第9話 ネリネ・アダマリオン

 陽光が私の瞼の隙間に差し込む。


 体の下はフカフカのマットレス。


 意識と現実を隔てる瞼。その外側から感じるのは大切な人の気配。


 私は目を開ける。



「おや、起こしてしまいましたか」



 サファイア、ラピスラズリ、アクアマリン、どの青色の宝石よりも綺麗で美しい髪の色。


掌で鈴を転がしたみたいな心地のよい音色が聞こえてくる。頬をつねる必要はない。これは間違いなく夢の世界だ。


夢だと理解していても、早く現実に戻る気にはなれなかった。覚めてしまえば過酷な環境に戻ってしまう。それならば、もう少しこの幸せを味わっていたいと思うのは自然なことだろう。



「珍しいですね、私の方が早く起きてしまうなんて。相当疲れているのでしょう」



 ご主人様の手が頭の上に伸びる。どんなものに触れる時よりも丁重に撫でてくれる。恐る恐る触れられるこの手が何よりも恋しい。まったく恐ろしい夢である。


 陥没穴に来てから、ずっと不安だったのだ。信頼できる狼はずっと側を離れないでいてくれるのだが、いざ一対一で魔法使いと対峙した時の恐怖は途轍もないものであった。


もう二度と一人で工房には入りたくない。もう誰とも戦いたくない。そんな弱い気持ちを見透かされているみたいだ。



「凄い大変でした。死ぬかと思いましたし、もう全てを投げ出したくもなりました」


「それはよく頑張りましたね。褒めてあげます! ですが、辛いならば投げ出してしまってもかまいませんよ」



 夢とは残酷なものである。ご主人様の声でだけは聞きたくない言葉であった。投げ出したとして、それから私はどう生きていけばよいのだ。私は目の前の虚像に対して少し意地悪をしたくなった。



「それがご主人様に関わることだとしてもですか? 私がそれをやらないと、こうして一緒に暮らせないのですよ」


「むむ、それは困りましたね。私は貴方と離れる気はありませんし、この世の誰にも邪魔をさせる気は無いのですが──」


「そうですよ。ご主人様ならそう言うと思いました。私と離れたく無いのなら、何で調査になんか行ってしまわれたのですか? 私は貴方のことを知らなさすぎました。隠していることの一つも教えてはもらえなかった!!!」



 私は無駄だとわかっていても、あの時に言えなかった問いを投げかけるのであった。





♦︎


 私はネリネ・アダマリオン。


 記憶喪失である。


 気がついた時には森の中にある。魔女の住処に連れてこられていた。魔女は森で倒れていた私のことを保護したのだという。


誰から逃げていたのか、何か目的があったのか、何で近づくことを禁じられていた森に入ってしまったのか。そこら辺の記憶がごっそりと抜け落ちていた。


 もっと前の記憶。つまりは、家族のことや、どこに住んでいたかなどは、ぼんやりとしか思い出せない。ただ、私が住んでいた場所にだけは帰りたくないという強い気持ちだけは覚えている。


思い出そうと何度も試みたが、その度に激しい頭痛に襲われ、欠けらたりとも記憶が戻ることは無かった。


加えて失語症も患っている。魔女と一緒に暮らすことを決めてからしばらくの間、声を発するどころか、唸り声の一つすら出せなかった。


 私は魔女との生活の中で、彼女の言葉を真似た。言葉選びの癖。抑揚。声の高さと質。それらを模倣することで私は声を取り戻した。だから、私は基本的に丁寧な言葉でしか話すことが出来ない。彼女がそうであったからだ。


 はじめの内は必死であった。何とかして魔女に見放されないように努めなければ、私の居場所が無くなってしまう。


やっと話せるようになった頃。魔女に文字や家事、力になれるように、生きる術を教えて欲しいと頼みこんだ。あまり乗り気ではない様子であったが、最終的には根気負けした形で一から全てを教えてもらった。



 こうして私は魔女の従者になった。



 ご主人様はもともと一人で、何でも十分に出来るくらい生活能力は高い人であった。それでも、私の申し出を無碍にせずに認めてくれた。明らかに渋々ではあったが、その時の嬉しさを忘れることは無いだろう。



「本当に従者でいいんですか。よう……でもいいんですよ。それに役割なんて無くてもいいです。ここに居たいと思うまで勝手に居ればいいんです。それか貴方さえいいならパー……でも──」


