11
「あぁ、美しいよ。なんて、綺麗なんだ」
暗闇の中、低い男の声がした。
身体に力が入らない。誰かに髪を引っ張られている。シャキンッ、音と同時に髪にかかっていたテンションがなくなり、頭が少し傾いだ。
「あぁ、この艶、本当に、本当に、最高だよ」
——誰、なの?
目蓋が重い。必死に目蓋を持ち上げると白いタイル張りの床が見えた。身体が拘束されていて動かない。どうやら椅子に座らされているようだ。フラッシュを焚いたように、目がチカチカしている。耳朶に、興奮した男の吐息がかかった。男の声はゆっくり「本当に、綺麗だ」と囁く。
「どうしてこんなことを」と言いたくても、口の中になにかが入っていて「あ゛ぁガァぁ……」と獣の唸るような声しか出せない。ダラダラと唾液が顎を伝っていく。
ヒューッヒューッ、息をするたび、口の中では壊れた笛のような音がした。現状を認識しなくてはと、真矢は眉間にしわを寄せ、目蓋を持ち上げる。白いタイルの床はその範囲をさっきよりも少し広げた。だが、視界はまだぼやけている。右に左に眼球を動かすたび、タイルの上を赤い染みが揺れ動く。
真矢は思った。これは、床に赤い染みがあるんじゃない。きっと、眼球の毛細血管が切れて目の中に血が混じってるんだ。
「おや、起きたのかい?」
男の声と共に、頭頂部に手が置かれる。そのまま髪の毛を掴まれて、顎がカクッと上を向いた。口腔内に溜まっていた唾液が気管支に入り込み、むせかえる。こほこほと咳を繰り返した。肺が酸素を取り込もうと小刻みに拍動している。
「くくくっ」くぐもった声で男は笑った。
「君が、ヘアドネーションの提案に乗ってくれていたら、こんな酷いことはしなかったのに」
「あ゛がぁ……がかっぁ……」
声にならない声が出る。眼を動かし、辺りを見た。どこかの部屋の中だ。天井は薄汚い灰色で、壁のゴツゴツした白い塗装も所々剥げ落ちている。古い建物なのかもしれない。
「ほら、よく見てごらん」
男が髪を掴んでいた手を離す。ガクッと顔が前に傾き、大型の姿見に自分の姿が映った。
違う、これは私じゃない。私とは別人の誰かだ。
鏡に映る女は髪が短く、口の中に黒い玉を入れていた。口の中の玉は黒いベルトで頭に固定されている。ダラダラとよだれを垂らした女の身体には、美容院で使うような白いケープが巻かれていた。身を捩り、動こうとしても、手足が椅子に固定されていて動かない。きっとケープの下で椅子に固定されているんだ。
——なんで、わたしがこんなめに……
自分じゃない声が頭蓋の中に響いた。身体が勝手に動き出す。「あ゛あ゛がぁーー……」獣の
叫び声と共に、全身が震え、涙が頬を流れていく。
「泣いても無駄だよ。ここには誰もやってこない」
真矢は自分じゃない身体で「どうしてこんな酷いことをするのっ」と声にならない声で叫ぶが、男は冷たい微笑を浮かべるだけだった。真矢は男を睨みつける。薄汚い鏡に映る男は、三十代くらいだろうか。髪は短く痩せぎすで、高級そうな紺色のスーツを着ている。手には、長い黒髪を持っていた。
「これでまた、僕のコレクションが増えるよ」大きな姿見の前に足を進めた男は「あぁ、本当に君の髪は美しい。キューティクルが最高だ」と、自分の頭に長い黒髪を這わせる。どうやら髪の根元はエクステのように縛られているようだ。片手で黒髪を頭頂部に押さえ、あたかも自分の髪かのようにさらさらと揺らし、指で手櫛をといている。
——やめてっ! 返してっ!
真矢の頭の中で突然女の声が叫んだ。
「さすがヘアパーツモデルだけのことはある。本当に綺麗な髪だ」
手櫛で髪をとく男の顔は高揚感に満ちている。さらさらと手で髪をとかしながら、鏡に映る自分の姿に陶酔しているように見える。
狂ってる。この人は狂ってる。
はやくここから逃げ出さなくてはと、身体を動かす。が、拘束された手足が椅子から離れることはなかった。
——どうして、こんな酷いことをっ。わたしの髪を返してっ。それはわたしの大事な髪よっ!
女が頭の中で叫んでいる。名も知らぬ女の感情が、真矢の心に流れ込み、徐々に同化していく。怒りが腹の底から湧き上がってくる。よだれと共に、声にならぬ声を出しながら、この身体の本当の持ち主は泣いている。
——やめてっ! あなたなんかに触られたくないっ! 返して、わたしの髪を、返してっ……
男が振り返る。男は掌に黒髪を愛おしそうに乗せた。長い毛先が、男の手から床に向かって垂れている。
男が顔を覗き込んでくる。綺麗に撫でつけた黒い髪。吊り上がった切れ長の目と逆三角形のシャープな顎。蜥蜴のような顔だと真矢は思った。男は大きな口の口角を目一杯持ち上げ、「君の髪の毛で作ったウィッグも、僕のコレクションに入れてあげるね」と笑っている。
コレクション?
