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「あんらぁ、それじゃアナタがあの時のぉ?」
旧リンメイシャオ邸のエントランス。脳天を突き破るような甲高い声で、狸顔の
「アナタ、一年ぶりねぇ。覚えてるわよぉ、覚えてるわよぉ、あの貧弱なおむねっ」
「あ、うっ、はい……」
真矢は思わず手に持っていたコートで胸を隠した。前回皐月ママに会ったのは、真矢が地元から連れてきてしまった地縛霊を除霊するためだった。「除霊には馬鹿騒ぎが一番!」と、ゲイバーシンデレラのオネェ様方に洋服を脱がされ、もみくちゃにされたのだ。
——こういうのは馬鹿騒ぎが一番なのっ!
真矢は懐かしい声を思い出す。そこで「ん?」と小首を傾げた。今の声は誰の声だったのだろう。なんだか、大事なことを忘れている気がする。
「あらっ、どうかした?」皐月ママが真矢の顔を覗き込む。真矢は「あ、はい、その節はありがとうございました」と、深々と頭を下げた。
「それにしてもカイ君、お昼までには到着するって言ってたのにぃ、もうお昼ご飯終わっちゃたわよぉ〜」皐月ママはぷっくりとした唇を少し尖らせ、「今日のご飯はサバの味噌煮だったのにぃ〜」と腰をふりふり動かした。白いエプロンの奥で水色のフリルスカートも揺れている。真矢が目をパチクリさせて揺れるスカートを見ていると、「僕、サバの味噌煮はちょっとやだな」と、横にいたカイリが言った。
「なぁに言ってるのっ!」皐月ママはカイリの背中をバシンと叩き、「ダメよぉ日本人なんだから。和食を食べないとっ。ささっ、あっためてあげるから入って入ってぇ〜」と洋館の奥へパタパタ歩いて行った。
幼稚園バスに黄色いベスパ。コンビネーション遊具に不思議の国のアリス。しかもアリスは五十代のオネェ様で、作ったご飯がサバの味噌煮……。なんとも言えない組み合わせだ。
「サバ、苦手だな……」
「私は好きだよ、サバの味噌煮」
「真矢ちゃんは庶民舌だから」
「うっさいわっ」真矢もカイリの背中をバシンと叩き、洋館の中に足を踏み入れる。「イタタ」と声が聞こえた気がしたけど、真矢は聞こえないふりをした。辺りを見渡す。
それにしても……、凄い。
洋館の内部は、壁や螺旋階段が白一色で塗りつぶされ、所々に妖精や小人、南瓜の馬車、魔法使いなどの可愛い絵が飾ってある。絵を縁取るフレームは曲線を多用したデザインで、まるでシンデレラ城のようだ。空色のたっぷりとしたドレープカーテンが天井のあちこちから垂れ下がり、子供を預かる場所だからなのか、床は柔らかい桃色の絨毯が敷き詰められている。恐ろしい呪いの館、リンメイシャオ邸は一年前と全く様相を変えていた。
「なかなか凄いでしょ?」隣にやってきたカイリが言う。真矢は無言で頷き、「でも、ここ事務所なんだよね?」とカイリの顔を見上げた。
——くそ、相変わらず美しい顔をしてやがる……。
透明感のある白い肌。整った顔立ち。シンデレラ城のようなこの場所にいてもなんの違和感もない。カイリは黒い服さえ着ていなければ、絵本から抜け出した王子様のようだと、真矢は不覚にも思った。
「事務所は二階です」カイリは二階を指さす。真矢が螺旋階段に視線を向けると、階段の途中には金色のロープがかけてあった。
「あのロープから上が事務所です」
「へぇ……」
二階も、こんな雰囲気の内装なのだろうか。だとすれば、強面の棚橋さんはどんな顔をして仕事をしているのだろうと、真矢はふと思った。警視庁捜査一課の刑事さんが、シンデラ城で仕事。真矢は想像する。切れ長の目をした棚橋さんはなかなかの男前だ。無口で真面目で、剣道の達人の棚橋さんが、真っ白な甘々空間で足を組みながら資料を読む。ある意味、尊いかもしれない。
「それは見てみたいかも」真矢の口元が緩む。と、一階の奥から「はやくおいでぇ」と皐月ママの声がした。「行きますか」肩を落としてカイリが言う。「サバはやだなぁ」とまたカイリが言うので、真矢は笑ってしまった。そして、ちょっとほっとした。カイリはいま、一人じゃない。かまってくれる親戚のおばちゃん(?)みたいな存在が身近にいるのだ。
食堂は一番奥の部屋にあり、暖炉には火が入っていた。暖かな空間に、サバの味噌煮の美味しい匂いが漂っている。これは絶対ご飯が進む味だと真矢は思った。と、真矢のお腹がぐうっと鳴いた。そういえば朝からなにも食べてない。カイリには「朝食はお好きにルームサービスで」と言われていたけれど、真矢はルームサービスを取らなかった。奢りとはいえ、さすがに朝から六九五〇円の食事はできないと、真矢はおずおずメニュー表を閉じたからだ。
皐月ママの作ったサバの味噌煮は思った以上に美味しくて、真矢は一口食べるなり「めちゃくちゃ美味しいですぅ〜」と身悶えた。魚の生臭さなんて微塵も感じない。甘口の赤味噌がとろっとしていて、サバの身によく絡み、ご飯がどんどん進む味だった。隣に座るカイリはやっぱりサバが苦手なのか、無言でちびちび箸を動かしている。いただいているメニューはサバの味噌煮、根菜の味噌汁、白菜のおしんこで、なんと、白菜のおしんこも使った味噌も皐月ママの手作りだという。
