16
「ふぅ、もう、来なくていいって、言ったのに……」
鳩山総合病院の駐車場で真矢は息を切らせながらカイリに言う。屋上でスマホが震えた時はてっきり鬼角からの着信かと思ったのに、発信元はカイリだった。
「だって、ラ、いや、愛ちゃんが迎えに行くって煩いんですもん」カイリが言い、真矢は「え?」と、カイリの乗ってきた赤い高級外車の後部座席に視線を向ける。刹那、後部座席のスモークガラスがウィーッと静かに降り、中からナイスバディでゴージャスな元シャーマン、賀茂愛が「最悪。二時間半も車に乗ってた……」と
真矢は「そりゃ疲れますよね」と同情の意を込めて頷く。でも二時間半ですんだなら多分マシな方だ。車内を見ると、愛の隣にはチャイルドシートが取り付けられ、愛の息子の
「あー、ごめんごめん」愛が咲人の方を向き、「起きたのね。いま降ろしてあげるから」とチャイルドシートのベルトを外している。生後二ヶ月の赤ちゃんが車に二時間半も拘束されてるなんて、なんと可哀想なことか。真矢はさらに同情の意を込めて、「本当にお疲れ様でした」と愛に頭を下げた。
「疲れたのは愛ちゃんじゃなくって、運転してきたこの僕ですよっ」
カイリは胸を張る。いやそこは胸を張る場面じゃない。お前はもっと運転技術を身につけて道に迷わないようにしろ。真矢が運転してこれば、都内にある呪詛犯罪対策班の事務所からここまでは、大体一時間程度で着く距離だ。
「それにそっち行くって言ったのに、真矢ちゃんが駐車場で待てって言うからずーっとここで待ってたんですからねっ」
「あー、だってカイリ君目立つもん」
「まぁ僕は人並外れた外見を——」話し始めたカイリを「あー、はいはい、そうですそうです。その通りです」と真矢は手でどうどうと制す。
「どうせまたレモネード買ってて遅くなったんでしょ」
「うん。まさか愛さんが一緒とは思ってなかったから」
「真矢ちゃん酷い。僕だけだったら待たせてもいいってことですか?」カイリは真矢に詰め寄る。真矢は身を引きながら「そういう意味じゃないけども……」と、もごもご言葉を濁した。
「金欠だって言う割には毎回レモネード買ってくるんですから。どんだけ好きなんですかレモネード」
「いやぁ、買わずにはいられない理由があるのだよ」
真矢は「ほい」と買い物バッグからレモネード取り出してカイリに手渡す。カイリはそれを「ビタミンCだから有り難く飲みますけど」と受け取ると、「全くもう」といつもの黒服のどこかに仕舞った。
その洋服、意味不明なデザインポケットがあちこちについてるからな。真矢がそう思っていると「あー、ごめん。ちょっとオムツだわ」と、車の中から愛の声がした。
「最悪だ。僕の愛車でおむつ交換だなんて……」カイリは自分の肩を抱く。
「だってしょうがないじゃない。赤ちゃんなんだから。それと、そのあとおっぱいあげたいから、カイ君はどっか行っててよね」
「え、マジで?」カイリの声をシャットアウトするように、後部座席のウィンドウが閉じていく。真矢は「今日があったかい日で良かったじゃん」とカイリの背中をポンポン叩いてあげた。ウィンドウが少し下がる。愛が窓から顔を出して、「寒いなら真矢は車に乗ってたら?」と言ってくれたけど、真矢は丁寧にお断りしておいた。
乳児期のあの独特なうんちの臭いにはまだ慣れない。いや、そもそも排泄物全般に慣れてるわけではない。
「あー、子供って大変ーっ」カイリが車に背中を預け空を見上げる。真矢もその隣で車に背を預け空を見上げた。刻々と空はその色を藍に変えていく。ライトアップされた白く聳え立つ鳩山総合病院の建物を見ながら、でも子供って、大変でいい事ばかりじゃないけれど、きっと幸せも沢山運んできてくれるよ、と、真矢は思った。