「お言葉ですが、私はご主人様とお呼びしたいのです。ご主人様には感謝しかありませんから恩を返したいのです」


「うーん。恩になんか感じなくてもいいのですよ。私は貴方を小間使いにするつもりはないんです。家事をやらせたり、雑事を任せたり。そうでは無くてもっとこう仲睦──」


「私では役に立たないからですか!?」


「い、いえ! 泣かないでくださいよ。分かりました。貴方を従者として認めます。これからよろしくお願いします」


「はい。ご主人様!」



 今思えば強引な申し出であったと反省している。だが、こうでもしないと切れることのない関係をあの人と結べなかった。当時の私には他に方法が思いつかなかったのである。


 それからの生活はとても楽しいものであった。ご主人様が教えてくださるのは未知のことばかり。特に食卓を一緒に囲む時間は他の何よりも幸せなひとときであった。食べ物を口にして何度感動したかは数えられない。


ご主人様は従者になった私に対して、雑な扱いをしたことは一度もなかった。それこそ実の子のように接し、愛してくれた。


私はこんな幸せな生活がずっと続くことに、少しの疑いもなかった。




 陥没穴が発生する少し前あたりから、ご主人様の外出が多くなった。ご主人様は魔法学校の先生をやっているので、忙しい時は毎日のように街で夜まで仕事がある。しかし、学校が休みの日にも街へ行くことが多くなった。


家に訪問者が来ては私のことを二階にあげて、何かを話し込んでいるのも日常になった。



 ある日の夜。


 除け者にされていることに我慢が出来ず、ベッドの中でご主人様に話を振った。



「何か私に手伝えることはありませんか?」


「はい、残念ながらありません。リリーはこうやって私の側にいてください。それだけで元気が出ますので」



 私が心配をすると、ご主人様は決まってこう口にする。そして、私のことを強く抱きしめる。体に伝わるのは小刻みな震え。ご主人様が何かに怯えていることは痛いほど分かった。私は最後の最後まで、その不安を取り除くことは出来なかった。







 巨大な陥没穴に街が飲み込まれていく様子は遠く離れた森の奥地。家の中からでも見ることが出来た。街が、建物が、沈んでいくのだ。幾度、目を擦ろうともその光景は消えて無くなりはしない。私は隣にいるご主人様の手を強く握った。



「リリー、よく聞いてください」



 ご主人様が窓をぼんやりと見つめながら低いトーンで話し始めた。



「私はこれから街に行って、あの現象の調査をしなければいけません。正直に言いますと、しばらく帰って来られないかもしれません」


「え」



 思考が完全に停止してしまった。この人は何を言っているのだろう。言葉は聞こえても脳が理解するのを拒否した。



「リリー、一緒に街へ行ってくれますか」


「はい。行きます!」



 私は嬉しかった。てっきりここに留守番をさせられると思っていたので、一緒に行こうと言ってくれたことがとても嬉しかった。ご主人様と一緒なら私はどこへだって行きたい。


それでも、ご主人様の顔が暗いままだったのは覚えている。




 軽い身支度をして二人で青色の大狼の背中に乗る。


 ご主人様は私が落ちないように後ろから支えてくれる。体重を預けることがどんなに心地がよく安心することなのか。今となっては理解できる。



 いつもなら凄いスピードで森を駆け抜けるのだが、この時はゆっくりと一歩ずつ踏みしめるように狼は進んだ。いつも通りの会話。好きな食べ物や、今日は何が食べたいかなどを話しながら、いつもより時間をかけてディルクナードまで辿り着いた。



 この時の街の様子は、酷く胸にこびり付いている。ヘドロこそないが、悲しみに暮れる人々や、抉り取られるように飲み込まれた建物など、言葉を失う光景であった。惨状に心を痛めていると、途轍もなく大きな穴が見えてくる。その手前側には騎士団の面々が会議をしているようであった。



「おお! 魔女。やっと来たな、遅かったじゃないか」



 奥から人相が悪そうで、ふくよかな男が出てきた。身分が高い者なのだろうか。周りの人が媚びをへつらっている。



「少し時間をください。この子にお別れをしなくてはいけません」


「え!」


「他のやつらはもう向かっているんだ。はやくしろ」



 ご主人様は私の手を引き、人だかりから距離を取る。私と一緒にしゃがみこんで目線を合わせる。



「わがままですみません。本当はリリーのことを騙してでも、私一人でここまで来なければいけませんでした。ですが、私にそんな勇気はありません。リリーと一緒でなければ恐くて動けませんでした」



