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何も見えない闇の中、
——俺は自殺やない。俺は自殺やない。俺は、自殺やないんやぁ……
出口のないトンネルの中をずっと走り続けているようだった。足がもつれ転びそうになりながらも真矢は走り続けていた。自殺じゃないなんて、そんなこと私に言っても仕方ない。死者の声が聞こえるなんて、警察が信じるはずもない。
先月亡くなった
——こんなこと言ったらあかんやろうけど、死んでくれて、本当よかったと思うわ。だって、ほら。ゆうこちゃんの結婚決まりそうなんやろ?
——お相手は銀行のおんなじ支店の人やって聞いとるよ。
——よしえさんもやけど、ゆうこちゃんも、本当によぉ耐えてきたもん。結婚する前になんとかなって、よかったって思うわ。
葬儀の時の弔問客の会話を思い出す。ヒソヒソと、ヒソヒソと、親戚の女性達はそう話していた。家族と近しい親戚だけのこじんまりとしたお葬式。『セレモニーホールなかの』がご提案するプランの中で、一番安価な、でも、ちゃんと葬ったと思ってもらえるようなお葬式。その会場担当者が真矢だった。
——殺されたんや……、そこにおる、その女と、その女に、俺は殺されたんやぁー……
お通夜のない、告別式だけのお葬式。白い棺と小さな祭壇。遺影は中学時代に撮った写真で、一見すると成人男性のお葬式には見えなかった。写真の中の箕浦幸平は詰襟の黒い学生服を着ていた。赤いニキビ面で、どんよりとした目をしていた。その祭壇の横に、頭がだらんと横に傾いだ男が立っていた。口からはよだれが滴り落ち、目ははちきれんばかりに飛び出ていた。それが死んだ時の箕浦幸平の姿なのだと真矢には分かった。
——よくも俺を、この俺をっ……、自分の息子を殺せたなぁ……
喪主である母親の横で、死者は怒鳴り続けていた。しかし、ハンカチに顔を押しつけている母親がその気配に気づくことはなかった。真矢はその様子をいたたまれない気持ちで静かに見ていた。真矢の視線に気づいた男は、母親から視線をゆっくりずらすと、今度は真矢に向かって怒鳴ってきた。恐ろしく掠れたひどい声だった。首の骨が折れていて動かせないのか、傾いだ頭のまま、真っ赤に血走った目で真矢を睨み、土色の腕を真っ直ぐ真矢の方に伸ばしてきた。
——お前、俺がぁ見えるんやろぉ。いうてくれっ……警察に言えっ! 俺は殺されたんやっ……
死者はもう話せない。でも、真矢は死者が見える。死者の声が聞こえる。なぜなのか、その理由は真矢にも分かっていた。黄泉の国に足を一歩踏み入れた。そんな過去の経験が真矢に欲しくもない能力を与えた。でも、だからと言って何かができるわけじゃない。
それでもあの日、真矢はご遺体を納棺した山田さんに確認した。首には抵抗した爪痕はなかった。使用した縄の食い込んだ跡しかなかった。だから自殺で間違いないと山田さんは言っていた。この道二十年の納棺師、山田さんは数々のご遺体をみている。だからきっと、間違いない。
真矢は思う。死者は生前の記憶が途切れたところまでしか分からないはずだと。箕浦幸平が本当に泥酔していたならば、記憶は酒を呑みすぎて途切れたところまでのはずだと。だから、もしも本当に殺されたのだとすれば、誰が自分を殺したかなんて、知らないはずだと。
だから、私は殺人を見逃したわけじゃない。
走り続ける真矢の足は、夢なのにもう限界だった。ここで立ち止まり、耳を塞ぎ、しゃがみ込むことだってできる。でも、真矢は闇の中を走り続けた。立ち止まれば奈落に引き摺り込まれてしまう。そんな気がしていた。真矢は足を動かし続ける。どこかにきっとこの夢の出口はある。覚めない夢なんてない。目を覚ませ、目を覚ませ。この悪夢を終わらせろ。
「死んでくれて本当よかったと思うわ」頭蓋の中で女性の声がした。死んでよかった人なんて、いるわけがない。そう、思いたい。いや、本来はきっとそうなのだ。死んでよかった人なんて、いない。だから、どうか安らかに……
——俺は……自殺じゃないんだぁ……
男の声が遠のいていく。この悪夢の出口はもう少しだと、今までの経験から真矢は知っていた。だから、真矢は走り続ける。男の声が、走れば走るほど、途切れ途切れに霞んでいく。
——お、れ……じさ……い……ぁ……
どうか、安らかに。あなたの死の真相を私が明かすことはできない。それに、死に至るまでになにがあったか、家族の話はその家族にしか分からない。あなたのお母様はご葬儀中は憔悴しきって泣いていたし、もう全て終わった後なのだ。だから私にできることは、なにもない。泥酔したのちの自殺。自分の未来に希望が見えず自ら命をたった。それが、箕浦幸平、享年三十二歳の死。残された家族にとって、それが真実。
でも、事実がもしも違うならば……
「ごめんなさい」
私は部外者、ただ、ご葬儀の担当をしただけでしかない。でも、それでも。これだけは心の底から願っている。
箕浦さんの死を心からお悔やみ申し上げます。どうか、安らかにお眠りください。
真矢の走っている闇の先、光が一筋見えた。踏み締めている地面ががくんと揺れる。落ちる……、そう思った瞬間。真矢は果てない闇の中、無重力感に見舞われた。
真矢の耳に、『次は東京——、終点、東京です——』と、新幹線の車内アナウンスが聞こえた。
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