第17話「愛情表現」

ぺらぺらと小さな紙の音をさせながら、エレノアは与えられた書類に静かに目を通す。

父の言った「領地経営も出来ない貧乏男爵家」という言葉が気になり、父に頼んでバーンズ家の調査をしてもらったのだ。


父の書斎で、父の前でそれを読む。

先代の頃から領地の運営に苦戦しているらしく、領主である男爵家の生活は困窮しているらしい。だが、不思議と領民たちの生活はそう変わっていない。

豊かになったわけではないが、苦しんでいるわけでもない。領主は自分たちの生活よりも、領民たちの為に金を使っているようだった。


領民の為に金を使い、道の補修やら農具の更新、困った末に借入を申し出る住民には快く金を貸してやる。なかなか返ってこずとも急かすでもなく、ゆっくりで構わないと大らかな様子らしかった。


優しく寛大な領主様。そう慕われているようだが、確実にバーンズ家の経済状況は悪化している。

エレノアはあまり気にしていなかったが、書類に書かれた報告では夫人や娘であるシャーロットのドレスはいつも数着を着回しており、社交の為に外に出る時のドレスも少々流行遅れなデザインのものばかり。


新しいドレスを作る余裕も無いのだろう。それに気が付かない程、エレノアは呪いを解いてもらうという願いに執着していたらしい。それに気が付くと、何だか滑稽というか、無様だ。


何て優しい人なのだろう、優しくて素敵な女性がお友達になってくれたと喜ばしく思っていたのに、その友人の事を殆ど知らない。それを不思議とも思わずにいたのだから、己の視野の狭さは本当に愚かだ。


「優しさは美徳だろう。他者を助け慈しむことは素晴らしい事だ。だが、それだけでは領地の運営は出来ないものだ」


そう言う父と、バーンズ家の当主はきっと仲良くはなれないのだろう。考え方が全く違うのだから。


「これを読んでもまだ、お前はディラン・バーンズを選ぶのかい」


じっと娘を見つめる父の目が冷たく恐ろしい。呪いを解いてくれればそれで良いと思っていた。だからこの書類に書かれている事が事実だろうが何だろうがどうだって良かった。


『呪いを解いてもらったら、そこまでです』

「心の底から愛してくれる男からのキス…だったか。嫁入り前の娘が男に口づけをされるなんて考えたくもないな」


苦虫を噛み潰したかのように、父の顔は歪む。だがこれが呪いを解く唯一の手段なのだ。それを分かっている父はそれ以上何も言わない。ただにんまりと笑うエレノアの顔を、ほんの少し寂しそうな顔で見つめるだけだ。


「もしも…このまま呪いが解けなかったら」


ゆっくりと父が口を開く。

そんなもしもの話をしないで欲しかったが、エレノアは口を閉ざしたまま父の顔を見つめた。


「いつまでもこの家に居なさい。お前は私の宝だ」


それでは弟が家を継いだ時ただのお荷物になってしまう。家族仲は良いが、いずれ迎える事になるであろう弟の妻には流石に申し訳が無い。何処か別荘でも作ってもらって、そこに閉じこもる事くらいはさせてもらおう。いやいや、そんな事を考える前に呪いを解かなくては。


ふるふると小さく首を振り、エレノアはそっと書類の束をテーブルに置いて立ち上がる。

ゆったりとスカートの裾を摘まみ、令嬢らしくお辞儀をして微笑むと、用事は済んだとばかりに背を向けて扉を目指して歩き出す。


「ああ、待ちなさい」


それを引き留めるように、父がまた言葉をかけた。


「ライアンだが、あと三週間程で戻るだろう。会いたくないだろうが、いつまでも逃げ回れない事は分かっておきなさい」


そう言った父の言葉を耳の奥に響かせたまま、エレノアはそっと部屋を後にする。

もう少ししたら、ライアンが戻って来る。顔を見せる気になれるだろうか。


どんな顔をして会えば良い?無様に取り乱し、海に向かって走ったあの夜から一度だって顔を見せていないのに。


聞かれてなる物かと必死だったのに、愚かな自分の不注意のせいで聞かれてしまった声。今更もう一度固く口を閉ざしたところで、きっとライアンの記憶にはしゃがれたダミ声が刻み込まれている。


もう望んでいた、金糸雀だった頃のエレノアとして覚えてもらえはしないのだ。呪われた女、声を奪われた金糸雀として彼の中に残ってしまうのならば、それならいっそのこと、二度と姿を見せたくない。