屋上でカイリからの着信を受けた真矢は、青山千夏と別れた。青山千夏は母親のいる家に戻ると言って、煙のようにふっと姿を消した。別れ際、千夏は真矢に〈いろいろお世話になりました〉と頭を下げ、〈来世ではちゃんとします〉と言っていたから、その時がきたら千夏は成仏するのだろうと、真矢は思った。
最後の最後で千夏には辛い経験をさせてしまった。安直に考えて芦屋雪乃の魂探しを依頼したことを後悔していた真矢は、千夏の最後の微笑みに少しだけ救われた気がした。
千夏の話によると、千夏の母親は以前よりも元気を取り戻してきてるという。ヤスさんが言うように四十五日まではこの世に魂が留まることができるのならば、千夏は母親と二人、あの家でその時が来るまで過ごすのだろう。
青山千夏、享年十六歳。ご冥福をお祈りします。と、真矢は屋上で手を合わせた。
その後、急いで駐車場へ向かう予定だった真矢は、売店の前でバッタリ出会ってしまった。ポニーテールを揺らし〈おねえちゃんっ〉と手を振る女の子、カリンと。
真矢は最初それが誰だか分からなかった。母親の隣に立っているカリンはもうパジャマ姿ではなかった。それに、むくんでいた顔もすっきりとしていて、髪も仔馬の尻尾のように可愛く結んでいた。
真矢は思った。今見ている姿が、病気になる前の本来のカリンの姿だったのだと。そして悟った。もうカリンは亡くなっているのだと。
カリンは満面の笑みを真矢に向け、〈みっくんっ〉と母親の傍に置かれたベビーカーを指さした。と、その時だった。カリンの母親が真矢の視線に気づき、「あら、あなたは——」と、声をかけてきたのだ。
カリンの母親は「今日はご挨拶に来たんです」と真矢に言った。カリンの母親曰く、昏睡状態から目覚めたカリンは翌日、家族に見守られながら眠るように息を引き取ったという。
「最後の一日は、わたしたち家族にとって、本当にかけがえのない一日でした。あの子がわたしに描いてくれた絵を病室に飾って、みんなでわたしのお誕生日会をしてくれて……。花梨、ハッピバースデイ、お母さんって、わたしに、歌を、歌ってくれたんですよ。花梨を囲んで、家族みんなで沢山写真を撮って、弟の
母親の足に抱きついていたカリンは、〈おかーさんまたないてるぅー〉とちょっと困った顔をしてたけど、真矢は心の中で「大丈夫だよ」とカリンに語りかけた。
愛する我が子を失った悲しみは消えないかもしれない。でも、最後の最後、言葉を交わし、同じ時を共に過ごせた家族なら、きっと前を向いて生きていけるはず。
なんだか鼻の奥がツンとしてしまった真矢は、「カリンちゃんのご冥福を心よりお祈りします」と心の中で呟いて、「声をかけてくださってありがとうございました」とカリンの母親に頭を下げ、しばらくカリンの母親の話を聞いてからその場を離れた。
もちろんそのまま売店を通り過ぎることはできず、レモネードも五本購入してしまったけれど。
……うん、確かに金欠すぎる。お財布の中が極寒だ。銀行の貯金はあとどれくらいあったかな……。銀行の残高を思い出し、真矢の全身に震えが走る。ブルブル頭を振って、真矢は思考を止めた。なんとしても、鳩山総合病院通いを今日で終わらせねば。
芦屋雪乃はまだ目覚めないのだろうか。鬼角からの連絡はまだ来ない。と思っていたら、カイリも同じことを考えていたのか、「鬼ちゃんからの連絡はまだないですねー」と言った。真矢は力なく「そうだねー」と答えてから、なにか忘れているような気がした。
なんだろうか。この、家を出てから電気を消したかな? と思い出すような感覚は。顎に手を当て「ん?」と真矢は首を捻る。
——と、その時だった。真矢とカイリのスマホが同時に震えた。
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