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食事を終えた真矢は「洗い物しますね」と皐月ママに申し出たが、「あんらぁ、いいのよいいのよぉ。はやく二階に行かなきゃ」と断られ、カイリと二人、螺旋階段を登って二階にある『警視庁呪詛犯罪捜査班』の事務所へと向かった。
「それにしても美味しいご飯だったよねぇ」階段を登りながら真矢は言う。カイリは「そうですかぁ?」と、階段に設置してある金色のロープをどかしながら不満げに返した。
皐月ママに「お残しは許しませんよっ」と、苦手なサバを皮まで全部食べさせられたのがよっぽど嫌だったようだ。真矢は先程食堂で見たカイリの姿を思い出す。カイリは目を瞑り、長い指先で鼻をつまんでサバの皮を口に放り込んでいた。サバの余韻が口の中に残っているのか、カイリは階段を登りながら何度も口臭スプレーを口の中に噴射している。
そういえばカイリは、焼肉を一緒に食べた時も、おじさん臭のするパトカーに乗った時も、消臭スプレーを洋服に振りかけていたなぁと、真矢は一年前のことを思い出す。今は、口腔内のサバ臭を取り除くための口臭スプレー。カイリは匂いに対してやけに敏感なのかもしれない。
——と、そんなことを思っているうちに二階のフロアへ辿り着いた真矢は、一瞬足を止め、「えっ?」と思った。一階の内装は白一色で、メルヘンチックなシンデレラ城のようだった。ところがいまいる二階は、なんだか殺風景な普通の洋館だ。焦げ茶色の石でできた壁、床はお寺のお堂のように木が黒光りしている。階段を登った位置からは、廊下が左右に伸びていて、その奥にそれぞれ重厚な木の扉があった。どことなく薄暗く感じるのは、電気がついていないからだろうか。
右側の廊下へ足を進めたカイリに続き、「なんか一階と全然雰囲気が違うね」と真矢は感想をのべる。カイリは立ち止まり真矢の方を振り向くと、「棚橋さんがくっそ真面目すぎて、贅沢は禁止なんですよ。まったく」と、さっきよりもさらに不満げな声を出した。
棚橋刑事曰く、「警視庁の外部組織として存在するなら、贅沢をしてはいけない」そうで、呪詛犯罪対策班、略して呪対班は最低限の設備しかないという。
「最低限?」真矢は訊く。それは例えば会議用机とパイプ椅子だけしかないということだろうか。しかし、そういうことではなく、実務的な物は揃っているけれど、華美な装飾や贅沢な飲食は禁止だとカイリは言う。
「呪対班が外部組織とはいえ、国民の血税で運営をしている以上、本庁と同じレベルしかダメだとかなんだとか。まったく、頭固すぎんですよねぇ、あのおじさん」
カイリは余程気に入らないのか、棚橋の呼称が『おじさん』に変わっている。今年三十六歳の棚橋は、カイリから見たらおじさんかもしれないが、真矢的には硬派でかっこいいお兄さんという印象だ。カイリの背後でなにか黒い物体が動いた気がした真矢は、目を凝らし、「あ、まずいよな」と内心で思った。
「それにですよ? 僕が飲むコーヒーは真矢ちゃんも知っての通り、焙煎士が丁寧に炭火焙煎した豆をミルで挽いて、一杯一杯ドリップして淹れるんですよ。それをあのおじさんときたら、そんなのは贅沢だし時間の無駄ですとか言って。ここにあるのは、インスタントコーヒーですよ、インスタントコーヒー。まっずい粉をカップに入れて、そこにお湯を入れて混ぜるあの、インスタントコーヒーです。それも割引シールが貼ってあるやっすいヤツです。それを美味しそうに飲むんですよあのおじさんは! もう、本当、庶民も庶民で、イライラしますよ」
真矢はカイリの背後を気にしながら「まぁまぁ」と胸の前で両手をひらひらさせた。しかしカイリは止まらない。
「大体国民の血税っていうんだったら、僕の会社はかなりの額を納税してる気がしますよ。その納税者の僕が満足に美味しいコーヒー一杯も飲めないなんて、絶対におかしいですよね。それになにが一番ムカつくかっていうと、あのおじさん、時間にうるさいんですよ。警察官は遅刻するなんてありえないとかなんとか言って、僕にもめちゃくちゃ時間にうるさいんですよ。僕は警察官じゃないって言ってんのに、あのおじ——」
「ちなみに今日は三時間遅刻してますね」
