「それにしても、凄すぎる……」


 真矢は外資系の高級ホテル、東京ラマンのラウンジを眺める。ラウンジの壁や床は御影石のような質感で、天井が高い。いや、ホテルなんだから天井が高いのは当たり前なのだが……。


「は? それ何階分なんだ?」


 東京駅から程近い一等地。だから土地代も高いはず。ソファーが置かれたラウンジも相当広いのに、そのスペース全てがかなり上まで吹き抜けになっている。灰色の壁の途中から天井までは行燈のように障子が貼られ、まるで自分が小さな羽虫になって迷い込んでしまったようだと、真矢は思った。思ってから、「羽虫って……」と、真矢は自分のセンスのなさに苦笑する。すぐさま、「そうか、これはきっと日本の禅のイメージ」だ、と思い直した。それに、この巨大な空間こそ、部屋数を減らして作った贅沢であり、付加価値なのだと。


「家族葬規模の参加人数しかいないのに、立派な会場と豪華な装飾でやるお葬式みたいなもんか」


 真矢は天井を見上げながら、自分の考察はなかなか的を得てるはずだと頷いた。刹那、首にピシッと変な痛みが走る。違和感を感じたところに手を当てて、「いてて」と揉んでいると、カイリがフロントから戻ってきた。


「ちょっと真矢ちゃん、何やってるんですか?」

「え? あ、すごい天井だなぁって思って……」

「全力で顎を天井に向けてるなんて、完全に変な人でしたよ」

「全力で? え、私、そんな変な人になってた?」

「そうですよ。ほら、周りの人もこっちみてヒソヒソ話してるでしょ?」


 辺りに目をやると、確かにこっちを見てヒソヒソ話している人がいた。品の良さそうなお着物を着たご婦人達に、チェックのシャツにジーパン姿の大柄な外国人女性とその友人女性。ラウンジ横のバーカウンターでは、シャンパングラスを持った女性二人組がこっちを見て何か話をしている。


「いや、違う。あれは私を見てるんじゃなくて、カイリ君を見てるんだって」

「とにかく、キサキマツシタの洋服を着てるんですから変な行動は謹んでくださいよ!」


 なんだその理由は? と思ったけど、長くなりそうなので真矢は黙っておいた。それに、真矢は知っている。キサキマツシタはカイリのお父さんとお母さんが立ち上げたブランドで、亡くなったお姉さんはその後継者としてブランドを世界規模まで広げた。カイリにとって黒服のモードブランド、キサキマツシタは家族そのものなのだ。


「とりあえず部屋に一旦行って、それからあそこのバーでも行きましょうか」

「え? バー? カイリ君って未成年じゃなかったっけ?」

「は? 僕はもう二十歳を超えました」

「そっかそっか、大きくなったねぇ」

「本当もう、子供扱いして。そういう真矢ちゃんは今年さん——」

「——うっさいな。そこは数えなくていいからっ! ちなみにまだ二十代っ!」


 カイリの背中を叩こうとした真矢の手が空を斬る。「はははっ」声に出して笑ったカイリは、「真矢ちゃんの行動は読めます。ささ、夫婦漫才やってないで、ほらほら行きますよ」と黒い洋服を翻し、スタスタと歩き始めた。なんだか完全にカイリのペースに巻き込まれている。真矢は唇を噛み締めつつも、カイリが元気そうで良かったと、また思った。大学生活も意外と楽しいのかもしれない。


 それにしても……、カイリはなんだかこなれてるなと真矢は思う。スタスタ歩くカイリの横に並び「ねぇねぇ、まさかいっつもこんな高級ホテルに来てるわけじゃないよね?」と尋ねる。カイリは、真矢の方を見ることなく歩みを進めて「当たり前ですよ」と返した。


「このホテルの部屋は全てスイートルーム。一泊いくらすると思ってんですか?」

「うん、その値段は聞くのやめとくわ」


 聞いたらびびってギクシャクしてしまいそうだ。そういえばカイリの住んでいる部屋も港区の高級マンション、それも高層階だった。ベランダからはレインボーブリッジが見えてたなぁと思い出し、ついで、自分の一人暮らしのアパートが脳裏に浮かぶ。所詮、自分とカイリは住む世界が違うと真矢は改めて感じた。


 隣で歩くカイリの顔を見上げる。その顔は口角をあげ、なんだか嬉しそうだ。きっと私をこうやって振りまわすのが楽しいんだろう。ならば、ま、いっか。と、真矢は思う。だったらお金のことは、全てカイリに任せておこう。余計な詮索はなしだと、真矢は心に決めた。


 決めたはずなのだが……


 部屋がある階までエレベーターで昇り、廊下に一歩足を踏み入れて、真矢は「え?」と眉を顰めた。長い廊下は薄暗く、しんと静まりかえって人の気配が全くしない。「まさか、このフロア貸切とか……」思わず呟いた真矢にカイリは速攻「アホなんですか?」と言い放つ。


「さすがにそこまでやりませんよ」

「でもでも、すっごく静かだし」

「それだけ壁が分厚いんです」


 そうなのか。でも、そうなんだろう。さすが高級ホテル。耳を欹てても全く音が聞こえない。カイリが言うように、履き古したジーパンにムートンブーツではなく、ブランド服で武装してきて本当によかったと、真矢は思った。これを着ている間は、この場所にいてもいいような気がする。


 ——え、でもそうなると、東京にいる間中この服を着るのか?


