第18話「覚悟」
ライアンからの贈り物として部屋に飾られたのは、金糸雀の絵だけではない。
ピンク色の可愛らしい花束は、今はガラス製の花瓶に生けられ、エレノアの目を楽しませてくれていた。
ガーベラと一緒に花束にされていた白のアルストロメリアをちょいと突き、エレノアはなんとなしに金糸雀の絵に視線を向ける。
仲睦まじく寄り添い合う二羽の小鳥。ライアンの事だから、気に入った絵が金糸雀の絵だったから、エレノアに贈ってくれたのだろう。深い意味は無い、気に入ってくれるだろうと思って贈ってくれたのだと口元を緩めながら、エレノアはゆっくりと立ち上がる。
今日は教会に出掛けるつもりなのだ。いつまでも落ち込んで引き籠っていては、呪いが解けるまでに期限が来てしまう。それでは意味がないのだ。
さっさと支度を済ませると、エレノアは慣れた足取りで屋敷を出る。使用人たちも教会に行くのだと分かっているのか、行ってらっしゃいと送り出してくれた。
街は今日も賑やかだ。海辺の街なせいか、陽に焼けた者が多い。潮風は少し強いが、少し離れた市場から漏れてくる活気の良い声が、エレノアの耳に届く。
流石に市場に一人で行く気にはなれない。あそこは人が多いのだ。所謂「お嬢様」の行くところではないと思っているせいなのだが、いいところのお嬢様が一人で屋敷の外をうろついている時点で今更である。
すれ違う住民たちは、時折エレノアに挨拶をしてくれた。この街においてエヴァンズ家というのは、領主である男爵家よりも裕福で、街の為に出資してくれるお優しいお貴族様なのだ。
その家の令嬢であるエレノアは、住民たちから大切にされている。もう暫く歌っていないが、教会で賛美歌を歌うエレノアの声は、住民たちからの人気も高かった。
酷い風邪で喉を潰したという話のおかげで、エレノアに歌って欲しいと言うような者はいない。ただにこやかに「こんにちはお嬢様」と声を掛けてくれるのだ。
「お嬢様、教会へ?」
パン屋の店主がエレノアに手を振りながら声を掛けてくる。そうだと肯定するように頷くと、店主は店の奥から籠を手にして微笑んだ。
「ちょっと焦がしちまってね、売り物にならないんだ。端っこを千切れば食べられるから、良かったら教会に」
店主の言う通り、籠に詰められたパンは端の方が少しだけ焦げている。これくらいなら値段を少しだけ引いてしまえば売れそうなものだが、店の奥から顔を出す少年を見て納得した。
少しだけ気まずそうな顔をした少年が、ぺこりと小さくエレノアに向かって頭を下げる。
「顔見知りでしょう?教会のウォーレン。この間からうちで働いてるんです」
がしがしとウォーレンの頭を掻き回しながら、店主は豪快に笑う。
「店先に出した求人の張り紙を見たって言って入ってきましてね。教会の子供たちが文字を読めるなんて!」
「簡単なのしか…ちょっと、やめ…!」
痛いと声を荒げるウォーレンの耳がほんのりと赤い。
エレノアとディランが文字を教え、それをしっかりと吸収してくれたのだろう。張り紙に書かれた求人という文字に飛びついたらしかった。
「本当はまだ窯を触らせるつもりは無かったんですがね。じっと見てるのが面白くて、パンを出す作業をやらせたんですよ」
モタモタしていて焦がしたんだと笑う店主だったが、その目は優しい。むくれているウォーレンを気に入っているのだろう。教会には食べ盛りの子供が沢山いる。金もそうだが食糧だってどれだけあっても困らないのだ。
「半端物で申し訳ないが、捨てるくらいなら…こいつの初めてのパンってことで」
「痛いって!」
いい加減にしろと店主の手を払い除けたウォーレンは、じろりと店主を睨みながら乱れた髪を直す。ちろりとエレノアを見ると、またぺこりと頭を下げて店の中に戻って行った。
「新しい事を知るのが楽しいって言ってましたよ」
そう言うと、店主はひらりと手を振って店の中に戻って行く。
ぽつんと残されたエレノアは、ぼんやりと籠を見つめて微笑んだ。
自分の名前すら読めなかった子供が、求人の張り紙を読んで仕事を始めるなんて思わなかったのだ。
元々ウォーレンは賢い子だと思っていたが、店主の言う通り新しい事に興味を持ち、楽しいと思えるのは素晴らしい才能だ。
窓から見る店内では、モタモタしながらも賢明に働くウォーレンが見えた。視線に気付いたのか、ウォーレンは恥ずかしそうな顔をしながらひらりと手を振ってくれる。エレノアもそれに応えるようにひらりと手を振り、再び教会へと歩き出した。
◆◆◆
エレノアの手土産は、教会では大いに喜ばれた。ウォーレンが焼いたわけではないが、毎朝早くから出て行って心配していたらしいシスターたちは、立派になったと涙を浮かべる程だった。
「エレノア様のおかげです」
そうベネット神父は深々と頭を下げてくれたが、そこまで感謝をされるような事では無い。ちょっと屋敷の外に出るのに楽しみが欲しかった。楽しそうに、嬉しそうにしてくれる子供たちが可愛くて居座っていただけだ。
