「それで? 佐藤清はなんと言っておるのだ」


 子猫を彷彿させるような愛くるしい顔の咲人を抱いて山場先生が言う。その横ではカイリが「はやくっ、先生、もう僕の時間ですよっ」と身体を震わせていた。


「ダメだデカブツ。サクちゃんはワシに抱かれていたいのだ」


「のぉ〜、サク坊ぉ〜」山場先生が咲人の頬に自分の頬を擦りつける。咲人は困ったような怒ったような、なんともいえない顔をして、思いっきり顔を歪めると「ん゛〜」と唸り始めた。


「どうしたサク坊」山場先生は咲人から顔を離す。カイリがすかさず「サクちゃんは僕の方がいいんですって」と山場先生の腕の中から咲人を取り上げた。「あっ! 卑怯だぞっお前っ」と、山場先生がカイリの腕に飛びついて、無理やり咲人を奪い返した時だった。


 山場先生の腕の中から、ケチャップを勢いよく絞り出した時のような湿った重低音が轟き始め、低く長く研究室内に響き渡った。


 音が止み、一瞬にして静寂が訪れる研究室。誰もなにも言わない。いや、言えない。


 山場先生の腕の中から漂ってくる、乳製品を発酵したような酸っぱい臭いに気圧されて、真矢は一歩後ずさった。カイリも山場先生から数歩退く。


「あぁ〜」と咲人が声出すと、母親である愛はハッと我に返り、「ようやくでまちたねぇ〜」と、放心状態の山場先生から咲人を受け取った。


「今日一日出てなかったもんねぇー。えらいえらい」


 咲人をくるっとひっくり返して、お尻を見た愛は「やだぁ。多すぎてはみ出しちゃってるじゃない〜」と顔を顰める。ちなみに咲人が今日着ているロンパースは爽やかな水色で、背中には『存分に嗅ぐがいい』と書かれている。鬼角からのクリスマスプレゼントだ。


「外まで染みちゃってる〜」


「なぬ?」愛の言葉に反応した山場先生は自分の腕を見ている。「ん?」と顔を歪めた山場先生は、子犬のように恐る恐る腕に鼻を近づけると、鼻の穴をピクピク動かしてから、ふっと表情を緩めた。


「安心しろ。ついてないぞ」山場先生は親指を立てる。


「いっそのことつけば良かったのに」

「なんだとっ! デカブツッ!」

「まぁまぁ二人とも、落ち着いて落ち着いて」

「そうよぉ。うちの息子を湯たんぽにしておいてその反応は失礼よっ」


 愛が小脇に抱えた赤ちゃんの咲人は、そんな大人気ない大人達の様子を、純真爛漫な丸い瞳で、ただ黙って見続けていた。赤ちゃんは喋れないけれど、喋れたならば咲人はきっとこう言ったに違いない。お前らもう抱かせてやんないぞ、と。


「とりあえずオムツ変えて着替えさせなきゃ」

「愛、だのぶがらはじっごでやってぐれ」

「サトミちゃん鼻を摘みながら言わないのっ!」

「ぼんどだお。愛ちゃんはじっごでやっでよね」

「カイ君、帰ったらお仕置き部屋な。あとオムツ替えてくるから真矢、車のキー出して」

「嘘だろ……僕の愛車でまたっ」


「まともに運転できない奴が愛車とか言うな」真矢はポケットから車のキーを取り出すと、愛に手渡した。


「じゃちょっくら行ってくるわ」


 嵐のような時間が過ぎ去っていく。乳酸発酵の臭いとともに……。


 

 ——時は二十分ほど前に遡る。



 山場先生が呪物蔵から研究室に戻ってきた時、それはそれは恐ろしいほどの冷気を身に纏っていた。どれくらいの冷気かと聞かれれば、真矢は即答で「マイナス四十度の業務用冷凍庫」だと答えるレベルだ。鼻毛が一瞬にして凍るほどの冷気は、真矢、カイリ、山場先生を容赦無く襲った。


 が、愛と咲人だけはきょとんとした顔をして、「全然寒くないんだけど」と首を捻っていた。それを見た山場先生は「そそそそそ、そうかっ」と歯を鳴らしながら愛に近づき、愛くるしい赤ちゃんの咲人を奪い取ると、その頬に自分の頬を擦りつけ「ほぉうぅっ。ほほほぉうっ」と美しいソプラノ声で何度も喘いでいた。


「あったかいのぉ〜サク坊はぁ〜」と、とろけるような声を出し、頬を上気させる山場先生を見た真矢とカイリは、「嫌だっ絶対にサク坊は渡さんっ」とごねる山場先生を「僕達だって寒いんですよっ」と、なんとか説得し、みんなで代わる代わる咲人をまわし抱きした。


