18

 露天風呂の中で手足を思いっきり伸ばした真矢は「天国や〜」と空を仰いだ。雪雲が去った空には数多あまたの星が輝き、頬を刺すような冷気も温泉で火照った身体には心地いい。


 深夜零時。


 民宿『すすき』の内風呂で身を清めた真矢は、石造りの露天風呂で温泉を堪能していた。


 ぬるりとした泉質はナトリウム炭酸水素塩泉で、日本三大美人湯のひとつ、龍神温泉の系統か。地理に疎い真矢にはそのあたりはよく分からないが、山場先生が言う通り、和歌山県が源泉掛け流し温泉の宝庫だということは理解できた。


「カイリ君はもう寝たかなぁ〜」


 老婆の死者と話しをするため居間を出た真矢だったが、話を聞き終えて居間に戻ると、カイリは鈴木さんと一緒になって日本酒を呑んでいた。


 いや、あれは呑んでいたというより、呑まされていたと言ったほうが正解か……。


 真矢も鈴木さんに誘われたが、やはりそこは丁寧にお断りして、鈴木さんが布団を用意してくれた部屋に行くことにした。


 酒盛りをするよりも、鬼角達と連絡を取らなくてはいけない。そう思った真矢だったが、部屋の襖を開けるなり絶句してしまった。


「なんで布団が二組っ、それも、くっついてっ?!」


 廃村で鈴木さんに声をかけられた時、調和の印を結ぶためカイリと手を繋いでいた。だから鈴木さんは、二人のことを恋人同士だと思っていたのだ。


「忌中で閉めてる民宿に泊めてもらうのに、今更別の部屋でお願いしますとは言えないよね……?」


 散々逡巡した挙句、真矢は並んで敷いてある布団を部屋の端と端に移動して、鬼角達と連絡を取ることにした。


 鬼角達は真矢が送った情報を元に調査を進めていると言った。


《もうちょっと、時間がかかるっスね。今日はもう夜も遅いんで聞き込みは難しいっス》


 鬼角はそう言っていたけれど、きっと明日合流するまでには、それなりの情報を集めて来るはず。鬼角はチャラいけど、できる奴だ。それに、呪呪ノ助もスマホの向こうで言っていた。


〈サクちゃん、僕のことが見えるみたいなんですぅ〜。それで僕が鬼ちゃんのパソコンをここっ、って指差すと、サクちゃんが可愛い声を出しながらそこを指差して教えてくれるんですよっ! 赤ちゃんってすごいですぅーっ!〉


 にわかには信じられない話だが、輪廻転生があるのだとすれば、もしかしたら赤ちゃんという存在は、魂の帰る場所に近いのかもしれない。咲人はもうすぐ生後三ヶ月。ということは、約三ヶ月前まではそこにいたのだろうから。


〈さっきの話、よろしゅう頼んますわ……〉


 ざらりとした声がして、真矢は浮かせていた足を沈める。声のした方を振り返ると、あの老婆の死者がいた。露天風呂の真ん中にある岩の上で背中を丸め、ちょこんと正座している。


〈あの子ぉは、ああやって、ワシが死んでからっちゅうもの、毎晩お酒を呑んで自分のほんまの気持ちを抑え込んでますぅ。本家の墓を守るため、あの子ぉをここに養子にこさせたけど、もうそんなんに縛られんでええ。自分の好いた女のとこに、はよう行ったらええ。ワシは死ぬまであの子ぉにそんな女がおるとは知らんだですぅ。毎晩その女の写真を眺めては、あの子ぉは、苦しそうな顔でお酒を呑んでますぅ。死んだ今ならわかりますぅ。もうええ。先祖の墓なんてどうでもええから、自分の人生を生きて欲しいって思いますぅ。それを、どうか、どうか、あの子ぉに伝えてさい……〉


 小さく折り畳まれた膝の上で骨張った手を握り締め、落ち窪んだ眼窩で真矢をじっと見つめてくる老婆は、まるで念仏でも唱えるようにぶつぶつぶつぶつ真矢に訴えてくる。


 真矢は湯船に肩まで身を沈め、「善処します」と答えた。


 熱い温泉に入ってるはずなのに、身体の芯だけ冷えてきたのは、この老婆の思念が強いせいだと真矢は思う。


 きっとこの老婆は、亡くなった後でさっき話していた光景を何度も見たのだろう。そして、知ってしまった鈴木さんの本心に胸を痛め、後悔の念に囚われているのだ。


〈あの子ぉは、ああやって、ワシが死んでからっちゅうもの——〉


 老婆は同じ話を何度も繰り返し言っている。このままでは、死ぬに死に切れず、地縛霊になってしまうかも知れない。


 なんとかしてあげたい。でも、そんな話、どうやって鈴木さんに切り出せば……? 


