第10話
エレベーターに乗ると、なんの振動も感じないまま、ものの数秒で九十九階に着いた。
「早いねえ」
「さほどでもないです。種子島にある宇宙ステーションと直結の宇宙エレベーターは、時速六百キロ、高度三万六千キロメートルにある静止衛星まで六十時間で到達します」
と九十九階の赤い絨毯の上を歩きながら、桜井さんはそう言ったけど、もともと宇宙空間への興味が乏しいのと突き上げる腹部の痛みのせいで、そのときの僕には「ふーん」とすら返す言葉もないぐらいになんの感慨もなかった。
数メートル歩くと屈強なガードマン二人が両脇を直立不動で守っている扉にたどりついた。扉のかたわらには「行政長官執務室」と墨書されたプレートが壁に貼られている。
「お約束いただいている桜井アルルと藤堂隼人です」
と桜井さんが名のると、ガードマンの一人が二人に扉の正面にばんざいをして立つよう指示した。
「全身スキャンとID認証です」
と桜井さんが言い終わるか終わらないうちに、目の前の扉が開いた。
そして部屋の中に入ると優雅なソファが一脚だけあり、二人に背を向けるかたちで、初老の男が座っていた。僕らふたりは、その男の前にまわりこんで、立ったまま正対した。
「やあ、アルル。突然亡命してくるとはまったく青天霹靂だなあ。今朝方のみなとみらいのホテルのさわぎも君のせいだな?ホテルからも苦情が来てるよ」
と初老の男はソファに腰かけたまま、まったく表情を変えずに言った。
「すみません」と桜井さんがちいさくこたえた。
「そちらが、藤堂さんかな?」
僕は腹を片手で押さえ、すこしばかりわざとらしく表情をゆがめながら、「はい」とあいさつした。しかし男は、僕とは目をあわせようとせず、無表情のまま口だけ開いた。
「なるほど、腹を撃たれたんだな。なら、早く医者に見せた方がいい。いい医者を紹介しよう」
「いえ、理化学研究所に行きたいのです。通行許可証を発行いただけませんか?」
そういって桜井さんが頭を下げた。
「どうしても湯川先生でないといけないのかい?」
男の口調はその表情から受ける冷徹な印象とは違って、いたって丁寧で穏やかだった。
「はい、少しこれには事情がありまして、どうしても湯川先生とじきじきにお話をさせていただく必要があります」
「ふーん、君が湯川先生と以前から連絡をとりあっているという情報はこちらもつかんでいたけど、くれぐれもややこしい問題をもちこまんでくれよ。知っての通り、ただでさえ、横横は、来年の本土返還を控え、政局が揺れているところなんでね」
といって男はじっと腕をくんだまま目を閉じた。
「わかった」といって男は目を開けるとしずかな口調で「通行証を発行しよう」と言った。
「ありがとうございます。河井行政長官」
そういって桜井さんは深々と頭を下げたので、僕もそれにならって頭を下げた。そして、桜井さんは、僕の手をひいて部屋を出ていこうとした。
「それと、アルル――尾崎先生にはくれぐれもよろしく言っておいてくれ」
とそういって男はやにわにソファから立ち上がった。
「それと、藤堂さん」
と唐突に男は僕の名前を呼び、じっと僕の顔をみつめた。そして
「横浜横須賀特別行政区政府行政長官の河井サクセスです。今後ともよろしく」
といいながら恭しく白髪頭を下げた。
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