「——というわけで、アタシとサトミちゃん、花ちゃんは昔からよくつるんで遊んでたってわけ」


 山場先生の博物館のような研究室。授乳ケープを巻き、咲人におっぱいをあげながら、愛は山場先生との関係を真矢にかいつまんで話していた。愛の話によると、山場先生と愛、亡くなったカイリの姉の木崎花は、若い頃からの知り合いで、都会の夜の街で派手に遊んだ仲だという。


 ちなみに三人の年齢はバラバラで、愛が出会った当時、カイリの姉の木崎花は高校生だったらしい。なんでも花は、モード系ファッションの反対側にいるような、バリバリのギャルだったとか。


「姉さんの黒歴史だ……」

「黒くないわよ。どっちかっていうとショッキングピンクよ」

「どっちもどっちでしょ。山場先生もまさかそこまでとは——」

「——しっ!」


 愛が唇に指を当て、辺りを窺う。愛は研究室の扉を見てから耳をすまし、「大丈夫そうね」と頷くと、「この話したってこと、サトミちゃんには絶対内緒だからね。サトミちゃん怒ると怖いんだから」とカイリに言った。カイリは「知ってる」と答える。


「真矢もよ」と愛に言われ、真矢は「もちろんです」と頷いた。


 それにしても、人は見かけによらないというか、なんというか。若い頃はそれなりにいろいろあるんだな、と真矢は思った。まさか、あの山場先生が……


 いやいやと首を振る。忘れた方がいいだろう。確かに黒歴史だ。でもそんなことを言えば私だって、二十代前半のMC時代は黒歴史と言っても過言ではない。なんせ、子供ショーのステージでは「みんな〜元気かなぁ〜っ」などと、歌のお姉さんばりに司会を務めていたんだから。


 うん。やっぱり今聞いたことは出来る限り脳内の奥底に封印しておいてあげよう。山場先生の今後の印象を左右する由々しき黒歴史なのだから。


 それよりも。


 真矢は都会の夜の街で遊ぶ高校生と聞いて、青山千夏の顔が脳裏に浮かんでいた。呪呪ノ助の話によると、野次馬に囲まれた雑居ビルからは、青山千夏の残留思念は消えていたとのことだった。


 呪呪ノ助は〈お母さんの元に戻れて、きっと千夏ちゃんの無念は消えたんでしょうねぇ〉と真矢に話しながら目尻を拭っていた。そうであるならば本当に良かったと真矢は思う。


 呪呪ノ助も無念を開放して無事成仏できればいいのだけれど……。


 山場先生が、「それでは呪物蔵に佐藤清のパソコンを取りに行ってくる」と、この研究室を出た時。呪呪ノ助は〈僕っヤマンバ先生と一緒に行きたいですっ! グフフッ〉と下卑た笑いを漏らし、〈待ってくださぁーいっ! ヤマンバせんせーいっ〉と、喜び勇んで山場先生を追いかけて行った。やれやれと白い目でそれを見送った真矢だったが。


 あのおじさん幽霊、なんだか始終楽しそうで、成仏したそうには見えないんだよなぁ……。


 それにあの下卑たイヤラシイ笑み。見えないことをいいことに、呪呪ノ助が山場先生に変なことしていなければいいが。


「一緒に行きますって言えば良かったかなぁ」


 真矢はちょと後悔する。


 黄金の扇子になんの呪力もないと知った時の山場先生は、可哀想なくらい狼狽えていた。そのショックは相当なもので、「だからワシの髪の毛は白髪になってしまったんだろうか……」とぶつぶつぶつぶつ、それはもう、本当、ぶつぶつぶつぶつ髪の毛を摘みながら言っていた。


「まぁ、でも大丈夫か」


 愛が気晴らしにと、落ち込んでる山場先生に咲人を手渡し、なにやら耳元で山場先生に囁くと、山場先生は「それは本当かっ」と湿っていた顔を輝かせ、「そうかそうか。そういうことかっ」と、愛くるしい咲人の頬に自分の頬をむにゅむにゅと寄せていた。


