13

「そうでしたか、このビルで働いているわけじゃない……」


 男性は少し困った顔をしたかと思うと、申し訳なさそうに「では僕は、余計なことをしてしまったのかもしれませんね」と真矢に言った。


「ただでさえ慌ただしい師走に、たかだか340円を返すためだけに僕を待っていたなんて。申し訳ない気持ちです」

「いえいえ、あの時はすごく助かりました。だって——」


 あの時、ペットボトルのお茶が買えて、本当に良かったと真矢は思う。喉を潤せたおかげで、スラスラ嘘をつくことができたし、横山弁護士は横山弁護士で、椅子から転げ落ちた後、「すまん、やはりそのお茶をくれるか」と、真矢が買ってきたペットボトルのお茶をぐびぐび飲んでいた。


「だって?」

「あ、いや、本当助かりました。ありがとうございました」


 真矢はあらかじめコートのポケットに入れておいた小銭を取り出す。男性に「それで、あのこれ」と差し出すと、男性は薄い唇に笑みを浮かべ「はい。それでは、確かに」と、真矢の手から生温かい小銭を受け取った。


「じゃあ、私はこれで」真矢は頭を下げる。男性も、「はい、それでは」と、真矢と同じくビルの出口へと足を進めた。軽く会釈して真矢は男性と別れる。


 ビルの外はもうすっかり夜だった。普段なら明かりが灯っているはずの窓ガラスは、真っ暗な所も多くオフィス街は閑散としている。ビルの合間を縫う隙間風がびゅうっと吹き、真矢はコートの襟元を手で押さえた。思わず「さぶっ!」と身を捩る。


 今日は弁護士事務所に行くということもあり、コートの下は即席で用意したワンピースだ。ストッキングを履いた足を冷たい風が撫でていき、真矢は膝を擦り合わせた。


 最寄りの駅までは徒歩五分くらいだったはず。真矢はスマホを取り出して、最寄り駅までの道順を確認する。今いる『加賀美かがみビル』から右に進み、二本先の交差点を左、そのまま三本先まで進んで——。


「よし。大体覚えた」


 スマホの充電はあまりない。温存しなくてはと、真矢はスマホをポケットに入れて、最寄り駅まで向かう。ふと背後を振り返ると、男性の姿はもうなかった。


 丁寧な言葉使いと紳士的な態度。官能的な甘い香りを思い出しながら、真矢は「こちらこそ、ご迷惑をおかけしてしまってだよね」と独り言ち、街頭の下を歩く。


 いつぞや鬼角が「スマホは命の次に大事っス」と言っていたけど、本当そうだよな、と真矢は思う。今時は自販機に違わず、キャッシュレス決済も多い。それに、地図アプリを使えば迷うことなく目的地に行ける。


 はず……


「あれ? これ何本目の交差点だっけ?」


 薄暗いオフィス街。スマホを取り出して現在位置を確認した真矢の口から「あちゃー、一本前の道だった」情けない声が出る。


 結局スマホ片手に、地図アプリの指示に従い、真矢はようやく最寄り駅まで辿り着いた。スマホを持つ手もヒールを履いた爪先も凍えそうだ。早く電車に乗りたいと思いながら真矢は改札を抜けた。


 ——が。


「嘘だろ……」真矢は案内放送に耳を疑う。


『お客様にお知らせいたします。先ほど当駅におきまして、列車とお客様が接触する事故が発生いたしました。現在——』


 茫然と立ちすくむ真矢の横を若い女性二人が通り過ぎていく。


「ほんと最悪。人身事故とか超迷惑」

「だよねぇ。この辺タクシーもすぐには捕まんないし、本当迷惑だよねぇ」

「死にたいなら迷惑かけずに死んで欲しいよね。掃除する人もトラウマ級でしょ」

「本当だよねぇー」


 彼女達の背中を視線で追い、真矢は亡くなった方に対してあの言い方はないよな、と思う。でも彼女達の言い分も分からなくはない。自分だって早くシンデレラ城に戻りたいのだ。


 どうしようかと真矢は思う。タクシーに乗って帰れるご身分でもないし、お財布の中も氷河期だ。カイリに車で迎えに——と考えて、真矢は首を振る。そんなの、日付けが変わってしまうくらい待たされそうだ。


 何はともあれ、とりあえず、駅からすぐに出なくてはと真矢は踵を返した。人身事故の死者と遭遇するのだけは、なんとしても避けたい。


 外に出た真矢は、駅の外壁に背を預け「はぁー」と長いため息を吐いた。スマホで調べた別の最寄り駅までは徒歩二十分。今日は結構歩きまわり、足が棒のようだ。電車の座席下から出る温風を期待していただけに、真矢はガックリと肩を落とす。


「しゃあない。別の駅まで歩くかぁ」と、真矢が壁から背を離した時だった。


 真矢の横を一台のタクシーが通り過ぎ、少し先でハザードランプを点けて停まる。なんの気なしに「いいなぁタクシー」と呟いて、タクシーの横まで足を進めると、タクシーの窓が開き、「大丈夫ですか?」と男性が顔を出した。見ると、さっきお金を返した男性だ。真矢は無言でぺこりと頭を下げる。


 さすが、あのビルで働いているだけのことはある。着ているものの高級そうだったし、タクシー移動なんだ。


 そんなことを思いながら「先ほどはありがとうございました」と真矢は会釈した。男性は「良かったら最寄り駅までお送りしましょうか?」と真矢に声をかけてくる。真矢は「いえいえ、そんな申し訳ないです」と急いで手を振った。


「でも、ここから次の駅まではだいぶ距離がありますよ。僕も同じ方向に行く予定です。どうぞ、お気になさらず」


 真矢が「でも——」と言うが早いか、男性の顔が窓から遠のき、と同時に、タクシーの後部ドアが開いた。車内の男性は、「あまり長くここには停車できないですし。急いで」と、真矢をタクシーに呼び込む。


 真矢はどうしようかと考える。


 見ず知らずの男性に、そこまでお世話になっては申し訳ない。でも、ありがたいお話ではある。スマホの電池マークが赤色になっている今、慣れない都会の街をスマホ片手に彷徨うのは少し怖かった。


「急いで。さぁ、早く」男性は奥の席に移動し、リアガラス越しに後ろを気にしている。背後の信号は赤で、間も無く青に変わりそうだ。迷ってる暇はなさそうだと真矢は思う。


「じゃあ、お言葉に甘えてもいいですか?」

「もちろんです」


 真矢はタクシーの後部座席に急いで乗り込んだ。


 

 

 


 




 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る