「——なるほど。これで被害者の身元は特定できましたね」


 真矢の向かい側の席で、棚橋は黒革の手帳にメモを取る。


 その横には黒髪を奪われ殺された、長谷川いずみ(享年四十歳)が立っていた。長谷川いずみの顔は青白く、切り裂かれた喉はパックリと三日月型に開いている。無残に刈り取られた髪は、一見すると坊主頭のようで、血で濡れていた。


 見るに耐え難い姿だ。それでも、呪呪ノ助のスウェットを着ているだけまだマシだと真矢は思った。一時間ほど前、死者である長谷川いずみが現れた時は、全裸だったのだから。それも、黒いベルトで口にボールが固定され、血とよだれを垂れ流していた。


 真矢は失念していた。死者は、死んだ時の姿で現れることが多いことを。だから真矢は、死者が現れたことを知るなり、カイリの手を離して調和の印を解いた。その後で、真矢はカイリに状況を説明し、二人は考えた。


 まずは、猿ぐつわと全裸をなんとかしてあげたい——と。


 しかし、生者である二人は死者には触れない。頭を抱えた真矢とカイリだったが、そこにタイミングよく鬼角からビデオ通話がかかってきた。その瞬間、真矢は「そうかっ!」と叫んでいた。


 死者は死者に触れられる。ならば、死者である呪呪ノ助をスマホから取調室に召喚し、灰色のスウェットを脱がせて長谷川いずみに着せればいい。


 我ながら上手くことは運んだと思いつつ、真矢はパンツ一丁の冴えないおじさん幽霊に視線を向ける。真矢の視線に気づいた呪呪ノ助は、取調室の端っこで〈やめてぇ〜っ見ないでぇ〜っ〉と、股間に手を当てて身を捩っていた。


「だからもう帰っていいんだってば」

〈帰ってもこの状況は変わりませんよぉ〜〉

「鬼角君がなんとかしてくれるって」

〈鬼ちゃんは黄色いベスパに乗ってお出かけしちゃったんですぅ〜〉


「真矢さん?」棚橋に名前を呼ばれ、真矢は「失礼しました。幽霊班員がうるさいもので」と頭を下げる。


 調和の印を解き、死者が見えないカイリは「で、これからどうするの?」と冷静に先を促した。


 真矢は隣に座るカイリを見て「コイツ今日は使えるな」と内心で呟く。陰陽魚に呪詛を喰わせたり、真矢にするべきことを教えたりと、今日のカイリはなんだか冴えている。


「僕、そろそろこの部屋のおじさん臭に限界を感じてるんだけど」

「前言撤回。カイリ君、場を読もか」

「前言?」

「いや、なんでもない」


「そうですね——」棚橋が低い声で話し始め、真矢は椅子に座り直す。


「身元が分かったとはいえ、裏を取る必要はあります。真矢さんの話だと、害者の長谷川いずみさんは都内の実家で一人暮らし。家族は父親のみで、その父親は都内の老人ホームに入っているとのことなので、まずは自宅、それから、その父親のところへ行く必要がありますね」


 棚橋の話を聞いて、死者である長谷川いずみは微かに肩を揺らす。嗚咽混じりに〈おとうさん……〉と呟く声が聞こえ、真矢は胸が詰まった。


 棚橋から聞いた長谷川いずみの死亡時期は今年の四月頃。今は十二月だ。それもあと数日で年を越す。ということは、長谷川いずみの魂はこの八ヶ月間、ウィッグの中に囚われていて、家族の元へは帰れていない。それどころか、今の今まで、死んだことを誰にも知られていないのだ。


 いや違う、と真矢は思い直す。


 長谷川いずみが死んだことを犯人の男だけは知っていた。


 真矢の脳裏に爬虫類じみた男の顔が浮かびあがる。高級そうな紺色のスーツを着た男は、痩せぎすで三十代くらいだった。


 長谷川いずみの話によると、自分を殺した男は、マッチングアプリで知り合ったばかりの男で、名前は山田隆やまだたかし。本人からは、大手広告代理店勤務と聞いていたが、本当かどうかは分からないとのことだった。