真矢は男の言ってる意味が分からない。
男は背後に周り、椅子を操作した。刹那、ガチャンッと振動が身体に響き、座っている椅子の背もたれが倒れた。まるでストレッチャーのようだ。頭を支えるものはなく、首に力を入れて頭を必死に持ち上げる。
ガラガラとローラー音を鳴らしながら、ストレッチャーはライトの真下に移動した。ライトの光が眩しくて目をつぶると、溢れた涙が耳の穴の中に入り込んだ。次いで、ポタポタと頭の下で滴の垂れる音がする。泣いている。この身体の人は心の底から怒り、怯え、そして、泣いている。涙がこめかみを流れ落ちていく。短い髪を伝って床へと落下していく。
——なんでこんなことになったんだ。この男とは今日初めて会って、地下にあるバーで一緒に飲んで、それから、それから……、わたし……、そこからの記憶がない……
真矢の頭の中で女の声が聞こえる。その情景も真矢の脳裏に浮かび上がる。繁華街から少し離れた場所。地下に降りた薄暗いバー。そこでこの男と楽しくお酒を飲んでいる光景が……
「髪の毛以外は、いらないよ。奉納に必要な分は取っておくけどね」
男の冷淡な声がして、不意に、仰向けに寝かされた身体からケープが剥ぎ取られた。寒い。とてつもなく、寒い。肌に直接空気が触れている。ああ、そうなのか。この身体はいま、丸裸なのだと、今更気づく。事態は深刻だ。このままだと、もしかして……。
——お願い、やめてっ! こんなことは、やめてっ!
頭の中で身体の持ち主が叫んでいる。首を一生懸命振っている。真矢は、喉の奥からありっけの力を込めて、声にならない声を吐き出した。逃げようと足掻く裸体に、拘束ベルトが容赦なく喰い込んでくる。その箇所が焼けるように痛い。でも、それでも、必死になって抵抗する。殺される。逃げなければ、この男にきっと殺される。
——やめて、死にたくないっ。やめて、死にたくないっ。こんなことやめてっ!
「あ゛ベェう゛ぇーー……」
「うるさい子は、嫌いだって、僕、初めに言ったよね?」
冷めた男の声がした。と同時に、腕にチクリと針を刺されたような刺激が走った。
「あ゛ベェう゛う゛ぇーー……」
——やめて、いやだ、死にたくないっ!
頭蓋の中で、身体の持ち主は必死になって叫んでいる。真矢も声にならない声で叫び続ける。涙を流し懇願しても、男はなにも反応しない。持ち上げている頭が重い。首の筋肉がピクピクと痙攣し始めている。
「あ゛う゛ベェう゛ぇーー……」
獣の咆哮のような声を上げ、真矢も身体の持ち主も涙を流している。
——なんで私がこんな目に合わなきゃいけないの? なんでマッチングアプリで知り合っただけの人に殺されなきゃいけないのっ! おねがい、今すぐこんなことはやめてっ!
首の力が入らない。頭がガクッと下に落ちた。だんだん目蓋が重くなり、瞬きするのが辛い。ダメだ。殺されたくないと、もう一度必死になって頭を持ち上げた。見える限りの世界に視線を這わせる。なにか、なにか、手立てはないかと必死になって考える。
頭の下でゴトンッと音がした。音の大きさからして、
——死にたくないっ。やめてっ。助けてぇっ。
身体の持ち主が必死になって叫んでいる。
「あ゛う゛ぁう゛ぉぇーー……」
真矢も力の限り叫んだ。喉から漏れる声はごぼごぼと口腔内に溜まった唾液で湿っている。口の端からよだれが首筋へと流れていく。
「汚い女だな。髪以外はなんの魅力もない」
顔を覗き込んでくる男は、逆光で黒い人影にしか見えないが、手になにかを持っているのは分かる。それは天井のライトを反射して白く光っている長いモノ。
刃物だ。鋭く光る刃先は牛刀ほどの大きさで、首の辺りへとゆっくり向かってくる。
やめてっ、こんなこと、やめてっ!
「がぁあ゛ぁぉぇーー……」黒い人影と化した男を真矢は睨む。が、男は冷淡な声で「血抜きをちゃんとしないと、後が面倒だ」と言う。その声はなんの感情もないような、酷く冷たい声だった。
獣のように唾液を垂らしながら、真矢は叫ぶ。
「あ゛ぁおぁあ゛ー……」
「うるさい奴だ」
氷のように冷たいものが首筋に触れる。鋭い刃先が皮膚を撫でていく。紙で指を切った時のような、ヒリヒリした痛みが首筋からゆっくり喉を横断していく。と同時に、どろっとした生温かいものが皮膚の裂け目から溢れた。ガクッと頭が下に傾く。血液はどくどくと脈打ちながら体の外へと流れ出ていく。無残に刈られた髪の隙間を人肌の血液が浸食していく。
すぐに、ぼたぼたっ、ぼたぼたぼたっ、と、頭の下で、金盥を打つ血液の鈍い音が聞こえた。支えのない頭の重みで、切り裂かれた喉の皮膚が広がっていくのが分かる。頭の中が真っ白になり始め、痛みの感覚が、麻痺していく。
意識はまだ微かにある。身体の持ち主の怒りの炎が全身を焼き尽くすように広がっていくのが分かる。
真矢の頭の中、女の呪詛が響いている。
——私が一体なにをした……。許さない。お前のことを、許さない……。末代まで……、お前のことを呪ってやる……
死にゆく女は、何度も何度も同じように呪詛を吐き続ける。呪詛は黒い瘴気となって全身を包みこむ。縦横無尽に触手を伸ばす黒い瘴気は、まるで長い黒髪のように艶々輝きを放ち始め、辺り一面を覆い尽くす。
わぁ……しぃぉ……かみぃ……けぇ……えせぇ……
地獄の底から響くような、低くて掠れた恐ろしい声が頭蓋に響き渡り、真矢はそこで、プツッと意識を失った。
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