12

 ——……めん、……ちゃん


 誰かの優しい声がして、身体にぎゅっと圧がかかった。閉じていた重たい目蓋をなんとか持ち上げると、そこは漆黒の闇だった。


 本当に目を開けたかどうかも認識できないほどの無明の闇の只中。真矢は数度瞬きを繰り返す。目蓋が上下する感覚はある。でも、自分の身体が立っているのか座っているのかも分からない。手を動かし辺りを探るも、何も触れるものがなかった。爪先にも踵にも触れるものがない。まるで宇宙空間に放り出されたみたいに、宙に浮かんでるみたいだ。上も下も、右も左も、闇の世界。


 ここは、どこ……。なんで、私こんなところに……。


 真矢は両腕を伸ばし、もう一度辺りを探る。やはり、何もない。つまり——、と、真矢は考える。


「ここは、夢の中……?」真矢の発したか細い声は闇に溶けて消えていく。真矢はさっきよりも明瞭な声で「夢?」と声に出してみた。その声もまた、吸い込まれるように暗晦あんかいの闇へと消えていく。やはり、現実ではない夢の中だと真矢は思った。でなければ、この状況を説明できない。


 闇の中に放り出される夢は何度も見てきた。その大概は、この世に未練を残して亡くなった死者が、真矢を問い詰める夢だった。親族に殺されたと訴える死者、自分の声が聞こえるならば、なぜお前は代弁してくれないのかと怒り狂う死者。それと、一年前、真矢の目の前でトラックに撥ねられて亡くなった女子高生が「助けて」と、損傷した身体で追いかけてくる夢。


 夢なら、覚める。この経験は何度もしている。この闇の中、心臓がはちきれそうになるほど走り続ければ、必ず夢は覚める。「よし」と、真矢は足を動かす。が、その足は空を切った。真矢は、はたと気づく。


「走るための地面が、ない……?」


 それに、いつも見る夢のように、怨めしい死者の声も聞こえない。


「どういう、こと……?」


 真矢は上を見上げる。やっぱり黒一色の闇だ。下を向く。右を見て、左を見て、自分の頬に手を添える。が、その手は頬をすり抜けていった。


「え?」


 もう一度、頬に触れようと手を動かす。が、頬に手が触れる感覚はなかった。


「なんで?」


 真矢は身体のあちこちを手で触れてみるけれど、意識だけを残して身体が消滅してしまったかのように、手は空を切るだけだった。いや、手を動かしたと思い込んでいるだけで、そもそも自分の手が存在しているかどうかも不確かだ。闇の中、自分の身体さえ見えない。


 真矢は急に恐ろしくなった。今までの夢は、自分の身体を認識できていた。なのにこの状況は、身体を失い、意識だけが暗黒の闇の中へ放り出されている。


 ここは何も存在しない無の世界だ。いつもの夢とは違う。もしも、このまま夢から覚めなかったら……


「いやだ、そんなの……」


 真矢は首を振る。が、振っている首もまた、真矢の身体の一部ではなくなっていた。「いやだ、そんなの……」真矢はまた言葉を発する。が、その声もすぐさま消えていく。


「いやだよ、覚めてよこんな夢っ」


 自分の発する声だけが、唯一自分の存在を確認できる。真矢は何度も同じ言葉を吐き続け、腕や足を縦横無尽に動かした。


 大丈夫。走ることができなくても、きっと、こうしていればそのうち目が覚めるはず。真矢は何度も「覚めろ覚めろ!」と闇に向かって叫び続ける。


 ——が、どれほどそれを続けても、それ以上にもそれ以下にも状況は変化しなかった。それどころか、だんだん自分の声が声なのかも分からなくなってきた。声だと思っているものは、自分の意識であって、音としてここに存在していないのではないか。


 なんで、こんなことになったんだ。真矢は思い出そうとする。そうしていないと、自分の意識まで闇に溶けて消えてしまいそうだった。


 鬼角が黒髪ウィッグが入った箱の呪符を解き始め、真矢は息が苦しくなった。箱から長い黒髪がずるりと出てきた瞬間、真矢は意識を失った。そして、黒髪の持ち主の殺される場面を疑似体験した。殺された女性が呪詛を吐きながら事切れる瞬間に、真矢はまた意識を失った。


 そして——、目覚めると、ここにいた。


「どうやったらここから出れるの?」


 誰にともなく尋ねるが、真矢の声は一瞬にして闇の中へと溶解していく。怖い。ここにいると自分が消えてしまいそうで、怖い。こんな場所、一秒たりとていたくない。


「ねぇ、やめて。目覚めてよっ!」


 真矢は叫ぶ。元の世界に戻りたい。お願い、目よ覚めて。ここにいたら、自分が自分じゃなくなって、自分という存在自体が消えてしまいそうだ。お願い、今すぐ、目覚めて、お願い。


「目覚めろ目覚めろ目覚めろーっ!」


 真矢は何度も何度も叫ぶ。ここから出たい。元の世界に戻りたい。この悪夢から目覚めたい。せめて、一筋の光でもあれば、そこを目指していけるのに。自分の今いる場所が分かるのに。「光さえ、あれば……」真矢が無意識に声に出した時だった。