 真矢は棚橋の横に立つ長谷川いずみに目を向ける。いつの間に移動したのか、貧弱な裸体を晒した呪呪ノ助が〈お父さんに会いたいんですねぇ〉と、その背中を撫でていた。


 長谷川いずみは喉に手を当て、ゆっくりと頷く。


〈わたしを殺したあの男のことは許せない……今すぐにでも見つけ出して、この手で殺したいくらい許せない……。でも、それよりも、まずは、お父さんに会いたい……わたしが会いに行ってあげないと、お父さんは、お、お父さんは……〉

〈うん、うん。お父さんはいずみさんのことを忘れてしまうんですねぇ。忘れられるのは、とぉーっても辛いことですよねぇ。家族なんですからぁ〉


 呪呪ノ助はズズーっと盛大に洟を啜り、真矢に言う。


〈まずは、お父さんのいる老人ホームに行くべきですぅ〜。すぐにでも連れて行ってあげてくださいよぉ〜。僕の経験上、きっとウィッグを持っていけば一緒にいけますよぉ〜〉

「ウィッグを持ち出すってこと?」

「真矢ちゃん、ウィッグは持ち出し厳禁でしょ」

「そうですね。持ち出し厳禁です」

「ですよね……」


 真矢は肩を竦める。棚橋が警視庁に真矢とカイリを呼んだのは、重要証拠であるウィッグを外部に持ち出せないからだ。


〈そこの刑事さんを説得してくださいよぉ〜。持っていけないなら僕ぅ、ここからテコでも動きませんからねーっ〉

「それは別にいいんだけど」

「なにが別にいいの?」

「いや、佐藤清の幽霊がウィッグを持ち出せないならここからテコでも動かない、ってごねてるもんだから」

「あー、なるほど。それは確かに別にいいかもですね」

〈綺麗な顔のお兄さんもひどい〜っ! 僕達は同じ呪対班の仲間なんだからぁ、そこは別にいいって言ったらダメですぅ〜〉

「分かったから、一回お口にチャックしよ」


 真矢は呪呪ノ助を手で制し、「ううむ」と腕を組む。死者である長谷川いずみは、手で顔を覆い泣いている。それを見て、なんとかしてあげたいと真矢は強く思う。


 ——それに。


 カイリの陰陽魚が呪力を吸い取ったとはいえ、長谷川いずみの魂はまだ黒髪ウィッグに縛られている。なぜならば、真矢がウィッグを被ると、死者である長谷川いずみの髪の毛も黒髪ロングに戻るからだ。


 呪呪ノ助が言うように、ウィッグを持っていけば、長谷川いずみの魂は真矢達と一緒に行動できるはず。


「棚橋さん、長谷川さんの魂はまだウィッグに憑いてるはずです。ウィッグを持ち出せば、長谷川さんの魂は、私達と一緒にいけます。そうしたら、犯人逮捕に繋がる有力な情報も、もっと得られると思うんです」

「確かにそれはそうかもしれないですが、規則は規則ですので、やはり、持ち出しはまずいかと」

「ヤスさんならいいって言うかも」

「カイ君」

〈そうだそうだーっ! あの怖いおじさんならいいって言うはずですよぉーっ!〉


 棚橋に詰め寄る呪呪ノ助を真矢は手で追い払い、「なんとかなりませんか?」ともう一度訊く。


 棚橋は顎に拳を当て目を閉じた。どうやらカイリに「ヤスさんなら」と言われ、規則を破るか否か、葛藤しているようだ。


 真矢は箱に入れられた艶やかな黒髪に視線を向け、ふと、鑑識課の安田美穂のことを思い出す。


 この箱を持ってきた時、安田美穂は言っていた。本来、重要な証拠品をこうして保管することはありません、と。だとすれば、箱からウィッグを抜き取って、元通りに呪符を巻けば、誰もウィッグが無くなったことに気付かないのでは。


 いや、ダメか。誰かが箱を振って、中身が空だとバレる可能性はある。なら、代わりに似たような何かを入れておけばバレない?

 

 逡巡する真矢の脳裏に、水色のメイド服を着た狸顔のオネェ様が浮かび上がる。オネェ様は、ある時は不思議の国のアリス。またある時は白雪姫。確か昨日はかぐや姫だった。


 未だ葛藤を続けている棚橋に、真矢は「ちょっといいですか?」と、思いついたアイデアを提案した。



 







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