 それはちょっと窮屈だと真矢は思った。汚れないか気にしながらいるのも、慣れない長いスカートを履いているのも、実際問題めんどくさい。でもそんな気持ちは部屋に入った瞬間に吹き飛んだ。


「ここです」と、カイリに通された部屋は窓が全面ガラスになっていて、東京の街並みが一望できた。暮れゆく空は茜に染まり、なんと……


「ふ、ふ、ふっ、富士山が見えるしっ!」真矢は窓の外を指差して興奮気味に捲し立てる。新幹線で寝落ちしていた真矢にとって、今日初の富士山だった。ちなみに真矢の住んでいる県では、富士山は見えない。


 窓の外、美しい茜色の空の下、東京の街並みの向こうに見える富士山も朱に染まっている。四角いフレームで切り取られた光景は、まるで絵画のようだと、真矢は思った。黒い鳥の群れがどこからか飛び立ち、優雅に空を舞っていく。それもまた美しく、ため息が漏れた。


「どうです? 気に入りました?」

「凄すぎて、陳腐な感想しか出てこないよ……」

「はははっ、真矢ちゃんらしい。まるで美しい絵画を見ているようだ。とか思ってたんでしょう?」


 図星でぐうのねも出ない。感想を言わなくて正解だったと真矢は思った。


「このホテルのこの部屋は、海外のゲストにも好評なんですよね」カイリは真矢の隣で窓の外を見ながら言う。「海外のゲスト?」真矢は聞き返した。


「キサキマツシタのパリコレに出てもらってるスーパーモデルとかですよ」

「そっか。そりゃ有名なブランドなんだもん、海外からゲストもくるよね」

「はい。そういう時のアテンド役は僕の仕事なので」

「もう自分ではやらないの?」

「なにをですか?」

「モデル」

「やりませんよ。自分のブランドのモデルを自分でやるのって、ちょっとどうかなって思うし、それに……」


 話が突然途切れ、真矢はカイリの顔を「それに?」と、見上げる。カイリは「いや、まだその話は後々で」言葉を濁した。なんだか歯切れが悪くて気になる。でも真矢はその先を促すことはしないでおいた。話したい時がきたら話せばいい。


「じゃ、荷物ももう届いてますし」カイリは入り口付近に目をやる。真矢も同じように視線を向けた。広々としたエントランス横、荷物置き場に自分のスーツケースが乗っている。長年使った白いスーツケースはところどころ色が剥げていて、それが自分と重なって見えた。なんだか場違いな気がして、真矢は窓の外に視線を戻した。


「じゃ、夕焼けはこれくらいにして、バーに行きましょうか」カイリの提案に、真矢は「もう少し見ていたい」と答えた。もう少し、非現実的な時間の中で、富士山を眺めていたかった。


 空の色は刻々と変わり、「夕飯の時間もありますし」と、カイリがふたたび切り出したタイミングで、二人はラウンジ横のバーに向かった。


 バーのテーブルは真矢の胸ほどの高さがあった。艶やかな飴色のテーブルの上には行燈のような四角い灯りが等間隔でついている。その光がほんのりテーブルに反射していた。履き慣れない長いスカートに気を配りながら背の高い椅子に腰掛けると、バーカウンターの向こうに見える東京の空はさらにその色を濃くしていた。街のネオンが夜空に瞬く星のように輝き始めている。


「ほわぁ」真矢は思わず声が出る。カイリはそんな真矢に気付かないフリをして、慣れた手つきで片手をスッと持ち上げた。白いシャツに、仕立てのいいベストを着た女性のバーテンダーがそれに気づき、オーダーを取る。


 カイリは真矢には季節限定のカクテルを。自分にはジントニックを頼んだ。ほどなくしてグラスが運ばれてくると、カイリは、「再会に」とキザった感じでグラスを持ち上げ、真矢もそれに倣った。


 真矢が口に含んだ季節限定のカクテルはすみれ色のカクテルで、フローラルな香りが鼻腔内に広がった。まるでブーケを抱えている気分だ。喉を通り胃壁を濡らしていくカクテルはアルコール度数が高いのか、じんわりと臓腑が熱を帯びていく。でも、これなら何杯でも飲めてしまいそうだと真矢は思った。


 美しい夜景、お洒落なカクテル。真矢はうっとりと外を眺めながら、頬杖をつく。最高の気分だった。


 ——と、不意に隣から「真矢ちゃん」と、カイリの声がした。「ん?」と真矢がカイリの方を見ると、カイリはバーカウンターに肘をつき、真矢の方に身体を向けた。手に持っているジントニックをカウンターにコトンと置いて、「実は、僕」と、声のトーンを一段下げた。


 カイリはいつになく真剣な眼差しで真矢を見つめている。その瞳に、美しい鼻梁とふっくらした唇に、真矢は不覚にも心臓を一瞬跳ね上げた。カイリは声を潜め、真矢に言った。


「一年前の『公衆電話の太郎君』の一件以来、見えないものが見えるようになったんです」

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