「見えないものが、見える……」真矢はカイリの言葉を無意識に復唱していた。


 今いる場所はさっきまでとなにも変わらない、高級ホテルのラウンジバーなのに。目の前には異次元級に美しいカイリの顔があるのに。真矢の心は一瞬にして冷え、アルコールがチリチリチリチリ胃に刺激を与えていた。


「変なこと言ってるなって、真矢ちゃんは思います?」眉根を寄せてカイリが聞く。真矢は「ううん」と首をふり、「思わないよ」と即答した。だって、私も同じだもん。言おうとして、真矢は口をつぐんだ。カイリが「例えば——」と視線を他に向けたからだった。


「あそこにいる女性の二人組」カイリが身体を少し捻り、視線を向ける。真矢もカイリの視線を追った。ラウンジのソファには、三十代くらいの女性が二人、談笑している。


「あの二人、真矢ちゃんはどう思います?」

「どうって?」

 

 真矢は目を凝らす。——が、真矢にはおかしなものは見えなかった。女性達の輪郭ははっきりとしているし、あの、死者が見える時特有の高音の耳鳴りや、鳥肌、心臓を直に撫でられるようなぞわぞわした感じがやってこない。ラウンジのソファに座った女性二人は、楽しげに会話をしているだけだ。


 あの二人は死者ではなく、明らかに生者だと、真矢は思った。


「普通の人に見えるけど」真矢は正直に自分の見解を述べる。カイリは「じゃあ、真矢ちゃんにはあれが見えないんですね」と身体の向きをバーカウンターに戻した。真矢も椅子に座り直す。カイリはジントニックを一口飲んでから、「気にしないでください」と真矢に微笑んだ。真矢は複雑な気持ちでその微笑みを受け取る。


「僕、あの一件以来、黒い煙みたいなものが見えるようになったんですよね」

「黒い、煙?」

「多分、生き霊かなんかだと思うんですけど」


「い、生き霊?」真矢はさっきの二人組をもう一度見た。カイリは「そうなんですよねぇ」と前を向いたまま話を続ける。


「あの二人、仲良さそうに話してるけど、髪の長い女性が短い方の女性を憎んでます」


「え……?」真矢はもう一度目を凝らす。でも、やっぱり真矢にはカイリが言っている黒い煙は見えなかった。「カイリ君にはどう見えてるの?」真矢は聞く。


「髪の毛の長い人の身体から黒い邪気が煙のように立ち昇って、短い髪の女性に覆いかぶさってるのが見えます」

「そう、なんだ……」

「多分、嫉妬とか、恨みとか、そういう感情が身体という物理的な器から溢れ出して、生き霊みたいになって出てるんだと思うんですけど」


「こわっ!」思わず大きな声が出て真矢は口を手で塞いだ。カイリはそれを見て「はははっ」と笑い、「おかげで公共交通機関恐怖症になってしまいましたよ」と続ける。


「恐怖症は言い過ぎかもですが、駅とか、電車の中とか、バスとか。あと、人が多いとこも結構苦手です。大学とかも、最悪ですよ。できるだけ人を見ないようにして、スマホ見てこなしてますけど」

「そうだったんだ」

「はい。だからモデルとか、もう絶対にやりたくないですね。人間不信になりそうで」

「カイリ君も大変なんだね」

「まぁ、だいぶ慣れましたけどね」


「そっか、真矢ちゃんには見えないのかぁ」言ってから、カイリはジントニックを飲み干した。真矢もカクテルグラスを手にとる。ぬるくなった甘いカクテルを飲み干しながら、カイリもこの一年、それなりにいろいろあったんだ。と、真矢は思った。自分だって同じだ。死者が見えるようになったことで、葬儀会社を辞めたんだから。


 カイリは無言で、グラスの中の氷をカラカラ鳴らしている。真矢は、コトンとグラスをテーブルに置き、外の夜景をぼんやり見た。


 高層ビルにはどの窓も、煌々と明かりが灯っている。あのひとつひとつの明かりの中には、それなりの数の人がいて、その人々の中には人間関係がそれぞれある。きっと、みんながみんな、毎日楽しく仕事をしているわけではない。時には誰かを憎み、恨み、嫉妬して生きている。人間だもの。誰でもそういう感情は持っている。ただそれを、生き霊を生み出すほど思うかどうかだけの話だ。そう思うと、輝くような東京の夜景が少し霞んだ気がした。


 真矢は新幹線の中でみた悪夢を思い出す。良い夢は覚えてないのに、なんで悪夢は忘れないんだろうと思いながら。


 ——お前、俺がぁ見えるんやろぉ。言うてくれっ……警察に言えっ! 俺は殺されたんやっ……


 あの夢の中で、私は「無視してごめんなさい」と思った。でもこうも思った。もしもあの死が殺人ならば、殺したいほどの憎しみが爆発し具現化した結果なんだと。結果的な死に対して、警察が「自殺」と断定したならば、それをひっくり返すことは私にはできない。死者が見えるから、死者と話せるからといって、私に何かできるわけじゃない。そして、そういうケースは今まで何件か見てきた。それが辛くて、葬儀会社を辞めることにしたんだよな。


 でも——、と真矢は思い出す。

 死者と話せることは、悪いことばかりではなかった。


 直接故人と話せるのだから、「最後にこれだけは伝えたかった」という思いをご葬儀のナレーションに織り交ぜることもしばしばあった。それに、あるご葬儀では亡くなったお父様から「屋根裏に通帳があるから娘に教えてあげて欲しい」と頼まれ、娘さんにそれとなくお伝えしたこともある。「葬儀に出席できない愛人が、マンションで泣いているからこっそり連れてきて欲しい」と頼まれた時は流石に困ったけれど、愛人と奥様が鉢合わせしないようになんとか手を打った。


 そう考えると、真矢は死者が見える自分よりも、生き霊の見えるカイリの方が辛い気がした。生き霊、それは憎悪の塊なのだから。しかもそのせいで、公共交通機関恐怖症になったとは。車社会じゃない東京で、それは結構大変な恐怖症だと真矢は思った。


「真矢ちゃん?」カイリが真矢の顔を覗き込む。「うん」と答えてから、真矢はカイリと視線を絡ませた。


「なんか、暗い話になっちゃいました?」

「いや、別に。カイリ君の方が大変だったんだなって思ってた」

「僕の方が、とは?」

「あ、うん……」


 私もカイリ君に言おう。死者が見えることを。真矢がそう思った刹那。カイリのスマホがブルブル震えた。





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