪を見たいと懇願した蛍は、元気を取り戻し、夏と同じように湖の畔を舞い始めた。仲間の蛍と混ざり、ほのかに淡く灯る光は雪に映え、幻想的な空間が広がっていた。雪に戯れる蛍、蛍を包む優しい雪、蛍も雪の精霊も無邪気にじゃれ合っていた。

 しかし、凍てつく寒さは蛍の体を芯まで凍らせていく。夜が更けるに相まって、ひとつまたひとつと、蛍の灯は数を減らしていった。

「あの蛍は、生を終えたな」

「そのようですね」

 二人の元には、あの蛍から感謝の想いが届いていた。

「一番に目覚めさせたからな。他の者より耐えうる時間は短かったようだ。消えゆく間際の気持ちは、儂が心地良くなるほどだったの」

「この美しい景色を見られたこちらが、感謝したいくらいですよ」

 そう言った二人の眼は、薄く滲んでいた。生あるものの、想いの強さと、その者に惹かれる者たちとの、愛ある共演を見れたのだ。決して忘れられない事だとし、胸に刻んでおこうとした。

「だいぶ減ってまいりましたね」

「そうだな。見ていると辛い気もするが、どの蛍からも悲しみの声は聞こえてこぬ。喜びと感謝が届いてくるのは救いだな」

 真冬の雪の中での、蛍の舞いにも次第に終わりが見えて来た頃、昊我は浅樹に尋ねた。

「浅樹よ、儂は恋愛の神とも名乗っても良いと思うか?蛍と雪の恋物語は、悲恋に終わったような気がするのだ。それだけはなんとも無念だ。覚醒したのが、一匹だけだったなら、このような終わりには、ならなかったじゃろ?」

「ふふっ。確かに最初のままだったなら、悲恋の幕締めでしたね。けれども、多くの蛍殿の願いは叶えられたのですし、蛍殿の最期が満たされていたのなら、成就と言えないでしょうか」

「そうだの。これはこれで一つの結末だな」

「恋愛の神と名乗ってからの方が、忙しくなるのですよ。試験だったと思えば宜しいではないですか」

「そうだのー。合格点を頂いたという事で、宣伝活動をせねばな」

「上への報告を先にしてくださいませ」

「面倒だのー」

 そう言って、昊我は頭をがりがりと掻いた。時折、いいことにしないか?と浅樹に相談するも、いいえ、ダメですよ、と言葉が返ってくるばかりだ。次第に観念した昊我は、腹を決めて

今宵の舞いに意識を向けた。

「今日限りの美しい日を、眼に焼き付けようぞ」

「ええ。そうですね」

 

 その日の月明かりは、闇が濃くなるほどに眩しく輝き、蛍と雪のゆらめきを、一層しとやかに映し出していた。昊我と浅樹は蛍の光が全て消える最後の時まで、じっと見つめ、命の光を焼き付けていた。森の畔に集まった者たちもまた、同じように蛍と雪の舞いを見つめ続けた。

 

 小さき命は夢を見る。まほろばに見ゆる陽炎のように。

 小さき命は恋をする。消えぬ想いは日ごと豊かに香りゆく。



                                   了

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百華舞う夜 あかさ @majes

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