 子供は無邪気。それは邪気がないからだと皐月ママが言ってたけれど、本当にその通りだと、真矢はその様子を見て思った。なぜならば、咲人を抱く山場先生は、みるみるまに精気を取り戻していったから。


 まあ、それはそうなんだけど。


「でもなぁ」真矢は天井を仰ぐ。


「やっぱり心配だ」


 取り戻した精気、佐藤清の幽霊に奪われないだろうか。いやそれよりも、呪物蔵には黒い昆布のような悪意が縦横無尽に蠢いているとカイリは言っていた。そんな場所に、おじさん幽霊と一緒に入って大丈夫なのだろうか……。


「今更しょうがないか」真矢は思考を止める。


「真矢ちゃん独り言気持ち悪い」

「ほっといてよ」

「まあまあ、二人とも」


 薄暗い山場先生の研究室には現在、真矢と不機嫌なカイリ、授乳中の愛がいる。


 会話が止んだ研究室には、石油ストーブの上のヤカンが蒸気を吐く音に混じり、チュパッ、チュパッ、と、一定のリズムで咲人が愛のおっぱいを吸う音がしていた。


 ——チュパッ!


「いててっ」と愛は片頬を歪める。愛は「最近噛むのよねー、歯茎で」と言うと、授乳ケープの中で身体をもぞもぞっと動かした。愛は首からケープを取り外すと、咲人を「うんしょッ」と抱き抱えた。


 愛は咲人を肩に乗せてぽんぽんと背中を優しく叩いている。程なくして、ヤギの鳴き声のような、決して可愛くはないげっぷ音が研究室に響き、愛は「よくできまちたー」と咲人を膝に乗せた。


 咲人はお腹がいっぱいになったのか、とても満足げな顔をしている。二重の大きな目をにへらぁと半月に細めて笑っている。「あーぅ」と動く口は、ぷっくりとしたほっぺに挟まれていて、可愛いことこの上ない。やっぱり子供は天使だなぁ。特に赤ちゃんはその存在だけで癒されるなぁ、と真矢の頬が緩む。


 ——が。


 真矢の向かいの席に座るカイリが「それにしても愛ちゃん酷い。僕の大事なブランド、キサキマツシタの洋服をカットするなんて」と不満げに口を開いた。


 愛は「デザインの内側の見えないとこ切ったんだから別にいいじゃん」とカイリに返す。その後で、「かっこいい授乳服なんて巷に売ってないんだからね。それに一般的に売られている服なんて、このアタシに似合うわけないでしょ」と、世のお母様方及び、授乳服を展開しているブランドから『バッドボタン』を押されるような発言をした。


