16

 フロントガラスに溶けてゆく雪は、ちゃくちゃくとその数を増やしている。真矢は「あー、本格的に降り出してきたー」と嬉しくない声をあげ、ワイパーを動かした。


 助手席に座るカイリは「多分もうちょっとだと思うんだけど電波がなぁ」とスマホを見ながら言っている。


「ねぇ、カイリ君。電波が届かないと地図アプリは使えないよね?」

「多分?」


 カイリは「でもまだ微妙に繋がってますよ」と言った後で、「それにしても山場先生酷いですよね。ま、うるさいのが消えて僕はありがたいですけどー」と今日何度目かの悪態を吐いた。真矢は苦笑して、「しょうがないよ、だって」とカーナビに視線を向ける。


 車に備え付けのナビ画面はただの水色で、蛇行を繰り返す細い線だけが映し出されている。


 山場先生が「果てなし山脈とは、つまり深山幽谷の果てしない山なのだっ!」と言ってた通り、熊野の山は奥深く、人ならざるものが棲んでいそうで、真矢は少し怖くなる。でも、そうはいっても、鬼角が調査して送ってくれた位置情報だ。真矢は「やだな」と渋るカイリを説得し、吉川守の遺体が発見された廃村へと向かっていた。


 ちなみに、説得できなかった山場先生は高野山に向かっている。それも、今日湯の峯で出会ったばかりのフランス人夫婦の車に乗って……。


「真矢ちゃん? だっての続きは?」

「あー、仕方ないよね。先生達、なんかすごく盛り上がってたし。てか、先生フランス語ペラペラでびっくりしちゃった」

「先生の旦那さん、フランス人ですからね」

「えぇっ?! そうなのっ?!」


 大きな声を出した反動で車体が揺れ、真矢は「やっば」と急いでハンドルを握り直す。


「これじゃ僕の運転の方がマシですね」

「いやそれはない」

「運転代わりましょうか?」

「大丈夫」

「それにしても先生無茶苦茶ですよねー。あの夫婦が宿泊する高野山の宿坊に、自分も泊めろって交渉してたし」


「えっ?!」なんと図々しい。


「先生あのご夫婦に、明日はじっくり高野山ガイドしてやるから任せとけ、みたいなこと言ってましたよ。あの夫婦もそれは嬉しいって言って、宿坊に一名追加できるか電話してたし」

「へー……」


 先生、明日は飛行機に乗って東京に戻る予定なんですが……?


 真矢は山場先生の強引さに呆れながら「で、この道は右、左?」とカイリに訊く。カイリはスマホを見ながら「右ですね」と答えた。真矢は「オッケー」と右の道に進む。


 木々に囲まれた山道は薄暗く、道路は舗装されていない砂利道だ。カイリの指示通り、雪で白くなり始めた道をしばらく進んでいくと、確かに廃村らしき場所に出た。


「多分、ここですね」

「うん」


 真矢はスピードを落とし、窓の外に視線を向ける。


 灰色の雪雲の下、何軒かの古い木造住宅は瓦屋根が崩れ落ち、蔦植物に飲み込まれて朽ち果てていく途中だ。玄関らしき入り口が斜めに傾き、ガラス戸が破れている家もある。打ち捨てられた田畑は積み上げた石垣で区切られていて、苔むしたその石の隙間から、シダの葉や茶色く枯れた雑草が飛び出ていた。


 ここから先、車は危険だ。入ったら出られなくなる可能性もある。真矢は「ここまでだね」と道の真ん中で車を停める。


「でも鬼ちゃん、ここに僕達をこさせて、何を調査して欲しかったんでしょうね?」


「そりゃあ」その先を言いかけて真矢は「ん?」と考える。


 そういえばあれから電波状況が良くなくて、鬼角達と連絡が取れていない。自分達だけ和歌山観光してて申し訳ないという気持ちから、真矢はカイリを説得してここまで勢いで来てしまった。


「どうしよ。そういえば鬼角君から聞いてないよね」

「車からその辺の写真を撮って、調査終了ってことでいいんじゃないですか」

「そんな適当なぁ」

「嘘嘘、冗談ですよ。先生から僕は呪詛を、真矢ちゃんは死者を探せって言われてます」

「え、そうなの?」

「そうですよ。フランス語で僕にめちゃくちゃ指示出してたじゃないですか」


 そういえば、湯の峯温泉の駐車場でカイリと山場先生はなにやら話してたな。フランス語だったから、真矢はその内容を気にもとめてなかった。それにあの時は、そのうち鬼角と連絡が取れるものだと思っていた。


「真矢ちゃんは僕と違ってフランス語はわからないんでしたね」

「フランス語はね」

「英語も微妙でしょ?」

「ねぇ、喧嘩売ってんの?」

「いくらで買ってくれるんですか?」


「買うかっ」ツッコミを入れた真矢の手が空を切る。カイリは「真矢ちゃんの行動は読めますよー」とふざけた口調で返すと、「さてと。嫌だけど、しょうがないですよねー」と助手席のドアを開けた。どっと冷たい空気が車内に流れ込んでくる。真矢はエンジンを切ると、後部座席に置いておいたコートを手にとった。