ディランと同じ時間を過ごし、仲を進展させるという下心もあったのだから、こんなにも感謝をされると何だか気まずい。
「良かったですね、エヴァンズ嬢。優秀な生徒で」
にこにこと微笑みながら、ディランは千切って渡されたパンを美味しそうに食べている。エレノアも同じようにパンを口に運べば、ふわりとバターの香りが優しく鼻を抜けていった。
『ウォーレンに美味しかったと伝えてください』
「はい、勿論ですとも」
ニコニコと嬉しそうに微笑むベネットが、エレノアの差し出した紙を大事そうに摘まむ。
伝えてくれればそれで良かったのだが、どうせならとこの紙をそのままウォーレンに渡すつもりらしい。
「このままウォーレンが腕の良いパン屋になったら、是非とも我が家の食卓の為に腕を振るってもらいたいですね」
冗談っぽく言うディランに、エレノアはちらりと視線を向ける。
父に頼んで調べてもらったバーンズ家は、正直言ってあまり生活は豊かではない。狩りをしているのは少しでも家計を助ける為であると結論付けられていたし、これまで以上に人を雇っていける程余裕はあるのか疑問だ。
だがそれを今この場で聞くなんて事は絶対に出来ない。聞くべきはないと判断し、エレノアはごくりとパンを飲み込んだ。
「あらあら、これからお勉強なのに眠くなっている子が多いわね」
その声に部屋を見回すと、うつらうつらと舟を漕いでいる子供が何人かいた。エレノアとディランは互いに顔を見合わせ小さく笑う。
腹が満たされ、午前中に程よく疲れているのなら眠たくもなるだろう。大きな欠伸をしながらペンを握ろうとする子供もいたが、授業を始める前から集中力がそう長くは持たない事は明白だった。
「…今日は休講ですね」
苦笑するディランに、エレノアは微笑みながら頷く。
やりたいとぐずる子供もいたが、また来週と宥めれば、渋々といった様子で部屋に向かって歩き出してくれた。
これから揃って昼寝の時間になるだろう。今日はもう教会でやる事は無い。あまり居座っても邪魔になるだろうが、シスターもベネット神父もそれぞれやる事があるのか、ゆっくりして行ってくれと微笑みながら去って行く。
普段礼拝や説教の場となっている礼拝堂に、ディランと二人きりになったエレノアはぼうっと天井を見上げる。
所々剥がれてしまっている絵が、二頭の子羊を見下ろしている。
天使に囲まれた柔らかな表情の男性の絵。あまり詳しくはないが、神父曰く「天から我々をお見守り下さる我らの父」らしい。
ライアンは今頃良い絵師を見つけただろうか。三週間程で戻ると聞いたが、それならもう絵師は見つかっただろう。
「…エヴァンズ嬢」
ぼうっと天井を見つめたまま動かないエレノアに、ディランはそっと声を掛ける。
何?と顔をディランに向けると、何処となく落ち着かない様子で指先を忙しなく動かしているのが見えた。
「あの…少しお話が」
『何でしょう』
「宜しければ場所を変えませんか。何だか…見られているようで落ち着かないので」
天井を指差しながらディランは言う。
何を話したいのか分からないが、見られているようで落ち着かないというのなら、場所を変える事に異論はない。
頷きながら立ち上がると、ディランはそっとエレノアの手を引いて歩き出す。
繋がれた手をじっと見つめながら、エレノアは誘われるがまま歩く。教会を出ても繋がれたままの手。街を歩きながらもその手は離れず、お嬢様が男と手を繋いで歩いていると囁き合う住民がちらほら居た。
何処に向かうのだろう。
離してくれと言うべきなのだろうが、手を繋いだまま前を歩くディランに文字を見せる事は出来ない。そもそも手を繋がれているのだから文字を綴る事も出来ないのだ。
声が出せたらすぐにでも離してほしいと言えるのに。どうしたものかと考えているうちに、二人は砂浜まで歩いてきていた。エヴァンズ家の屋敷の裏手だ。
「…手、申し訳ありませんでした」
困った顔をしているのに気が付いたのか、ディランはパッと手を離して詫びる。
ぽりぽりと頬を掻きながら、ちらちらとエレノアの顔を見るディランの顔はほんのりと赤く染まっていた。
「その…今はライアン・ブルックスが街に居ないと聞いたもので」
だから何だ。そう言いたくて、エレノアは小さく首を傾げる。
返事をしようといつものポシェットからペンを取り出そうとするのだが、その手はディランに取られて叶わない。
「そのペン、私が新しいものをお贈りしても宜しいでしょうか」
ぱちくりと目を瞬かせるエレノアを前に、ディランの顔は真っ赤だ。ただじっと見つめてくる澄んだ海を思わせる瞳が綺麗だと思った。
「貴女の手がそのペンを握る度、私の心が苦しいのです」
ぐっと力を籠められた手。ペンを取れないよう、しっかりと捕まえられた手と、此方を見つめてくるディランの顔を交互に見ながら、エレノアは困ったように眉尻を下げた。