「三年ものの赤味噌なの。私にしてみれば、手間暇かけて愛情注いでる子供みたいなものよぉ」
「凄すぎますっ! めっちゃ美味しいです!」
「うふふ。でしょうでしょう。今日の子供たちの夕ご飯はこれなのよ」
「夕ご飯?」
そういえば、託児所というわりには子供の姿を見ていない。皐月ママは真矢の心が読めたのか、「あぁ」と頷いた。皐月ママのウェーブがかった金髪ウィッグの先がテーブルの上で揺れている。
「ここの託児所はね、夜の仕事をしているお母さんとその子供のための託児所なのよ」
「夜の仕事ですか?」真矢は白菜のおしんこに箸を進めながら尋ねる。
「そうなの。ほら、アタシって昔から新宿でお店やってるじゃなぁい。うちはゲイバーだけど、キャバクラとか、クラブとか、夜のお店で働いてる子の中にはさ、子持ちの子もいるわけよ」
「今年の夏にね、」皐月ママは少し悲しそうな顔をした気がした。真矢は無言で頷き、箸を休めた。膝に手を置き、話を聞く。
「アタシが住んでるアパートの一個上の階でさぁ、小さな子供が死んだんだよ」
「えっ」思ってもない話で真矢は声が詰まる。皐月ママは悔しそうな顔をして、「それがさぁ」と話を続ける。
「おんなじアパートに住んでるっていうのに、アタシ、ぜーんぜん知らなかったんだよね。その亡くなった子はさ、母子家庭の子でねぇ。母親は夜の仕事しててさ、ホストに狂っちまったのか、全然家に帰りもしないで。ろくにご飯も与えてもらってなかったみたいでさ。かわいそうに、お腹を減らせて、その上あっつい夏の日に、エアコンもつけてない部屋に閉じ込められてたんだよ。本当にかわいそうに。発見したのはアパートの大家さんだよ。なんか臭うってアパートの誰かが通報してさ。酷い話だよ……。子供に罪はないのにさ」
皐月ママは自分用に入れた湯飲みのお茶をすする。真矢は黙っていた。ネグレクトによって亡くなった子供の話は、時々ニュースでも目にする。真矢は、そうじゃないかと疑ってしまうようなお葬式を担当したこともあった。小さな棺桶に入った幼いその子は、鶏ガラのように痩せ細っていた。
「それを知った時はさ、育てられないんだったら産まなきゃいいのにって、アタシは思ったよ。アタシなんて、産みたくても産めないってのにさ。まぁ、アタシは産みたいって思ったことはないけども。でもさ、産まれてきた子供はなぁーんにも悪くないよね」
皐月ママは真矢の顔を見る。真矢は大きく頷いた。産まれてきた子供は、なにも悪くない。絶対に。
「もしも、もっとはやくアタシがその子に気づけてたら助けられたかなって思ったらさぁ、なんとも居た堪れない気持ちになって。それで思いついたんだよね」
皐月ママは真矢を見て微笑む。真矢は「思いついたんですか?」とその先を促した。
「カイ君からさ、この屋敷の話を聞いてたから、ここで託児所できないかって」
「この屋敷は取り壊したりできないですからね。かといって、そのままの状態で残しておくとなると、また悪いものが巣食う可能性もありますし」
「そうなの?」真矢はカイリに尋ねる。
「ええ。一応、ここは国の所有物ってことになってますけど、地下室は以前のまま残ってますし、取り壊すとなにが起こるか分からないんですよ」
ゾワッと一瞬で腕に鳥肌が立つ。生贄を捧げる儀式までしていた場所だ。確かに、積年の蠱毒の名残は残っているだろうと、真矢は思った。地下室の光景を思い出し、真矢は足の裏を床から少し浮かせた。
「子供は無邪気だからねぇ。無邪気というのは、邪気がないということ。だったらいっそ、この場所で夜の仕事をしてる人向けに託児所を作りたいって、アタシがお願いしたんだよね」
カイリ曰く、夜の仕事をしている母親向けの託児所は、夕方になると、カラフルな幼稚園バスで子供たちを迎えにいくという。皐月ママが嬉しそうにその先を話す。
「お母さんたちの出勤前に子供を預かって、それで、夕飯をみんなで食べてさ、お風呂に入れて、寝かしつけて。で、仕事が終わる頃にバスにのせて送り届ける時もあれば、朝ご飯を食べてから送る時もある。基本はケースバイケースで、預ける方も預かる方も無理なくやってるってわけ。どう? なかなかいいアイデアでしょう?」
真矢はうんうん頷いた。ネグレクトにあっている子供の全ての命は救えないかもしれない。でも、この場所にくる子供たちは大丈夫だと思えた。だって、愛情のこもったこんなに美味しいサバの味噌煮が食べられるんだから。
「めちゃくちゃいいアイデアだと思います。子供たち、こんなに美味しいご飯が食べれるんですもん! お母さんたちも安心して働けると思います」
真矢がそう答えると、皐月ママは「こいつダメだなって思ったらアタシがその母親をコテンパンに叱り飛ばすしね。ガハハッ」と豪快に笑った。
皐月ママに叱られる。それは多分、すごく怖いだろうと、真矢は思った。でも、頼もしいとも思った。顔を見て、膝を突き合わせて本気で叱ってくれる人がいることは、きっと幸せなことなのだ。助けて、と言える人がいることも。
「というわけで」カイリが人差し指を天井に向ける。
「ご飯が済んだら、僕たちは僕たちのやるべきことをしに行きましょうか」
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