警視庁から車で四十分。目的の老人ホーム『グランベール調布』は、木々に囲まれた三階建ての洋館で、まるで別荘地に建つ高級ホテルのようだった。芝生がきれいに刈り込まれた庭には、車椅子の老人とその家族らしき人がいる。


「老人ホームって言ってもピンキリですしね。ここは相当お高い気がします」


 紺色の作業服から紺色のスーツに着替えた安田美穂が言う。真矢は「本当だね、高そう」と答えながら、隣にいる長谷川いずみに視線を向けた。長谷川いずみは長い黒髪を胸まで垂らし、俯いている。その横では呪呪ノ助が〈お父さんにもうすぐ会えますからねぇ。大丈夫ですよ〉と優しく声をかけていた。


〈僕はいずみちゃんと先にお父さんのところへ向かいます。さささ、いずみちゃん、お父さんに会いに行きましょうねぇ〉


 パンツ一丁の冴えないおじさん幽霊は、長谷川いずみの背中を〈大丈夫ですよぉ。大丈夫ですからねぇ〉とさすりながら、建物の方へと飛んでいく。その様子を目で追いながら、真矢は長谷川いずみの話を思い出していた。


 長谷川いずみの話によると、父親である洋三ようぞうは、自分が認知症だと知るなり、娘の反対を振り払い、自らここに入ったのだという。父ひとり、子ひとり。母親のいない長谷川いずみは、毎週のようにここを訪れていた。そうしないと、大好きなお父さんが、どんどん自分のことを忘れてしまう気がして。


 ——それなのに。


 許せないと真矢は思う。犯人の男は、命だけではなく、そんな父と娘の時間も奪い去ったのだ。


 冷たい風に煽られて、絹糸のような黒髪が真矢の頬を撫でていく。真矢は「行こうか」と足を踏み出した。『グランベール調布』には事前に連絡を入れてある。鑑識課の安田美穂が一緒に来たのは、父親のDNAを採取するためだ。


「なんか、気が重いですよね」


 隣を歩くカイリが言う。真矢は「うん」と白い息を吐き、「でも、これで長谷川さんが被害者だっていう確固たる証拠が手に入るんだよね」と続けた。


「でしょうね。幽霊から聞いた情報なんてものは証拠にはならないですし」

「そのためにワタクシがやってきたんですからね。この後に行くご自宅でも、歯ブラシか、毛髪か、いやっ、へその緒を回収できれば、証拠としては充分ですっ」


 安田美穂はどこか嬉しそうに真矢達のあとをついてくる。真矢は被っているウィッグの黒髪をさらりと耳にかけ、安田美穂を振り返った。


「安田さん、夜勤明けなのに元気ですね」

「そりゃそうですよっ! 憧れの二階堂さんと一緒に捜査できるなんて幸せですっ! それにワタクシは二階堂さんよりずっと年下なので、美穂ちゃんって呼んでもらって構いませんよ」

「み、美穂ちゃん?」

「はいなっ! 安田美穂、警察官としてガッツリ任務を遂行しますゆえ、ご安心をっ!」


 歩きながら敬礼し、指で眼鏡を弾き飛ばす安田美穂はご安心できないテンションで、地面に腕を伸ばし、「メガネメガネ」と探している姿はまるでコントのようだ。


 真矢は「ははは……」と前を向く。隣を歩くカイリが「だいぶ年下ですって」鼻で笑うので、真矢は「うるさいわ」と肘で横腹を小突いておいた。


 死者が見えないから、真矢以外呑気なものだ。それに、おかっぱ頭に丸眼鏡、小柄な安田美穂はどっからどう見ても警察官には見えない。小学生がスーツを着てるみたいだ。場違いなテンションも大丈夫なのかと真矢は心配になる。


 ——が。


『グランベール調布』の受付で、刑事ドラマのように警察手帳を見せ、「ワタクシ、先ほどご連絡を入れた——」と、来意を告げる安田美穂は、警察官の顔になっていた。


「実はわたくしどもも、何度か娘さんにはご連絡を差し上げていたのですが、それ以上の詮索はしないことにしていたんです。長谷川さんの入居費用は先にいただいておりますし、こういった施設ですので、入居されたばかりの頃は面会に来られていても、だんだん来られなくなるということもありまして」

 