「今のところ呪いのイヤーな感じはしないから、ちゃちゃっとその辺見て、鬼ちゃん達と合流しましょう。それに今日は和歌山市内で宿泊する予定だし、早く戻らないとヤバそうですよ」


「ほら」とカイリが視線を投げた先を見て「確かに」と真矢は頷く。こうしている間にも、辺りは少しづつ白に染まっていく。夕方に雪の積もった山道を車で走るなんて、カイリはもちろん真矢でも危険だ。


「急ごっか」カイリと真矢は車を降りた。


 コートを羽織り、廃村に入る前には一応塩だな、と真矢はポケットに手を突っ込む。そこにカイリの手が「違うでしょ」と伸びてきて、真矢は「なにその手?」と首を傾げた。


 カイリはさも当然といった顔で「手を繋いで行くんですよ」と答える。


「陰陽のバランスをとりながら行けば、お互いの見てるものが見えるでしょ」

「あ、確かに」


 なるほどそうだなと、真矢はカイリの手を握る。もぞもぞっとカイリは長い指を動かして、真矢の手を恋人繋ぎで握り直した。


「なぜにこれ?」真矢は不思議そうにカイリの顔を見上げる。カイリは前を向いたまま「こっちの方が密着度が高くて調和率が高まるはずです」と答える。


 そんなもんなのか?


 まぁいいか、と真矢は目を閉じて、調和の感覚を呼び覚ます。愛が言っていた通り、何度か繰り返すうちに、真矢とカイリは時間をかけずともそれぞれの陰陽魚を生み出せるようになっていた。雪が降るほど気温は低いはずなのに、真矢の胸の辺りが暖かい光に包まれていく。


「行きましょう」カイリの声がして、真矢は目を開けた。


「寒いですよね」カイリは自分のコートのポケットに繋いだままの手を突っ込む。ふむ。確かにこの方があったかい。お前、なかなか気が利くな、と真矢は少し感心した。


「それにしても静かですね」

「ね、逆に怖いよね」


 雪の降る廃村は、しんと静まりかえっている。歩くたび、靴の下で積み重なった落ち葉が湿った音を出して潰れていく。その音がやけに大きく聞こえるくらい、ここは静かだった。


 廃村の奥へ足を踏み入れながら、どれくらい前からここは廃村なのだろうかと真矢は思う。腐葉土の匂いが立ち籠めるこの場所は、かつての生活の痕跡を残しているものの、人っ子ひとり、いや、見た感じ、死者っ子ひとりいない。


 多分、ここには呪詛の根も蔓延ってはいないと真矢は思う。


「今のとこ、なにも見えないよね?」真矢がカイリの顔を見上げると、カイリは前を向いたまま「そうですね」と白い息を吐いた。


「一番奥まで進んで、戻りましょうか。ここには多分なにも——」


 前を向いたまま、カイリの言葉と足が止まる。真矢も足を止め、カイリの視線の先を目で追った。刹那、ざらりとした空気が頬を撫でていき、真矢の全身に鳥肌が立つ。思わず手に力を込めると、カイリも同じく握り返してきた。


「真矢ちゃん、大丈夫ですか?」

「うん、なんか皺々の手で頬を撫でられたような気がして……」

「僕もです……」

「あれのせいかな……?」

「多分……」


 二人が歩く山道の二十メートルほど先には、古びた石段がある。その上は小高い場所になっていて、小さな古い墓地があるようだった。でも、墓地ではなく、真矢とカイリの視線はその石段の下、車二台ほどが停めれそうな場所に釘付けになっている。


 そこには軽自動車くらいの黒い塊が、ぼんやりと蜃気楼のように揺れていた。黒煙の塊のようなそれは、瘴気を孕んだ靄を辺りに撒き散らし、墓地の横の暗い獣道へと伸びている。


「あれは、呪詛……?」

「呪詛、というよりは、穢れ……の、塊みたいなものでしょうか……」

「穢れ……」

「もしくは、死の記憶とか……?」


「死の記憶?」真矢の脳裏に鬼角の声が蘇る。


《吉川は運転席に座った状態で発見されてるんスけど、どうやら持参していたサバイバルナイフで自分の喉を切り裂いて、フロントガラスの内側に、捧げるって漢字と、なんかちょっとややこしい漢字の二文字を血で書いていたらしいっス》


 その血で書かれた二文字がわかれば、少しは捜査が進展するだろうか。


「私達があそこにもっと近づけば、その死の記憶が見れるかもしれないよね?」

「わからないけど、やめといた方がいいでしょうね。多分、あれは良くないものですから」


「でも、せっかくここまで来たんだし」真矢がカイリに言った時だった。背後から「お前達はこんなところでなにをやってるんだ」という、怒気を含んだ野太い男の声が聞こえた。


 


 


 

 





 

 



 






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