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「男の名前は加賀美和成かがみかずなり、年齢は三十五歳。住んでるとこは赤坂の高級マンションっスねー。仕事がIT企業の社長なんて大嘘っス。親父がやってる加賀美不動産の役員名簿に名前が載ってるっスよ」


 鬼角の話を訊きながら、真矢は額に手を当てる。丸一日眠ったというのに、体調は優れない。身体中の血管に鉛でも詰まってるかのようだ。


「大丈夫ですか、真矢ちゃん。起きてすぐだし、体調が悪いならまだ寝ててもいいんですよ」


 鬼角ルームのソファで、隣に座るカイリが真矢の顔を覗き込む。真矢は「ううん」と首を振り、どうして気づかなかったんだろうと思う。


 黒髪ウィッグを被って、長谷川いずみの死を追体験した時、真矢は犯人の顔を絶対に忘れないと思った。その後、『なんでも望みが叶う動画』にカイリと潜入し、似顔絵まで作成したはずなのに……。


「なんで見抜けなかったんだろう」

「僕達が見た犯人の男は痩せぎすで、髪も短く刈り込んでました。でも昨日の男は眼鏡をかけていて髪も長めでしたしね。それに、事件があった八ヶ月前から比べると、かなり身体も鍛えていた。見抜けなくって当然だと思います」


 真矢はディスプレイに映し出された加賀美和成の写真に目を向けた。カイリの言う通り別人に見える。でもそれでも、犯人に合えばすぐに分かると信じていた。


 真矢は「迷惑かけてごめん」と、頭を下げる。


「迷惑じゃないっスよ」


 鬼角はくるりと椅子をまわし、「真矢ちゃんのおかげで犯人の身元が分かったっス」と指で鼻先を擦った。


 左上の画面では、呪呪ノ助が《そうですよっ、そうですよっ! お姉さんのおかげでいずみちゃんを殺した男がわかったんですよーっ!》と、鼻息を荒くしている。


「それはそうだけど……」真矢は眉根を寄せる。


 軽率だったと真矢は思う。トイレに行っている間に飲み物に薬を仕込まれるなんて、よくある話だ。


「本当に少ししか飲まなかったのに」


 常套手段にまんまと嵌った自分が情けない。


「飲み物じゃなくて、多分、チョコレートですよ」

「チョコレート?」

「飲み物じゃなくてチョコレートの中に入ってたんだと思います。チョコレートの苦味で薬の苦味もごまかせますし」

「あぁ……」


 迂闊だった。まさか、チョコレートとは……。


「それにしても、許せません。真矢ちゃんに毒を仕込むだなんて。絶対に、僕はあの男が許せない」


 怒りを滲ませるカイリの言葉に、真矢は背筋が寒くなる。カイリの到着があと少し遅ければ、自分は一体どうなっていたのだろうか。


「それにしてもあの男、僕が真矢ちゃんを迎えにきたと言ったら、お迎えが来るとは聞いていたけど、こんなに酔っぱらっちゃって、どうしたものかと困り果ててたんですよ、助かりました。って笑ったんですよ」

「弁護士のおじいちゃんが言ってた通りっスねー。犯人はサイコパス。話し上手で社交的、平気で嘘を吐くって。んでもって、警戒心がつえーっスねー。SNSは一切やってないっスよ。全然情報が出てこねぇっス」


 鬼角はふうっと息を吐く。鬼角は昨日、加賀美和成を黄色いベスパに乗って尾行した。そのおかげで身元が割れたわけだが、それ以上の情報は、ネット上にはほとんどないと言う。


「マジ厄介な相手っスね。尻尾を掴むのは相当難しいかもしれねーっス」


 鬼角の話を聞きながら、真矢は洋三が言っていたことを思い出す。現行犯逮捕、もしくは、犯行が行われたという確固たる証拠をみつけなければ、犯人の男を探し出したとしても、逮捕に至るのは難しい——と。


「とりま、棚橋班長からはこれ以上は動くなって言われてるし、ここまでっスね」

「え、でもそんな……」


 真矢は拳をぎゅっと握りしめる。長谷川いずみを殺した犯人が分かったのに、これ以上何もできないなんて。


「なんとしても私達で捕まえたいよ」

「真矢ちゃん。気持ちは分かるけど、これ以上は僕達ではなんとも」

「でも、悔しいよ。私に毒をもったってことで逮捕はできないの?」

「証拠がないですよ。チョコレートっていうのも憶測ですし」

「なにかされたわけでもねーっスもんねー」

《あぁあっ! もどかしいですぅ〜っ! 目の前に犯人がいるのに逮捕できないなんてぇ〜っ! いずみちゃんがかわいそうですぅ〜》


 長谷川親子は、犯人逮捕は君達に任せたと言っていた。私達は死者である長谷川親子に託されたのだ。それなのに——、これ以上、何もできないだなんて……。


 真矢の視界が滲む。悔しさと怒りで、ただでさえ鈍った頭がどうにかなりそうだ。


「長谷川さんのご葬儀までにはなんとかしてあげたいのに……」


 真矢が唇を噛みしめた時だった。


「真矢っ! 大丈夫っ!?」


 鬼角ルームのドアが勢いよく開き、咲人を抱いた愛が部屋に入ってきた。愛は真矢に駆け寄ると、咲人をカイリに預け、真矢をぎゅっと抱きしめる。


「あぁ、真矢。可哀想に。大丈夫?」

「はい。愛さん、ご心配をおかけしました」

「ほんとにもう。無茶をして」

「すいませんでした。でも、私、悔しくて……」


 温かい愛の胸の中で、真矢の口から嗚咽が漏れる。犯人が分かったというのに、逮捕ができない。今のままでは、犯罪があったことを立証する手立てがない。


「そうね。悔しいわよね。でも、きっとトシちゃんがなんとかしてくれるから。日本の警察を信じて、その時を待ちましょ」

「でも愛さんっ」


 真矢は愛の腕を振り解く。


「長谷川さん親子は、私達に犯人を逮捕してくれって頼んだんです。お二人の合同葬儀まではあと十日しかありません。それまでに犯人を逮捕しなくっちゃ、お二人の魂は浮かばれませんよっ」


 真矢の頬を涙がつたう。真矢は「いずみさんは、殺されたんです。殺されたんですよ……」としゃくりあげた。


「こんな、こんな、ことって……」


 洋三は、怒りに支配されて、残された時間を過ごしたくないと言っていた。真矢は本当にそうだと思った。だからこそ、なんとしてもご葬儀までに加賀美和成を逮捕して、安心して永眠してもらいたい。


 しんと静まり返った鬼角ルームに、真矢の嗚咽だけが響く。


「きっと大丈夫だから」愛は真矢を抱き寄せる。


「トシちゃんを信じて逮捕できることを祈りましょ。アタシ達は次の犠牲者を出さないためにも、シュラの姫を止めなきゃ」


「次の……犠牲者……?」真矢は愛の顔を見た。愛は「そうよ」と頷く。


「シュラの姫を止めなきゃ、第二、第三の犯罪者を生むことになるわ」

「第二、第三の……」

「ええ。そして、それはつまり、犠牲者も生まれるってこと」


 愛はすくっと立ち上がる。胸の谷間から黒いスティック状のものを取り出すと、それを掲げ、皆に言った。


「シュラの姫の居場所が分かったわよ!」


 


 


 


 


 


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