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 それはとても不思議な感覚だった。魂の入れ物である肉体は、確かに今、ここにあるはずなのに、真矢の意識はもっと俯瞰した場所にあるような気がしていた。真矢のすぐ隣にはカイリの意識も浮遊しているように思える。


 ——じゃあ、再生するよ。


 カイリの声が頭の中に直接流れ込んできて、真矢は「わかった」と心の中で返した。


 再生された動画は、一見すると、やはりただの黒一色の動画でしかなかった。しかし、最初に見たときには見えなかった、その奥にある揺らぎのようなものが真矢には見えた。


 それはまるで、陽の届かない深海で大きな魚影が動いたような、そんな、気配といってもいいような揺らぎだった。


 フラッシュを焚いたような突然の閃光で真矢は目を瞬く。


 揺らいでいた闇の気配は消え失せ、代わりに白い画面に黒い粒子がポツポツと現れた。


 黒い粒子は微弱な振動を繰り返しながら、病原菌のように分裂しては、増殖を繰り返していく。飛び散った黒い粒子は、それぞれの周りで増殖を繰り返し、歪な島を形成していった。と同時に、映像は徐々に画面の奥へと引いていき、見える範囲が広がっていく。


 まるで電子顕微鏡を使ったクイズ番組のように、画面がズームアウトするたびに映像は像を結んでいく。


 ——真矢ちゃん、見えてる?


 カイリの声が頭の中で聞こえる。真矢は、「うん、多分見えてる」と、心の中で答えた。


 真矢の網膜を通し、脳に流れ込んでくる映像は、先程よりも、かなり明確になっている。


 これは、多分、人の顔だと、真矢は思う。


 松の表皮のように深く刻まれた皺と口。薄汚い乱杭歯を覗かせた唇は、微かに動いている。


 ——なま……い……あか……ぜ……たら……


 唇の動きに合わせ、地の底から響くような、嗄れた低い声が聞こえる。男の人だろうか。いや、男の人にしては音域が高い気がする。多分これは、年老いた女性の声だと、真矢は直感的に思う。


 声は何度も同じフレーズを繰り返している。


 ——なま……い……あか……ぜ……たら……


 聞き取りにくい声だ。誰かを叱っているようにも、警告しているようにも思える声は、電源を引っこ抜いたときのように突然プツっと消え失せ、同時に映像も切り替わった。


 木々に囲まれた場所。古ぼけて少し傾いた鳥居は木でできているのか、灰色をしている。


 風が吹き、辺りの木々が揺れ、木の葉の影が地面を這うように動いていた。


 カメラが固定されていないのか、映像は上下左右にぶれ、時折黒い映像が挿し挟まる。


 ——これは多分、誰かの記憶なんだと思う。


 カイリの声が頭の中で聞こえる。真矢は「記憶?」と心の中で問い返した。


 ——うん。カメラで撮った映像じゃないよきっと。ほら、今もまた、一瞬黒くなった。これは多分、瞬きなんだと思う。


 確かにそうかもしれないと真矢は思う。


 ——でも、一体誰の?

 ——わからない。でも、この記憶自体に悪意は見えないですね。


 悪意は見えない……。でも、この胸に迫ってくるような威圧感は一体なんなのだろうと真矢は思う。俯瞰した場所に自分の意識を留めているはずなのに、厭な気配が、うなじから背中にかけて纏わりついているような気がしてしまう。


 一瞬映像が乱れた気がして、真矢は一旦目を瞑り、創造の源でカイリと生み出した陰陽魚を思い出した。


 光と闇、調和の世界。真矢は心の中でつぶやき、目を開ける。真矢は俯瞰したクリアな意識を取り戻し、その先を確認していく。


 映像は傾いた鳥居を見上げている。次いで、すぐに視点は動き、鳥居の向こう側を映し出している。鳥居の向こう側は少し開けた場所になっていて、草一本さえ生えてはいない。そこは小さな広場のようになっていた。奥に建造物らしき影が見える。


 視点がぶれ、足元、登山靴が映る。この視点人物の履いているものだろう。登山靴を履いた足は一歩踏み出しかけ、地中に埋まった石のようなものに躓き、映し出されている地面がぐらっと揺れた。


 小さく上下に揺れる映像。きっと視点人物は、鳥居をくぐり、その先にある広場のような場所を歩いている。辺りを窺うように、視点はゆっくりと動く。ここは、山奥の廃村のようだと真矢は思った。薄暗い木々に囲まれた場所。何軒か建っている木造建築は、そのどれもが朽ち果てていた。


