都内にある長谷川邸の裏口玄関で、安田美穂はビシッと敬礼をする。


「被害女性のへその緒があって良かったです。ではワタクシは、これにてっ!」


 安田美穂は真矢とカイリに頭を下げると、警視庁へと戻っていった。


「警察って、大変だねぇ。夜勤明けでも仕事するんだから」

「人によるんじゃないですか? ヤスさんの娘だし」

「確かに」

「それじゃ、印を結んでおじいちゃん弁護士の元へ行きましょうか。はやくしないと、夜になってしまいます。そしたらこの家、真っ暗ですよ」


 カイリの言う通りだ。冬の日没は早い。真矢は差し出された手を握り、カイリと調和の印を結んだ。白黒二匹の陰陽魚が二人の頭上に浮かび上がり、底冷えしていた真矢の身体の芯が少しだけ暖かくなる。


 真矢とカイリが応接間に入ると、死者三人がすでに皮張りのソファーに腰をかけていた。厳粛な声で〈どうぞ、そこへ〉と、死者である長谷川洋三に言われ、真矢とカイリはソファーに並んで腰を下ろす。


 思った以上に腰が沈み、「うおっ」と、真矢の口から声が洩れた。お尻の下は羽毛布団のような柔らかさだ。手触りも本革特有の柔らかい感触で、相当高級なソファーだと真矢は思った。それもそうか。長谷川邸自体も豪邸と言っていいほどの佇まいだ。


 真矢は長谷川洋三の話を思い出す。


 生前の長谷川洋三は、弁護士は弁護士でも、法律事務所の所長として、大手企業等の顧問弁護士をしていたそうで、晩年は所長職を辞し、刑事事件の弁護人として、被疑者や被告人の弁護活動に力を入れていたという。


 しかし、数年前から認知症という脳の病が洋三を襲った。


 弁護する被告人の名前が覚えられない。法廷で同じ質問を繰り返してしまう。被疑者との接見をすっぽかし、さらには重要証拠をどこかに置き忘れてしまった。これ以上、弁護士として法廷に立つことはできない。


 長谷川洋三は弁護士を辞め、自宅に引き篭る生活が続いた。


 そんなある日、あてもなく知らない街を歩いている自分に洋三は気づいた。靴は片方しか履いてない。どうやって家に帰っていいか分からない。助けを求め、保護された交番に迎えに来てくれた娘は、目に涙を浮かべていた。それを見た洋三は、こんな自分は、もう娘と一緒に暮らすことはできない。こんな自分が同居していたら、娘には結婚相手も見つからない。そう思い、自ら有料老人ホームに入ったのだと。


 娘である長谷川いずみは、父親の話を聞き、〈お父さん、わたしは迷惑なんて思ってなかったんだよ。一緒に暮らしたかったんだよ。だってお父さんとわたしは、ずっと二人で生きてきたじゃない〉と涙を拭っていた。


 マッチングアプリで婚活を始めたのも、日毎、記憶が混濁していく父親に、花嫁衣装を着た自分を見せたかったから。安心して欲しかったからだと、いずみは言った。


〈そしたら、お父さんの記憶に、わたしの新しい記憶が少しだけでも増えてくれるかなって……。昔の記憶が消えてしまうなら、消えてしまった分、幸せな新しい記憶を上書きしていけばいいと思ったんです……。それが、まさか、こんなことに……〉

〈ワシはお前に幸せになって欲しかっただけなんだ……。それに、みっともない姿を見せたくなかった〉

〈みっともなくなんてないよ。誰でも通る道じゃない。それに、お父さんのこと、わたし、大好きなんだから〉

〈すまなかった。一緒に暮らしていたら、お前が犯罪に巻き込まれることもなかったかもしれないのに……〉


 長谷川邸に来るまでの間、車の中で二人はそう、真矢に話してくれた。


〈改めて、君達に依頼したい。この通りだ〉と、長谷川洋三は頭を下げる。これまでの経緯を全て聞いた長谷川洋三は、初めとは打って変わって、慇懃いんぎんな態度に変わっていた。


〈先ほどは、犯人を極刑に処してやるなどと啖呵を切ったが、ワシはこの通り、死んだ身。現実的に考えて、そんなことはできない。ならば、犯人を見つけ出し、法の裁きを受けさせたい〉