 握られた手からは震えが伝わってくる。両目に大粒の涙を浮かべながら、私のことを見つめるご主人様に返す言葉が見つからない。



「リリーと一緒には行けません。この先で何が起こるか分からないんです。そんな危険な場所には連れていけない。あなただけが私の生きる理由なのです。あなたがいてくれるから私は──」


「なぜご主人様が行かなくてはならないのですか? 嫌です、嫌だ! 離れないと約束してくれましたよね。私も連れていってください!」



 私はご主人様の手を払って身体に抱き着いた。かつてないほど、思いっきり力を込める。絶対に離さないように両手の感覚が無くなるほどにローブを掴む



「困りました。こればっかりはあなたの方が正しいので、言い返す言葉はありませんね。ですが、行くしか選択肢は無いのですよ……」



 ご主人様は私の身体を強く抱きしめ返す。



「嫌です、行かないで」


「私は幸せ者ですね。あなたにこれほど愛されていただなんて。少しは母親みたいになれましたか?」


「大好きですよ。好きな、だけそう呼びます、だ、から行かないで、ください」



 私はたくさんの涙を溜め込みながらご主人様に縋りついた。



「まだそこでグズグズと、一体何をやっているのだね」



 先程のふくよかな男がこちらにやってくる。ご主人様は嫌味な軽口を無視して、私の頭の上に頬を擦るように置く。



「ほら、そんな身勝手なガキ。さっさと突き放してこちらへ来るんだ」



 男が言い放った言葉に対してご主人様は目線だけを向ける。空気が凍りついたように感じる。けれども、体は一層に熱い。抱きしめられる腕はぎゅっと圧迫される。



「今ここでそ──」


「二人は私の友人なんだ。邪魔するようならここでお前を始末して、私も共に地獄へ堕ちよう」



 ご主人様が口を開いた直後。豪華な甲冑を纏った騎士団長が割って入り、男に剣を突き出した。



「お、おい。き、貴様誰に剣を向けているかわかっているんだろうな」



 男は腰を抜かして手を地面に突きながら吠える。一触即発の事態に騎士団の数名が駆けつけて来て、なんとか仲は取り持たれた。



「リリー、時間がありません。顔を上げてください。私の最後のお願いを聞いて欲しいのです」



 私は涙でぐちょぐちょの顔を見せる。拳を握りすぎて手は痙攣している。



「こんなに力一杯握りしめて。もっと自分のことを大切にしてくださいね」



 ご主人様は私の手を優しく握った。



「リリー、あなたはやりたい事をやりなさい。そしてあなただけはこの世界で一番幸せになってください。もし他人から邪魔をされるようなことがあれば、私が化けて出てやりますから。大好きですよリリー」



 ご主人様は言い終わると私の前髪を掻き分けて頬に口づけをする。



「──わ、たしも、大好きです」



 もう、両手も両腕も力が入らない。それどころか体全身の力が抜けていく。この人を止めることが出来ない。それを自覚してしまったからだ。



「ルガー、リリーのことをよろしく頼みましたよ」



 今までどこにいたのか。虚空から大狼が姿を見せる。



「リリーいいですか。あなたに不幸は訪れません。私が守ります。その約束だけは絶対に破りません。それに絶対帰ってきます」



 ご主人様の全身から金色の光が発せられる。光を纏ったご主人様に抱きしめられた。その瞬間、全身が暖かい衝動に包まれる。ご主人様の何かが自分の中に入り込んでいく感覚がする。そしてご主人様は、私のことを持ち上げて狼の背中に乗せる。



「ルガー、行ってください」



 命令を受けて、狼は困ったような顔をするがトボトボと歩みを始める。



「ご主人様!」



 私はご主人様が穴に走って落ちていくのを見た。






♦︎


 私は絶対にご主人様のことを見つけて一緒に帰るのだ。もう待つのは疲れた。



 夢の世界は崩壊を始める。



「ご主人様、絶対に見つけます。何を言われても今回は離れません。あなたがここで何をしてようが、私はご主人様と一緒でなければ帰りません!」


「──」


 目の前の虚像も崩れ始めた。答えなど本人に聞けばいいのだ。同じ場所にいるはずなのだ。焦らなくても会える。



「ご主人様、行ってきます!」

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