「できるかなぁ……」真矢が自信なさげにそう言った時だった。


 ——ちゃぱっ


 掛け流しの流水音とは違う音がして、真矢は身を竦める。今、この露天風呂には真矢しかいないはず。だとすれば、軒先から雪が溶けて湯船に垂れたのだろうか。いや、それにしては大きな水音だったな、と真矢は露天風呂の端に移動する。


 湯煙で、視界は悪い。


 岩肌に背を預けながら、カイリではないと真矢は思う。カイリは、民宿『すすき』にお風呂はここ一箇所しかないと知っている。それに、部屋に行けば真矢がいないことに気づくはずだ。


 だとすれば、こんな山奥の温泉だし……もしかして、猿?


「え、それもやだ……」


 真矢はバスタオルを手に取る。野生の猿は凶暴だ。猿なら脱兎の如く逃げ出さなければならない。


 ——ちゃぱちゃぱんっ


 ぶつぶつと念仏のように真矢に訴えかけていた老婆が言葉を止める。老婆の死者は、〈お連れさんが来たようですなぁ〉と、音がした方に首をゆっくりと捻った。


 ざばんっと豪快な音がして、「はぁ〜呑み過ぎた〜」とカイリの声が岩の向こうから聞こえてくる。


「嘘だろ……」


 真矢は急いでバスタオルを湯船に沈め身体に巻きつける。温泉の中にタオル類を入れてはいけないことくらい真矢も知ってる。でも今は緊急事態だ。そんなことは言ってられない。


 湯船の中、揺れ動くバスタオルはなかなかうまく身体に巻きつかない。真矢は焦ってつい「なんで、上手に巻けないんだよ、もぉっ」と声に出してしまった。


 しまった、と、真矢が口を抑えた時にはもう時すでに遅し。「え? 真矢ちゃん?」とカイリの声が老婆の座る岩の向こうでした。


「な、なんで、カイリ君までお風呂に入ってくるのっ?! 私が入ってること知ってたでしょっ?!」

「え……、ごめんなさい……。知らなかった……」

「部屋に行けば私がいないことくらいわかるじゃんっ!」

「部屋? あぁ、部屋は分けてもらったんですよ。鈴木さん、僕達がカップルだって誤解したみたいなんで」

「え。……そうなの?」

「はい。だって、そんな、僕は、まだ、真……できて……いし……」


 カイリは何か言ってるようだけれど、声が小さくて真矢には聞こえない。


「てか、それでも私の泊まる部屋に声くらいかけてくるのが普通でしょ?」

「あー、ね。僕、部屋に行かずに直接お風呂に来たんですよ。囲炉裏で燻された僕の髪の毛、煙くさくって」

「あー、ね。いや違うっ、あーね、じゃないわっ」


「……絶対こっち見ないでよ」真矢は胸元でバスタオルをぎゅっと握る。カイリは焦った声で「みっ、見ませんよっ」と返してきた。


「真矢ちゃんこそっ! 僕のこの美しい肉体美を拝みたいなんて願望——」

「——ないっ! そんな願望微塵も持ってないからっ」


 言って真矢は「ん?」と思う。カイリは元パリコレモデル。洋服の上からでも分かるほど、カイリの身体のラインは美しい。


「確かにそれは一度くらい見てみたいかも?」


 顎に手を当てて呟く真矢に、老婆の死者は〈そうですわ〉と話しかけてくる。


〈このお兄さんは、さっきまであの子ぉと呑み交わしてましたなぁ。それやったら、お兄さんにもワシの話を聞いてほしんでっけど〉

「は?」

〈あんたさんはさっき、できるかなぁって言うてました。それに善処するとも。善処じゃあきまへん。なんとしてもやってもらわな困るんです。ほうやないと、ワシは死ぬに死に切れません〉

「え、でも……」


 カイリ君にも話を聞いて欲しい?

 ——と、いうことはつまり……


「お風呂の中で調和の印を結ぶってこと?!」

「真矢ちゃん何か言った?」

「いや、なんでもない……」


〈一人よりも二人の方が心強い。ワシの頼みを聞いてくれるのやったら、あの子ぉの知れへん咒羅の話、ワシの知ってる範囲で全てお話しいたしましょ〉

「まるで取引みたいな言い方ですね?」

〈そうです。こら、あの子ぉの人生をかけた、取引ですわ〉


 岩の上、皺皺の口元を三日月型に吊り上げて老婆の死者は笑ってる。その顔を見て、真矢は思った。


 このお婆さん、生前は強情な性格で、周りに有無を言わせないタイプだったんだろうな……。



 





 


 


 


 

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