15

『銀座むかい』の女子トイレ。便座に座った真矢は、呪対班のグループLINEに連絡をいれる。


 まさか、『加賀美ビル』で偶然出会った男が犯人だとは思わなかった。でも、洋三は言っていた。〈もしかしたら、横山君に会いに行く娘を見て、ターゲットに選んだのかもしれん〉と。


 真矢は、そうかもしれないと思った。犯行時、犯人の男は異様なほど髪に執着していた。


《真矢ちゃん、遅いー。今どこですかー?》


 呑気なカイリの声がして、真矢はスマホに視線を向ける。カイリの向こうには鬼角と冴えないおじさん幽霊の呪呪ノ助の姿もあった。


「実はいま——」


 真矢は早口で状況を説明する。銀座のレストランにいること。長谷川いずみが真矢と一緒にいる男を指差して、「この人が犯人です」と言ったこと。最後に洋三の推測を付け加える。


《むちゃむちゃヤバイ状況じゃないっスかっ! で、真矢ちゃんは大丈夫なんスか?》


 画面分割で鬼角が現れる。分割画面がまた増えて、両手を握りしめた呪呪ノ助が《いますぐっ! いますぐっにっ、逃げた方がいいですよぉ〜》と、あたふたしていた。


 真矢はスマホを強く握る。こんなチャンスは二度とない。


「とりあえず、身元を探る」


 カイリは即座に《危険です》と首を振る。


「でも、こんなチャンス二度とないかもしれないんだよ。加藤なんて名前も絶対偽名だし」

《それでも危険です。真矢ちゃんひとりで犯人と対峙するなんて絶対ダメですよっ!》

「でも」

《確かにチャンスっちゃあチャンスっスよね》

《鬼ちゃんまで! ダメです! 真矢ちゃんに何かあったらどうするんですか!》

《僕もそう思いますぅ〜! あぁ〜でもでも、確かにチャンスではありますよねぇ〜》


《そうだぁっ!》呪呪ノ助が画面いっぱいに顔を近づける。


《僕がにゅ〜っと、スマホからそっちに行って、ナイトのようにお姉さんを守るってのはどうですかぁーっ?》

「却下。幽霊は役に立たない。お荷物が増えるだけ」

《うううっ。久しぶりに登場できたと思ったらそんな塩対応〜。おじさんは悲しいですぅ〜》

《とりあえず、真矢ちゃんは早く逃げてください》


「逃げれないって」真矢は首を振る。チラと腕時計に視線を落とし、「ダメだ。もう戻らなきゃ変に思われる」と皆に言う。


《んじゃ、安全確保のために今から送る位置情報共有アプリをインストールするっス!》

「アプリ?」

《そっすそっす! 発信機みたいなもんスよ》


 すぐに鬼角から真矢のスマホに『イマドコン』と書かれたリンクが届く。真矢がそれをタップすると、画面が切り替わり、アプリが真矢のスマホにインストールされた。鬼角は《俺とカイ君の友達申請を送っとくんで》と手短にアプリの操作方法を説明する。


《それがあれば、真矢ちゃんの位置情報がこっちでも掴めるんで、安心して欲しいっス! こっから銀座だと、二十分くらいで着くと思うっスよ!》

《ついたら電話します。それまで真矢ちゃんは、絶対に店から出ないでくださいよ》


 真矢は「分かった」と首肯した。


「なるべく時間を稼いで、身元が分かるような情報を聞き出すよ」

《くれぐれも気をつけてくださいよ。真矢ちゃんに何かあったら僕は——》

「——分かった。ごめんもう切るわ」


 真矢は通話を終了し、スマホを胸に押し付ける。大丈夫。私が知ってることをあの男は知らない。ならば、今まで通り平静を装い、時間を引き延ばして、身元が分かるような情報を聞き出すだけだ。


「よし」真矢は便座から立ち上がる。


 トイレのドアを押し、個室を出る。鏡に映る自分の顔を見ながら両手で頬を叩き、長い黒髪を手櫛で整える。無理やり口角を上げてから、真矢は店内へと戻った。


「すいません、遅くなっちゃって。ちょうど友達から電話がかかってきてしまって」

「そうだったんですか。遅いから心配してました」

「すいませんでした」


 カウンター席から薄暗いボックス席に移動した加藤は、小振りなワイングラスを掲げ「最高に美味しいポートワインですよ」と真矢に笑みを投げてくる。真矢は微笑み返し、「へー、ポートワインですか?」と半円形のソファに腰を下ろす。


