去り際、鑑識課の安田美穂は「なにかあれば、いつでもご連絡ください」と、自分の携帯番号を名刺の裏に書いていった。真矢はその『080』から始まる番号に視線を落とし、安田美穂の言葉を思い出す。


 ——ワタクシは見えるようになりたいんです。そして、死者の声を聞き、犯人逮捕に役立てたいんですっ!


「そうだよな」真矢は呟く。


 女性の髪を奪い取り、喉元を切り裂いた犯人の男。カイリと書いた似顔絵は下手すぎて、きっと捜査の役には立たない。でも、死者から直接犯人の情報を聞き出すことができれば、確実に役に立つ。


「絶対に被害者の魂を見つけ出さないと」

「ですね」


 真矢はポケットに名刺をしまうと、カイリに手を差し出した。その手をカイリが握り、二人は目を閉じる。同じタイミングで息を吸うと、二人は声を揃え、ヤバイ呪物用として覚えたばかりの呪文を唱えた。


「私達は、二人でひとつ。陰陽調和の印をここに結び、これより潜入を開始します——」


 愛に教えてもらった呪文の効果は絶大だ。真矢の意識は驚くような速さで切り替わり、創造の源へと辿り着く。


 白一色の世界には光のシャワーが降り注ぎ、陰陽、二匹の魚が悠々と泳いでいた。白と黒の陰陽魚達は、互いの尻尾を追いかけて完璧な円を描いていく。


 ——真矢ちゃん、準備はできたよ。


 カイリの声が心に響き、真矢はうっすら目を開けた。


 無機質な取調室。二人の頭上には、神聖な光の輪の中で陰陽魚が優雅に泳いでいる。調和の印を結ぶごとに、真矢とカイリの陰陽魚は存在感を増し、創造の源へと続くパイプの代わりになっていた。


「始めましょうか」

「うん」


 呪符に巻かれた箱をカイリが手に取り、真矢が封印の護符を丁寧に剥がすと、箱に巻かれた呪符は自ずからするすると解けていった。


「僕の見えてる世界が見えますか?」


 カイリの問いかけに真矢は頷く。呪符が解かれた白木の箱には、蓋にお札が一枚貼ってある。しかし、お札だけでは押さえ込むことができないのか、蓋の隙間からはドライアイスのように黒い煙が流れ落ちていた。


 カイリと真矢は二人で蓋をそっと持ち上げ、机に置く。箱からどっと溢れ出した黒い靄は、瘴気そのものだと真矢は思った。


 不意に「黒ちゃん」と声がして、真矢は「くろちゃん?」とカイリに視線を向ける。


 見ると、カイリの頭上に浮かぶ黒い陰陽魚が光の輪を抜け出しているところだった。黒い陰陽魚は鯉のように口を開け、箱から流れ出した瘴気をパクンッパクンッと次々に喰べていく。唖然とする真矢の目の前で、瘴気を全て喰べ終えた黒い陰陽魚は、短い尻尾を揺らしながら光の輪の中へ戻っていった。


 真矢は「カイリ君いつの間にそんな技を」と素直に驚く。


「今の、カイリ君がやったんだよね?」

「そうですよ。僕は毎日コツコツトレーニングを積んで日々進化してるんです」

「全然知らなかった。そんな技が使えるくらい、毎日コソコソしてたなんて」

「コソコソじゃなくてコツコツ。真矢ちゃんセリフが誤字ってますよ」

「すぐに山場先生に教えてあげなきゃ」

「えっ、やめてください。それより、中身を取り出しますよ」

「あ、うん……」


 まさかカイリが陰陽魚を操るとは。なんだか置いていかれた気分の真矢は、箱に視線を戻す。


 瘴気の抜けた箱の中は、長い黒髪が蛍光灯の光に反射して艶やかな光を放っていた。濃密な黒髪は、闇夜の海に流し込んだコールタールのようで、触れれば糸を引きそうなくらいねっとりとして見えた。


 真矢とカイリは同時に箱の中に手を入れる。その瞬間、湿り気を帯びた黒髪がヒルのように指に吸いついてきて、真矢の全身が総毛立った。と同時に、白い陰陽魚が大きく跳ね上がる。


「ごめん、つい……」

「いや、僕もギリ持ち堪えました……」


 真矢とカイリは心を整え、頭上の陰陽魚達が完璧な円を描くのを待ってから、二人で黒髪ウィッグを持ち上げる。


 箱から取り出した黒髪は美しく、そして、ギリシャ神話に出てくるメデューサの髪のように蠢いていた。黒髪は、真矢とカイリの腕に、蛇が獲物を締め殺すように巻きついてくる。