「声が出せないのなら、私が貴女に声を贈ります。受け取ってはいただけませんか?」
胸元から取り出した小さな箱。会った時から何か膨らんでいるなとは思っていたが、この箱が入っていたのなら納得だ。
差し出された箱を開くと、中には白地に金の装飾が美しいペンが入っていた。受け取ってと視線で訴えてくるディランには申し訳ないが、何となくライアンから貰ったペンの方が良いと思ってしまう。
「家格が釣り合わないと言われてしまえば何も言えません。恐らくご存知かとは思いますが、我が家は所謂貧乏貴族です」
エレノアの手を握ったまま、ディランは言葉を続ける。
じっと真直ぐにエレノアを見ながら、ぎゅうと痛い程手を握りながら、必死で言葉を紡いでいるように見えた。
「貴女をお慕いしております」
すとん、と胸に何かが落ちたような気がした。
望んでいた事だ。誰かに愛され、忌まわしい呪いを解いてほしいと。望んでいた通り、目の前の男は自分を愛してくれたらしい。
差し出されたまま取られもしない白いペン。それを受け取れば、彼はどんな顔をするだろう。嬉しそうに微笑んでくれるだろうか。もしも受け取らなければ、哀しそうに笑うだろか。
「すぐに返事を強請るつもりはありません。でも少しだけ、考えてみてはくださいませんか」
漸く手を離すと、ディランはもう一度ペンをエレノアに差し出す。
差し出された箱からペンを取ると、エレノアはポシェットから取り出した紙にさらさらと文字を書いた。
『私を愛してくださるのですか』
「はい、心の底から」
『では願いを一つ』
「私に出来る事ならなんなりと」
何かを期待するような目。これから出す条件がどれだけ難しい事だろうとやり遂げますとでも言いたげな目。
何も難しくはない。とても簡単で、一瞬で終わる事だ。
『私にキスしてください』
そう綴った紙をディランに突き付ける。
困惑しているのか、書いてある文章の意味が理解出来ないのか、ディランはぽかんとした顔のまま何度も文字を読み直しているように見えた。
何度も瞳が動き、漸く動きを止めた。ゆっくりとした動きで、ディランの瞳がエレノアを見つめる。
「エヴァンズ嬢…何を仰っているのか、意味は理解しておいでですか?」
普段よりも細い声。
当たり前だろう。貴族令嬢であるエレノアが求める事ではない。結婚前どころか、若いうちのちょっとしたお遊びである恋人ごっこの相手ですらない男に強請るには、少々趣味が悪い。
冗談でしょう?と声を震わせるディランは、うろうろと視線をさ迷わせる事をやめられないらしい。
打ち寄せる波を見てみたり、突き出されたままの紙に視線を戻してみたり、真直ぐに自分を見つめたまま動かないエレノアの顔を見たり。忙しそうに動く視線だなと呆れ、エレノアはそっと腕を降ろし、受け取ったばかりのペンをディランに突き返す。
ディランの胸に押し付けたペン。美しいペンだとは思うが、これは自分の声にはなりえない。これでは無い。
求めているのは本来の自分の声なのだから。
「…エヴァンズ嬢も、私と同じ気持ちという事なのでしょうか」
ぽつりと零された問い。それに答えることもせず、エレノアは曖昧に微笑む。
同じ気持ちなのならば、きっと差し出されたペンを突き返したりしないだろう。嬉しいと満面の笑みを浮かべ、何度だって文字を綴る筈だ。
だが、今エレノアの頭に浮かぶのは、いつも優しく微笑み、我儘を聞き、良き理解者として傍に居てくれる幼馴染の顔だった。
「貴女が望む事ならば、私に出来る事はなんでもしますよ」
覚悟を決めたのだろう。ほんのりと頬を染め、やや緊張した様子のディランはゆっくりとエレノアの肩に手を添える。
徐々に近づく体。恥ずかしそうにしているのに、真直ぐに見つめる海を思わせる澄んだ青。いつまでも見ているのが気恥ずかしくて、エレノアはそっと目を閉じた。
どうかこれで呪いが解けますように。
望んでいた時が今来たのだ。心から愛してくれる男にキスをされる。たった一つの呪いを解く方法。
唇に柔らかい何かが触れた。少しかさつき、温かい何か。ほんの一瞬重ねられた唇が離れていった。それと同時にゆっくりと距離を取られた気配を感じ、エレノアはそっと目を開く。
真っ赤な顔をして、気まずそうに視線をうろつかせるディランを見つめながら、うっすらと口を開いた。
「…貴方は」
初めて発せられるエレノアの声。目を見開き、何が起きたのか理解しようとしているらしいディランの顔を見つめるエレノアの顔は酷く穏やかで、何かを後悔しているようだった。
「呪いを解く王子様ではないようです」
酷くしゃがれたダミ声。
美しい令嬢の口から発せられる筈のない、あまりにも酷いその声に、ディランは言葉を失っていた。
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