棚橋のドスのきいた渋い声が廊下に響く。その声は、真矢が聞いたこともないような凄みを含んだ恐ろしい声で、真矢は棚橋の職業を思い出した。警視庁捜査一課、つまり、殺人を含む凶悪犯罪を担当する刑事ということ。
「——さん」と続くはずだった口をそのままの形で止めたカイリは、長い睫毛を何度かパタパタ動かし、どうこの場を流そうかと考えているような顔をしている。真矢はその顔を見ながら、こんなカイリは見たことがないなと思った。毒舌で、生意気なカイリの姿がいまはどこにもない。
「ごほんっ」と、棚橋は大袈裟な咳払いをひとつして、「とりあえず、中へ。話はそのあとで」と踵を返した。カイリの肩がストンと落ちる。なんにも悪いことなどしていない真矢も、なんだか一緒に叱られた気分だ。
真矢は「優しくて、真面目で、落ち着きがあって、いい人」だと思っていた棚橋の印象を改める。お仕事モードの棚橋刑事を決して怒らせてはいけない、と。それにいままでは、棚橋と自分は一般人と刑事という立場だった。もしも呪詛犯罪対策班に私が一時的にでも協力するならば、棚橋は上司で、自分は部下になるのだ。
肝に銘じよう。カイリ君の態度がいい例だ……、と真矢は思った。
カイリはお仕置きを待つ子供のようにおずおずと薄暗い廊下を進み、扉の中に消えていく。真矢もその後に続いて、部屋の中に入った。
部屋の中も廊下と同じく殺風景だった。あー、こういうの警察の事務所っぽいなー、と思うような灰色のスチール机が四つ。部屋の真ん中に島のようにくっついて置かれている。同じく椅子も、あー、こういう机ならこういう椅子だよねー、と思うような古びた椅子で、背もたれ部分が多少破れていた。ローラーがついた椅子は、きっと座面がくるくる回るタイプの椅子だと真矢は思った。
木枠の窓にカーテンはなく、天井には剥き出しのソケットが簡易的に取り付けられ、真っ白な蛍光灯がついている。二十畳ほどの部屋の中には蛍光灯が四つあるが、そのうち手前の二本は消えていた。節電、ということなのだろう。
部屋の一番奥には少し大きめなスチールデスクがあり、その向こうに腕組みをした棚橋刑事が座っていた。デスクを挟んで棚橋に向き合う棒立ちのカイリ。その表情は伺えないけれど、きっと情けない顔をしていると、真矢は思った。まるで、刑事ドラマの中に入ったようだ。そういうドラマは、あまり見たことがないけれど。一階のメルヘンな世界とは、まるで真逆だ。
真矢はドアを静かに閉めた。
「カイ君、僕はこう思ってるんです」棚橋の低音ヴォイスが部屋に響く。
「カイ君たちは警察官ではないけれど、呪対班にいる時は、ある程度は警察組織のように気を引き締めてほしいと」
「はい……」
「呪対班の任務は、命の危険を伴う任務でもあるのです。そして、班のメンバーを守る責任が、僕にはある。……インスタントコーヒーについての発言は、まぁいいでしょう。しかし、遅刻に関していえば、最悪です。今日自分は三時間も時間を無駄にしてしまいました。それは僕の個人的な時間ではありません。国民の血税で給料をいただく身としては、あってはならない無駄な三時間です。カイ君、僕の言ってる意味がわかりますか?」
「はい……」
なんだか、自分も一緒に怒られてる気分だと真矢はまた思った。だがしかし、棚橋は間違ったことは言っていないとも思った。二十歳そこそこにして、世界的に有名なファッションブランドの会長職。さらには豊富な資産と見目麗しい現実離れした美しさを持つカイリは、少し世の中をなめている節がある。そういう意味で考えると、棚橋に叱られることはカイリにとってもいいことなのだ。
——と、唐突に、「真矢さん」と棚橋に名前を呼ばれ、真矢は「はいっ」と背筋が伸びる。起立の体制のまま、軍隊のようにぎこちなく足を動かし、棚橋のデスクまで近寄った。カイリの横に並ぶ。と、棚橋は腕組みを解き、切れ長の目尻を少し下げて、優しい声でこう言った。
「今日は呪詛犯罪対策班までご足労いただきまして、誠にありがとうございます。それでは早速、女子高生の自殺案件について、お話を始めてもよろしいでしょうか?」
真矢は静かに頷いた。
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