 視点人物は廃村の中へと足を進めている。


 真矢は思わず息を呑んだ。瞬きを繰り返し、もう一度意識をクリアに保つと、「これは、一体なに……?」と心の中でカイリに話しかける。


 ——僕もこんなのは初めて見た。この場所が呪いの集合体だってことに、きっとこの人は気付いてないんだと思う。呪詛の根があちこちに伸びているよね……


「呪詛の根……」真矢は思わず口に出す。


 カイリの言う通り、大地に蔓延る呪詛の根は、どす黒く、まるで心臓を取り巻く毛細血管のようにその地を覆い尽くしている。廃墟と化した家々にも呪詛の根が蔦植物のように絡みつき、拍動を繰り返していた。


 まるで、この一帯がひとつの生命体のようだと真矢は思う。


 中でも、動脈と静脈のように太く脈動する呪詛の根は、互いの先端で争うように絡み合い、とてつもない瘴気を放っていた。


 太い呪詛の根は互いに絡ませていた根の先を解き、ゆっくりとその鎌首を擡げていく。触手のように蠢く根の先はこちらに向かって勢いよく伸びてきた。真矢は一瞬身構えるが、視点人物はそれに気付かないのか、逃げるような動きを見せない。


 ——なっ、ひぃっ……


 突然、映像が勢いよく揺れ動き、聴き慣れない男の声がした。長袖の洋服を着た腕が映り込み、その腕に、蛸の足が獲物を絡めとるように、黒くて太い呪詛の根が絡みついている。


 ——やっ、なっ、なんなんだっ……


 腕を振り回し、見えない触手を振り解こうと男は踠いているようだ。が、呪詛の根は解けることなく、さらに男の腕に絡みつく。ずさっ、と鈍い音がして、小石だらけの地面で映像が埋め尽くされた。


 視点人物である男は転んだのだ。真矢がそう理解すると同時に、悲鳴が聞こえ、登山靴を履いた足が映し出された。足にも太い呪詛の根が絡み付いている。男は足で地面を必死に蹴り、砂埃が舞っている。しかし、呪詛の太い根からは新たに細い根が生み出され、男の足を覆い尽くしていく。


 不意に、腐臭を含んだ生温かい風が真矢の耳元をかすめていき、真矢は咄嗟に拳で鼻先を押さえた。


 ——願え、望め、捧げろにえを……


 真矢の耳元で、男とも女ともわからぬ、囁き声が聞こえる。


 ——願え、望め、捧げろ贄を……


 ぬるりとした、粘度の高い液体が真矢の手の中に落ちてくる。喉の奥を流れていく錆びた鉄の臭い。真矢は鼻先に当てていた拳を離し、恐る恐る指を広げた。


 べっとりと赤い血が、真矢の掌の中に広がっている。鼻腔を滑り落ちていく血液は、ぼたりぼたりと音を立て、真矢のジーパンの上に斑点を増やしていく。


 ——ダメだ、真矢ちゃん意識を保って。調和が乱れ始めてる。


 わかってる。そんなことはカイリ君に言われなくても。でも……


 ——願え、望め、捧げろ贄を……


 またあの声が聞こえる。次いで獣の咆哮のような断末魔の叫びが真矢の頭蓋に響き渡った。声の主は、多分、廃村に忍び込んだ男のものだ。


 ——願え、望め、捧げろ贄を……


 地獄の底から響いてくるような声と共に、真矢の視界が真っ赤に染まっていく。氷の手で心臓を直接鷲掴みにされたかのように、胸が急激に圧迫されていく。呼吸がうまくできない。


 苦しい。目の前がかすみ始め、もうダメかもしれないと、真矢が思った時だった。


 雨後の濁流の如く、おびただしい数の顔が真矢の頭の中に一気に流れ込んできた。着物を着た男性、女性、老婆、古めかしい洋服を着た男や女。時代をあちこち飛びまわる顔の中には、現代的なスーツ姿の男の顔もあった。


 真矢は目を見開く。その顔に見覚えがあったからだ。


 真矢の頭の中では、時代がバラバラな顔が浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。脳裏に上書きされていく顔、顔、顔。真矢はそれでも確信があった。


 忘れるはずもない。


 綺麗に撫でつけた髪、吊り上がった瞳に、尖った顎先。蜥蜴のような気味悪い顔。喉元を切り裂いていくナイフの冷たい感触を思い出す。


「す……、すべての創造の源よ……」


 カイリの声が意識の向こう側から聞こえ、真矢は、ハッとする。


 ダメだ。

 映像に取り込まれては。

 私達は二人でひとつの調和なのだから。


 真矢は意識を今ここに戻す。


「調和の印をほどき——」


 カイリの発する言葉の少し前、愛が先導するように呪文を唱えている。きっとこれは、意識を自分の身体に戻すための呪文だ。


 真矢は愛の声に集中し、カイリと共に復唱すべく、声を絞り出す。


「母なる地球の中心に、その根を降ろすため、私達は、グラウンディングを、実行します——」


 


 




 


 




 


 

 


 


 


 







 



 

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