 その結果、赤ちゃんである咲人の無邪気が邪気を祓い、真矢とカイリ、山場先生は、呪呪ノ助のパソコンが発する極寒地獄から無事生還したのであった。



 ——そして、現在に到る。



「では気を取り直してだな」山場先生がパイプ椅子にふんぞりかえる。真っ赤な半纏のポケットからいつもの扇子を取り出すと、小気味良い音を立てて扇子を開いた。パタパタ顔を仰ぎながら「どうもこれがないと落ち着かん」と可愛く鼻を鳴らす。


「で、佐藤清の幽霊は今どんな様子だ」


 真矢は研究室の奥に視線を向けた。山場先生が呪物蔵から持ち帰った呪呪ノ助のパソコンは、研究室の一番奥にある祭壇の上に置いてある。別に祭壇だから置いたというわけではない。そこが皆から一番遠い場所だったからだ。


 呪力や怨念の強い場所から離れれば離れるほど、寒くなくなる。真矢は青山千夏の一件でそう確信していた。だから呪呪ノ助が、ノートパソコンから離れればいいと思った。が、残念なことに呪呪ノ助はノートパソコンから離れることができなかった。


〈ふんぐっ! にゃーんでっ! 僕の魂がっ! パソコンから離れられないんですかぁーっ〉


 真矢達が咲人をまわし抱きして暖をとる間、呪呪ノ助はパソコンから離れようと必死に足掻いていた。しかし、どれだけ足掻いても、ある地点からは、呪呪ノ助の顔が、頭にストッキングをかぶって引っ張られた時のように醜く潰れるだけで、祭壇に置いたノートパソコンから離れることができなかった。


 その距離約二メートル。


 まるで呪呪ノ助の周りにだけ透明なバリアが張ってるみたいだと、真矢は思った。


 呪呪ノ助は〈うぐぐぐぐっ。にゃーんでっ、身体がっ、パソコンから離れないんですかぁーっ〉と透明な膜を押し、〈くそぅ〉と肩で息をつくと、〈今度はこっちっ〉とパソコンの周りを動き回っていた。まるでノートパソコンという杭に繋がれた犬みたいだな、と真矢はその様子を見て思った。


 が、その呪呪ノ助は今や、暗闇の中、祭壇の上に腰掛けて〈僕は鎖に繋がれた地縛霊……もうどこにも動いていけない地縛霊……〉とぶつぶつぶつぶつ口を動かし続けている。冴えないおじさん幽霊が項垂れてしょげている姿はなんというか、まさに地縛霊そのものだ。


「どうなんだ」

「そうですねぇ。無駄な抵抗を諦めて、しょげてます」

「なるほど」


「ていうかさ」真矢の隣でカイリが言う。


「だとすれば問題解決なんじゃないの?」

「問題解決って?」

「だって、真矢ちゃんの話だと、その佐藤清さんの霊魂は、パソコンから離れられなくなったんでしょ?」

「うん、そうだけど」

「じゃあ心置きなく地元に帰れるってことじゃん。もう真矢ちゃんには憑いてないわけだから。あとは先生の呪物蔵にパソコンごとしまっちゃえばいいんじゃないの?」


「そうだなその通りだ」山場先生が大きく頷く。真矢は「え、でも」と呪呪ノ助に目を向けた。目を凝らさないと見えない程の暗い部屋の奥、幽霊の姿だけは、やけにハッキリと見える。


 肩を落とし、項垂れて、膝の上にだらしなく手を乗せている呪呪ノ助は、〈そんなぁ……〉と情けない声を出している。


「生前の佐藤清は、自分の蒐集した呪物で呪い殺されるのが夢だった。だからにして、それはそれで幸せなのだと思うぞ」

〈ヤマンバせんせぃ、それはそうなんですけどぉ……。いやですぅ……、怖いですぅ……〉

「じゃあいいじゃん。それが本望なんじゃないの? 真矢ちゃん」

〈いやですぅ……、僕ぅ……、一人きりにはなりたくないんですぅ……。寂しいのは嫌なんですぅ、もう一人は嫌なんですぅ……〉


「あー」真矢は頭を振る。ダメだ。頭の中に直接呪呪ノ助の声が入ってくる。それにヤスさんから聞いた佐藤清の最後を思い出すと、どうしても呪呪ノ助が可哀想になってしまう。


 呪呪ノ助こと佐藤清は孤独死だ。自分の肉体が蟲に喰われ、腐敗して朽ちていく様子を遺体が発見されるまでの三ヶ月間、ずっと一人で見ていたのだ。そう簡単に、じゃあ呪物蔵へ、とは、どうしても真矢は思えない。


「地元に帰りたいんじゃなかったの」カイリが訊く。真矢は「そうだけど」と答える。すぐに「いやいや、違う」と首を振った。


「乗り掛かった船だし、私、佐藤清さんがちゃんと成仏するまで見届けたい」






 





 


 


 



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