「同じものを注文しておいたので、ぜひ。とても甘くてとろけるような舌触りです」


 加藤が真矢に手渡したワインは、赤みを帯びた琥珀色で、間接照明に照らされてルビーのように輝いていた。


 加藤は優雅にグラスを揺らしながら、「さぁ、どうぞ。遠慮なさらずに。チョコレートを食べてからがオススメですよ」と小皿に乗ったチョコレートを勧めてくる。


 真矢は「ではお言葉に甘えて」とチョコレートを口に入れ、どうしようかと考える。体温で溶けていくチョコレートはやけに苦かった。


 死者である長谷川親子は、いずみの精神状態が限界で自宅に戻ってしまった。真矢がいないうちに頼まれた、このワインの安全性はないに等しい。


「こうして空気を含ませると香りが変わってくるんですよね。本当に美味しいワインです」


 紳士の皮を被ったこの鬼畜は、一体今まで何人の女性を殺害してきたのだろうか。許せないと真矢は思う。


「さぁ、二階堂さんもぜひぜひ。ソムリエお勧めのデザートワインですよ」


 手に持ったワインをみつめ、飲むしかないなと真矢は思う。唇にグラスを当て、真矢はほんの少しだけ口に含んだ。


 少量でも分かる、ねっとりとした濃厚な甘み。ワインというよりはブランデーのようだ。アルコール度数も高い気がする。


「とっても甘くて美味しいでしょう?」

「はい。高級な味がします」


 真矢は小さく咳払いをして、「そういえば、加藤さんは——」と、作り笑いで会話を切り変える。


「ずっと東京にお住まいなのですか?」

「ええ。僕はずっと東京です。いや、違うか。海外留学の経験もあるから、ずっとってわけではないですね」

「へぇ、海外留学なんてすごいですねー」

「僕の周りはそんな奴らばっかりだから、自分では凄いだなんて思ったことはないなぁー」

「お金持ちの知り合いがいっぱいいそうですもんね」

「ははは。そうかもしれません。類は友を呼ぶってヤツですかね。でもみんな気さくでいい奴らばっかりですよ。そうだ。今度パーティーがあるので、良かったら二階堂さんも一緒にどうですか?」

「ぱ、パーティー?」

「ええ。僕の父が所有している船で、東京湾をクルージングしながらの気楽なパーティーです。二階堂さんが来たら、きっとみんな喜ぶと思います」

「でも私、その頃東京にいるかどうか分かりませんし」

「ああ、そうでしたね。いつまで東京に?」


「まだ未定なんですけど」真矢は苦笑して、肩を竦めてみせる。


「多分、年明けには地元に戻ると思います」

「じゃあ、大丈夫だ」

「大丈夫?」

「ええ。カウントダウンパーティーですから」

「あ、あぁ、カウントダウンパーティーですか」


「どんな感じのパーティーなんですか?」真矢が訊くと、加藤は詳細を語り始めた。


 どうでもいい話だが、時間稼ぎにはちょうどいい。真矢は「へぇ」「わぁ、すごい」適当な相槌でその話を聞き流しつつ、チラと腕時計を確認する。


 あと少し。あと少しで二十分。


「楽しそうなパーティーですね。それなら私でも行けるかもしれません。あの、それでしたら、私と連絡先を交換していただけませんか?」


 加藤は「これは驚きました」と、眼鏡を指先で持ち上げた。唇を弓形に吊り上げて、「まさか、そちらから聞いてもらえるとは思ってませんでした」と笑みを洩らす。


「あぁ、でも僕、実はSNS関係はやってないんですよ。なので、電話番号でもいいですか?」

「実は、私もSNSは苦手で」

「はははっ。僕と同じですね。では、今日の記念として、このコースターにお互いの電話番号を書いて交換しましょう」


 真矢が答えるより早く、加藤は胸ポケットから高級そうなペンを取り出すと、『銀座むかい』の丸いコースターに電話番号を書いて真矢に手渡した。真矢がそれを鞄にしまい、加藤からペンを受け取ろうとした時だった。


 真矢の身体がぐらりと傾き、加藤が「おっと」と真矢の腰に手をまわす。自分の方に真矢を引き寄せ、「大丈夫ですか?」と加藤は真矢の耳元で囁いた。全身に鳥肌が立った真矢は「大丈夫です」と答えるが、なんだか呂律がうまくまわらない。


 まずい、と、真矢は思う。


 さっきのワインは、ほんの少し口に含んだだけだ。だから、もしも薬が入っていたとしても、それだけの量で効くとは思えない。それなのに、なんだか頭がぼうっとして、目も霞んできた。


 ぐったりし始めた真矢を抱き寄せた加藤は、くっくっ、と真矢の頭を抱えながら小さく嗤う。「本当に綺麗な髪だ」と耳元で声がして、霞んでいく真矢の視界に、黒髪を掬う手が入り込んだ。


「こんな状態では、今日は帰れませんね。大丈夫ですよ。僕の家に連れて行ってあげますから」


 真矢は首を振る。が、もはや首が動いたかどうかも真矢には分からなかった。真矢の目蓋が閉じていく。もう持ち上げる力すら真矢にはない。頭の中、脳漿が縮んで頭蓋の外にひっぱられていくような感じがしている。


 もう、ダメかもしれない。真矢がそう思った時だった。

 

「すいません。僕の彼女がご迷惑をおかけしたようで」


 荒々しいカイリの声がボックス席に響いた。








 

 





 



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