「この際、モードファッション界に授乳服の提案をするくらい考えたら? カイ君いまは一応会長職なんでしょ」

「その需要って全世界でどれくらいあると思ってんですか」


「まぁ、そうねぇ」愛は斜め上を見上げる。瞬きを数度繰り返し、「まぁ、そこそこあるんじゃない?」と曖昧な言葉でその先を濁した。


「でも花ちゃんが生きてたらきっといいアイデアだって思うはずよ」

「姉さんは仕事人間で彼氏さえいなかったんだから、授乳する人の気持ちなんてわかりませんよ」

「それは偏見でしょう。黒歴史は置いといて、花ちゃんすっごくモテたんだから。あんたがお子ちゃまで知らないだけよ」

「そんなことないですよ。姉さんは——」

「あー、はいはい。本当シスコンなんだから」

「僕はシスコンじゃありませんっ」


 二人の会話を聞きながら、真矢は思う。両親を幼い頃に事故で亡くし、育ててくれた姉を亡くしたカイリは天涯孤独だと思っていた。だけど、本当はそうじゃなかったんだ、と。


 馬鹿だな私、と真矢は思う。


 皐月ママに愛さん、山場先生に棚橋さんにヤスさん。それと、ちょっとチャラい鬼角君。カイリ君の近くには、個性豊かな仲間がいる。だから、カイリ君は孤独なんかじゃない。


「思春期なのよ」

「僕は思春期じゃありませんっ」


 いやお前は思春期だ、と、心の内で呟きながら、正直な気持ちでカイリはいいな、と真矢は思った。だって、カイリには親密な関係の人が何人もいるのだから。


 それに比べて私は——。


 恋人もいない。頻繁に連絡を取り合うような、腹を割って話せるような友達もいない。死者が見えるなんて、親はもちろん、地元の誰にも言えるはずがないのだから。


 私の方がよっぽど孤独だ、と真矢は思う。


 真矢は想像してみる。カイリが言うように、東京に引っ越してこれば、死者が見えることを隠さずに、呪詛犯罪対策班の面々や、山場先生、愛の近くにいることができる。東京に来てからの楽しい日々を思い出し、真矢は胸に冷たい風が吹き抜けた気がした。


 私、本当はここにいたいのかもしれない。

 東京での生活を手放したくないなと思ってしまう。

 

 でも——、と考え始めた真矢は、思考を頭の外に放り投げ、ふっ、と自嘲気味に息を漏らした。


 私は一体、なにを恐れているんだろうと真矢は思う。昨日から頑なに「地元に戻る」とカイリに言っているけれど、別に地元に何かあるわけじゃない。なのに地元に拘るなんて、まるで住み慣れた土地から離れることが怖いみたいだ。そんなの俯瞰してみれば、大したことではないはずなのに。


 住む場所も、働く職場も。


 地元に拘る理由は、考えれば考えるほどになにひとつみつからない。人生は一度だけしかない。その一度きりの人生を自分の好きに生きてみてもいいはずだ。


「東京に引っ越してこようかな」と、真矢の口から心の声が漏れた時だった。


 廊下で硬い物が床に落ちるような音がして、真矢は扉に視線を向ける。と、研究室の扉が微かに開き、縦長の黒い隙間ができた。真矢はぶるっと身を震わせる。開いた隙間から、スモークを焚いたような白い霊気が床を這い、研究室の中に広がっていく。まるで冷凍庫を開けた時の、あの冷気が出てくる感じだと真矢は思った。


 足先から冷たい刺激が身体を伝い、背筋を氷の手で撫で上げられたかのように、真矢は身体を硬直させていく。寒い。なんか、物凄く寒い。一瞬にして部屋の温度が氷点下になったみたいだ。


「最悪だ」向かいの席でカイリが呟く。「だからやめておいた方がいいって言ったのに……」カイリは頭を抱えガタガタ震え出している。真矢の隣に座る愛は「え? なに? え? なになに? 急になんなのよカイ君。え? 真矢も?」と動揺した顔で真矢とカイリに交互に視線を向けている。


 真矢の視界の隅で、扉がゆっくりとその黒い隙間を広げていく。やがて扉は、か弱い接触音を出して、全開した。


 真矢は思わず息を呑む。なんなんだ、この異様な空気はと、扉の向こうの闇に目を凝らす。


 ——と。


 暗闇から、山姥ヘアーを逆立てた山場先生が「ななななな、なんっ、だっ、こここここっ、この、寒さはっ……」と、赤い半纏を小刻みに震わせながら現れた。歯の根が合わないのか、山場先生は言葉がうまく話せていない。


「こっ、こっ、こここここっ……凍えるようなっ、さっ、さささ、寒さだぞっ」と、壊れかけのロボットのように部屋の中に入ってきた山場先生の頭上には〈あのぉー、もしかしてぇ、それって僕のせい?〉と、自分の鼻を指差して真矢に言う、冴えないおじさん幽霊の呪呪ノ助の姿があった。



 


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