 手すりのついた長い廊下を歩きながら、女性職員は言葉を濁す。真矢は「そうですか」と頷き、どこからか聞こえてくるカラオケの歌声に耳を傾けた。音程の外れた歌謡曲は、赤いリンゴの歌を歌っている。


 長谷川洋三の部屋に向かう前、真矢達は女性職員より『グランベール調布』の施設内容を簡単に聞いた。


『グランベール調布』は介護付き有料老人ホームで、介護保険を利用して、介護、生活支援、食事、医療、リハビリやレクリエーションといったサービス提供している。一ヶ月の入居費用は最低価格三十万円と高額で、館内には美容院やカラオケ、娯楽室なども充実し、希望があれば看取り介護までしているとのことだった。


 女性職員の話によると、長谷川洋三は入居の際、看取り介護を希望していたそうだ。認知症が進んでしまう前に。自分の意思で決定できるうちに。我が子に迷惑をかけたくないと、そう、契約の際に話していたという。


「長谷川さんは入居して三年目ですが、半年くらい前からどんどん症状が進んでしまって。娘さんが会いに来られないからかもしれないね、と、職員の間でも話してたんですよ。それに——」


 現在、長谷川洋三は始終寝たきりの状態で、看取り期に入っているとのことだった。


「なので、何度かご自宅や携帯にご連絡していたんですけどね。あ、ここです。こちらが長谷川洋三さんのお部屋です」


 女性職員がスライドドアを開く。中を覗くと、部屋は十畳ほどの個室で、介護用ベッドが部屋の中ほどに置かれていた。壁際の洋服ダンスの上にはテレビ。窓際にはテーブルと椅子が二脚向かい合う形で置かれている。


 女性職員が「長谷川さん、娘さんのお知り合いの方がいらっしゃいましたよ」と声をかけ、「どうぞ」と真矢達に入室を促した。


 薬品と死の匂いが充満した部屋。介護ベッドで眠る老人の腕からは点滴のチューブが伸びている。その腕に、死者である長谷川いずみは顔を埋めていた。〈お父さん、お父さん〉と嗚咽まじりの声を出し、長谷川いずみは泣いている。


 死者である長谷川いずみの声は、きっと父親には届かない。それでも、長谷川いずみは腕から顔をあげ、父親の痩せこけた頬を撫で〈お父さん、わたしここにいるよ。お父さん、目覚めて……〉と話しかけている。


 親子の時間を尊重しているつもりなのか、呪呪ノ助は窓際に立ち、眉を八の字に曲げてその様子を見ていた。真矢の視線に気づいた呪呪ノ助は、〈どうにかして声を届けてあげたいですぅ〜〉と言ってくる。


 真矢も同じ思いだ。


 昏睡状態に近いなら、カリンちゃんや芦屋雪乃の魂のように、どこかに父親の魂はいるかもしれない。真矢は部屋の中を見渡すが、父親の魂はどこにもいなかった。


「申し訳ありませんが、口腔内の組織を採取させていただきます」


 安田美穂は重々しく言い、ベッドに近づく。真矢もそれに続いた。カイリは「僕はここで待つよ」と閉じたドアに背を預けている。


 白い手袋をはめた安田美穂は、女性職員の手を借りて、口腔内の組織を綿棒で採取し始めた。それが終わるのを待って、真矢は死者である長谷川いずみのそばへと進んだ。


 長谷川いずみは真矢を見上げ〈お父さんって、わたしの代わりに声をかけてあげてください〉と言う。真矢は無言で頷き、「お父さん、会いにきたよ」と声をかけながら、長谷川いずみの手の動きに合わせて、そっと頬を撫でた。


 さらりと、真矢の耳から黒髪が流れ落ち、洋三の頬に触れる。その瞬間、皺に埋もれた目がうっすら開いた気がした。長谷川いずみと真矢は視線を交わす。もう一度、真矢と死者は骨と皮だけになってしまった洋三の頬を撫で、「お父さん、会いにきたよ」と声をかける。


〈お父さん、お父さん、わたし、わたしいずみだよ。会いにきたよ。お父さん——〉

「お父さん、目を覚まして。わたし会いにきたよ」


 長い黒髪の先に老人の手が触れた気がした。顎髭がまだらに生えた口元が微かに動く。長谷川洋三は娘の美しい黒髪に触れながら、「あぁ……い、ずみ……待ってたよぉ……」と声を絞り出し、それが生前の長谷川洋三(享年八十八歳)最後の言葉となった。


 



 






 

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