 ホラー映画のような光景に、真矢は奥歯を噛み締める。


 ダメだ。恐れてはいけない。これは、被害女性の怨念だ。犯人の男はなんの躊躇いもなく、被害女性の喉を切り裂いた。被害女性に罪はない。怨んで当然なのだ。だから、怖いなんて思ったらダメだ。


 ——私が一体なにをした……。許さない。お前のことを、許さない……。末代まで……、お前のことを呪ってやる……わぁ……しぃぉ……かみぃ……けぇ……えせぇ……


 殺された女性の声が、取調室にこだまする。鬼角ルームで聞いたのと同じ呪詛だ。


「黒ちゃんお喰べ」


 なんだかぎこちなくカイリが言うと、部屋に響いていた声は赤く燃える文字と化し、二重螺旋を描きながら黒い陰陽魚の口の中へと吸い込まれていった。


「まるでバグった音声みたいですね。同じ言葉を幾度となく繰り返している。僕の黒ちゃんが吸っても吸ってもキリがないみたいです」


 カイリの言葉で、真矢はビルから転落死した女子高生、青山千夏のことを思い出す。青山千夏の残留思念は幾度となく死の記憶を繰り返していた。きっとこれはそれと同じ現象なのだと真矢は思う。


「はやく、この連鎖から開放してあげなきゃ」

「ですね。でもそれは僕の役目じゃないですよ」

「え?」


 真矢はカイリを見る。カイリもまた真矢に視線を向けた。


「僕は呪い担当。で、真矢ちゃんは?」

「あ、死者担当……」


「あれを見てください」と、カイリは頭上を指差す。


 黒い陰陽魚は呪詛の文字を喰べ続けている。そのせいなのか、黒い陰陽魚は白い陰陽魚よりも身体が大きくなっていた。


「愛ちゃんが言ってましたよね? 僕達は二人でひとつ。陰である闇が大きくなったなら、陽である光が闇を照らさなきゃいけないって。

 てことは、僕の黒ちゃんが喰べた分、真矢ちゃんが光を補充してあげるってことじゃないんですか。じゃないと、このウィッグの中にいる死者には出会えないのかもしれませんよ」

「確かに」


 カイリは的を得ている。ならばと、真矢は腕に絡みつく黒髪に意識を向けて、目を閉じた。そのまま創造の源へと意識を戻し、光のシャワーを全身に浴びながら、黒髪ウィッグに染み込んだ、死者の魂を開放してくださいと祈った。


 祈りながら、真矢はふと思う。


 呪い担当のカイリは、黒い陰陽魚を「黒ちゃん」と呼び、式神のように操って瘴気や呪詛を喰わせていた。同じように自分も白い陰陽魚を操れたら、死者に対して、何かできることが増えるだろうか。


 真矢の口は自然と動き、「しろちゃん」と声に出していた。


 刹那、ふっと柔らかな風が頬を撫でた気がして、真矢は目を開ける。見上げると、頭上に浮かぶ陰陽魚達は、いつの間にかバランスを取り戻し同じ大きさになっていた。


 真矢はもう一度「白ちゃん」と声に出す。白い陰陽魚は嬉しいのか、短い尻尾をぴょこんと動かし、勾玉のような魚体をくねらせて、真矢の顔の前までやってくる。


 白い魚体にブラックホールのような漆黒の目がひとつ。真矢は試しに、「白ちゃん、私をこの髪の毛の死者の元へと連れてって」と、言ってみた。


 ——が、白い陰陽魚は微動だにしない。


 真矢がカイリに「ダメだ。カイリ君みたいにできないや」と、言った時だった。


 真矢とカイリの腕に巻きついていた黒髪が、風に舞うように膨らんで腕や指から離れ始めた。黒髪ウィッグはそのまま宙に浮き、真矢の頭上で、まるで透明人間が被っているかのように長いストレートヘアーの形を成すと、そのまま真矢の頭に落ちてきた。


 シルクのようにさらさらとした髪が真矢の頬に触れている。黒髪は真矢の肩から胸にかけて流れ落ち、ヘアケア製品のCMばりに眩い光を放っていた。


「真矢ちゃん大丈夫?」カイリは真矢の顔を覗き込む。真矢はカイリの顔を見上げながら、「あ、うん……」と答えた後で視線をずらし、これはこのまま手を繋いでいたら絶対ダメなやつだ。と、冷静な頭で思った。


 


 


 


 

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