 細くて折れそうな肩、頭頂部が綺麗にハゲた頭。白い長袖の下着に茶色い腹巻を巻いた、ザ・昭和の親父スタイルの洋三は顔を上げる。


 真矢とカイリは「もちろんです」と声を揃えた。


 洋三は骨張った顎を少しだけ引き、〈こんな悔しいことがあるものか〉と声を絞り出した。隣に座る娘のいずみの手を握り締めながら、〈愛する我が子を殺されて、父親として許してなるものか〉と、奥歯の軋む音が聞こえそうなほど憎々しげに言葉を続ける。


 応接間に差し込む夕陽のせいで、窓を背にした洋三の痩せた身体からは、怒りの炎が燃え上がっているように見えた。心なしか、応接間の気温も下がった気がする。


 真矢の手に圧がかかる。カイリが真矢の耳元で「このままだと、ヤバイかもしれません」と囁いた。真矢は無言で頷く。


 洋三の娘を殺された怒りは相当なものだ。魂が怒りに飲み込まれれば、黒髪ウィッグに囚われた長谷川いずみのようになりかねない。洋三のか細い身体からは、墨が滲んでいくように、黒い靄が揺らめき始めていた。


「黒ちゃんに喰わせますか?」カイリに訊かれ、真矢は一瞬考え、首を振る。


 この場合、本人の承諾なしに陰陽魚が怒りを喰らうのはきっと違う。それに、洋三は怒って当然なのだ。大事な一人娘を殺されたのだから。だから、何人たりとも、洋三の怒る権利や、恨む権利を勝手に奪ってはいけないと真矢は思う。


「でも、このままではまずいですよね」カイリが言った時だった。


〈ぜぇーったいっ、犯人を捕まえますからねーっ! お父さんっ、大丈夫ですっ! 僕達呪詛犯罪対策班は優秀なんですぅ! なんてたって、事実を知ってる被害者本人に話を聞いて捜査できるんですからっ!〉


 呪呪ノ助の大きな声が応接室に響く。見ると、呪呪ノ助はソファーから立ち上がり、パジャマ姿で薄い胸を張っていた。裾からは貧弱な素足が伸びている。


 裾からパンツが見えたのか、長谷川いずみは手で目をそっと隠した。呪呪ノ助はそれに気づき、〈あわわわわっ! お恥ずかしぃ〜〉とソファに身を沈める。


〈ズボン履いてないんでしたっ!〉と、てへ、のポーズを取る呪呪ノ助に、真矢はグッジョブと親指を立てた。張り詰めていた空気が一気に弛緩して、洋三の身体から立ち昇る怒りの炎も、黒い靄も、雲散霧消した気がする。


 洋三は深く長い息を吐くと、〈佐藤君〉と、呪呪ノ助の名前を呼んだ。呪呪ノ助は〈はいっ〉と背筋を伸ばす。


〈君は死してなお、日本国家のため、警察組織に従事している。それは本当に素晴らしいことだ。今の君の言葉や態度で、ワシは気付かされたよ。心が怒りに飲み込まれていては、目が濁り、事実には辿り着けない。真実は人の心の数だけあるが、事実はいつもひとつしかない。それは現役時代、ワシが何よりも大事にしていた信念だ。だから、その……、先ほどは乳首の色で君のことを判断して悪かった。君は、素晴らしい。いずみも、こういう男を好きにならなくてはいけないぞ〉

〈はい……お父さん……〉


 灰色のスウェット姿のいずみは膝先を擦り合わせ、満更でもない態度を取っている。真矢は少し驚き、少し納得した。佐藤清こと呪呪ノ助はなんだかんだ言って、死者の心に寄り添っている。


〈ぐっぐふふふふっ。そんな風に褒められたらぁ〜、僕ぅ〜、天国に昇天しちゃいそうですぅ〜〉


 とはいえ、冴えないおじさん幽霊が生足を擦り合わせ、照れてる姿は気持ち悪い。真矢は湿った視線を呪呪ノ助に投げ、「それでは——」と、話を切り替えた。


「元弁護士としての、洋三さんのお考えを拝聴させていただけますか?」


 その時だった。カイリが「真矢ちゃん、ちょっといい?」と手を上げた。その手にはスマホが握られている。


「スマホで録音しましょう。あ、もちろん死者の声は入らないので、皆さんが話した内容を真矢ちゃんが復唱する形で。そうすれば、記録として他のメンバーにも共有できるでしょ」

「なるほど」


 なかなかいいアイデアだと真矢は感心する。手を繋ぎながら薄暗い部屋でメモを取るのは難しい。スマホに録音すれば聞いたことを忘れずにすむ。


 洋三は頷き、カイリが録音ボタンを押すのを待ってから、元弁護士として、自分が考える犯人像と調査方法を話し始めた。




 


 


 


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