 ——……めん、……ちゃん


 自分じゃない声が聞こえた気がした。真矢は全方向を見渡す。でも、どこを見ても無限の闇が広がるばかりで、誰かの声はもう聞こえてはこなかった。あの声は、自分の願望が生み出した幻聴だったのだろうか。だとすれば、もっとまともな幻聴にして欲しい。希望を持てるような、そんな幻聴にして欲しい。


 目の前の闇は果てしなくどこまでも続いている。真矢は瞬きをやめ、目を閉じた。どこを見ても闇ならば、目を閉じても同じこと。真矢は少しだけ冷静な頭を取り戻し、考えた。落ち着けと自分に言い聞かせ、意識を集中させる。


 思い出せ。愛が霊的な存在とチャンネルを合わせる方法で教えてくれた。目で見るな、心で見ろと。


 まずは頭頂部に意識を向ける。それから、意識をゆっくりと下に下にと落としていく。首の力が抜け、肩の力が抜け、手の力が抜け、腰、足、そして、意識は大地へと向かって降りていく。広大な大地に住う生命のエネルギーを吸収し、そして、その純粋なエネルギーと同化するのだと。


 真矢は、ゆっくりと意識を下ろしていく。目を瞑れば、頭の中は色を取り戻していく。焦るな、思い出せ。美しい地球の風景。四季折々に咲く花々や、川のせせらぎ、風の運んでくる草の匂いを。


 目を閉じて瞑想する真矢の頭の中では、生命力に溢れた地球が創造されていく。真矢は地球の生命エネルギーを吸収し、そして、意識を大地から引き上げていく。地上から自分の足へ。足から腰へ、腕へ、肩へ。生命エネルギーは真矢の身体を満たしていく——、と、真矢はほんのりと暖かさを感じた。それは、春の縁側で、陽だまりの中、昼寝をしているような、優しい暖かさだった。真矢はその感覚に身を委ねる。


 ——ごめん、まやちゃん……


 不意に、真矢の脳裏でカイリの声がした。きっと、自分の妄想が生み出した声だ。よしよし、さっきよりもまともな幻聴が聞こえてきたぞ、と真矢は思う。簡単なことだったんだ。闇を恐れず、目を閉じれば、世界は自分で創造できるのだから。


 ——僕はまた、真矢ちゃんを危険な目に合わせてしまった……


 もう一度幻聴が聞こえ、真矢の頭にカイリの顔が浮かんだ。カイリは悲しげに長い睫毛を伏せている。真矢は心の中でカイリに応える。


 ううん、違うよ。そうじゃないよカイリ君。カイリ君のせいじゃない。自分で選択して、東京に来たんだし、呪対班のお手伝いをしてるんだよ。それにね、あのウィッグの黒髪は——


 真矢は反射的にパッと目を開けた。そうだった。あれはどう見ても猟奇的殺人事件だ。それもきっと、一人や二人の犠牲者ではないはず。それを警察官である棚橋に伝えなくてはいけない。創造の世界で安堵してる場合じゃない。はやく夢の出口を探さなければと、真矢は辺りを見渡す。


 闇、闇、闇、どこを見渡しても辺りは相変わらず漆黒の闇だ。ならばと上を見ると、頭上には一本の絹糸のような細い光の糸が垂れていた。


「これだ……。ここがきっと、夢の出口だ……」


 真矢は頭上に垂れた光る糸を目で辿る。糸は遥か天空まで真っ直ぐに伸びていた。糸の先に出口らしきものは見えない。


 でも、きっと——。


 真矢は手を伸ばし、頭上に垂れる糸に触れた。刹那。真矢の全身から青白く輝く光の粒が溢れ出し、あまりのその眩さに、真矢は目を瞑った。


「ん……」真矢の口から吐息が漏れる。と同時に、身体にぎゅっと圧迫を感じた。まるで誰かに抱き締められているみたいだ。温かい。人の温もりが頬に伝わってくる。


「真矢ちゃん、ごめん。僕、また真矢ちゃんを巻き込んで危険な目に……」


 これは、また、幻聴?


 真矢はそっと目を開ける。目の前はさっきと同じ、黒一色の世界だ。やっぱり夢からは目覚めれなかったのかと、真矢は落胆のため息を吐く。自分の吐いた吐息で、顔が熱い。真矢はまた目を閉じた。


〈あぁ〜。心配ですぅ。はやく目覚めてくださいよぉ〜〉


 おじさん幽霊の幻聴まで聞こえるとは、もう本当にダメかも……。それになんだか、顔にボタンのような小さくて尖った硬い物が当たっている。やけにリアルなその感触に、真矢は「ん?」と首を傾げる。もぞっと布が頬を撫で、真矢は瞬きをした。


「わ、たし……」ゆっくりと顎を上げていく。黒い布に、デザインカットのポケット、白くてきめ細やかな肌の顎先——、「カイリ君?」真矢が言うがはやいか、カイリは「良かった、真矢ちゃん」と力なく言い残し、真矢を抱きしめていた腕をだらりと垂らすと、ボフッとソファーに背中から倒れ込んだ。


〈あちゃ〜。今度は綺麗なお兄さんがダウンですぅ〜〉


 呪呪ノ助のふざけた声で、真矢は現実世界に戻ってきたことをようやく悟った。


 


 



 


 


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