あの夜と全く同じ事を考えている自分に嫌気が指す。きっと父は、少し冷静になれば考えも少しは変わると思ったのだろう。

だからライアンをわざわざ遠ざけてくれただろうに、ここまで頑なにライアンを拒絶するとは自分でも笑ってしまう。


彼の前では、いつまでも美しくありたかった。

彼の中では、いつまでも美しい金糸雀でいたかった。

彼と共に笑っていたかった。呪いなんてものに声を奪われなければ、きっと今頃子供の頃と何ら変わらず、二人で楽しいお茶会をしていただろうに。


そっと自分の喉を抑えながら、エレノアはとぼとぼと長い廊下を歩く。

広いエヴァンズ家の屋敷の廊下は、どこまで歩いても終わりが無いような気さえした。


◆◆◆


自室へ戻って何か気晴らしでもしよう。そう思っていた筈なのに、エレノアは目の前に広がっている光景に頭を抱えるでもなく、ただ茫然と立ち尽くす。


部屋を埋め尽くさんとする大量の箱と花。何だこれはとソフィーの顔を凝視すると、ソフィーは少々口ごもりながらこの状況を説明してくれた。


「…ライアン様からの贈り物ですよ」


今は王都にいる筈のライアンからの贈り物だというそれらは、どれもこれも可愛らしく包装されたものばかり。

少し前に玄関に山になっていたピンク色の花も、今回は常識的な量に抑えて一緒に運び込まれていた。


「全て運びましたが…どれから開けましょうか」


遠慮がちに箱を指すソフィーに小さな溜め息を吐きながら、エレノアは隅に追いやられたテーブルにちょこんと置かれた手紙に手を伸ばす。


見慣れたライアンの文字。エレノアよりも少し大きな、するすると流れるような文字。「エリー」と書かれたそれを読んだだけで、耳にライアンの声が蘇る。


優しく低いあの声で名前を呼ばれるのが好きだ。家族以外に自分をエリーと呼ぶのはライアンだけで、それを許しているのもライアンだけ。要は彼は特別なのだ。


会いたくないと拒絶していても、恋しいという気持ちは消えてはくれない。

甘えてはいけない、重荷になりたくない、ただの幼馴染なのだから、弁えなくてはならない。そう思っていても、離れていてもこうして気にかけてくれているのが嬉しかった。


綺麗に折り畳まれた紙を封筒から取り出し、広げる。

やはり流れるように書かれた文字はいつも通りで、胸の辺りがぎゅうと苦しい。


—元気にしているか、風邪は引いていないだろうか。

—今王都にいて、良さそうなものが色々あったから送るよ。気に入ってくれると良いけれど。

—もう一度だけで良い。エリーに会いたい。

—帰ったら、今度は顔を見せてほしい。


そう綴られた手紙。あの日声を聞いた事は何も書かれていなかった。まるで聞いていませんとでもいいたげなその文面は、ただエレノアに会いたい顔を見たいという内容だった。


「お嬢様、この箱はもしかしたらドレスかもしれませんよ」


大きな箱を指差しながら、手紙を持ったまま立ち尽くすエレノアに声を掛けるソフィーの顔は気まずそうだ。

ライアンを拒絶していたのに、拒絶された本人からこれだけ多くの贈り物をされたのだ。


要らない、何処かへやれと言われる事を恐れているのだろう。あれだけ仲が良かったのだから、そんな事を言わないでほしいと願っているようにも見えた。


手紙をテーブルに置くと、エレノアはのろのろとソフィーの指差した箱を開く。大きなリボンで飾られた大きな箱。ゆっくりと開くと、中には水色のふわふわとした柔らかい生地で出来た普段着に良さそうなドレスが収まっていた。


いつか誕生日の贈り物にと言っていたドレスを思い出す。結局良い物が見つからないとドレスを贈るどころか、贈り物すらされていなかった。


ドレスと一緒に納められていたカードには「お誕生日おめでとう、エリー」とライアンの文字が躍る。


広げてみれば、それは重力に従ってふわりと揺れる。細やかな刺繍は金糸だろうか。エレノアの髪と同じように、陽の光を浴びてキラキラと輝いている。


「こちらは何でしょう…帽子でしょうか?」


主人が一つ箱を開いたからと遠慮も無いのか、ソフィーはさっさと次の箱を開く。

円柱型の箱は予想通り、大きなリボンと造花で飾られた大振りの帽子が収まっていた。


此方にも小さなカードが入っている。「エリーは日の光が似合うから。でも日焼けはしないように」


次々と開かれる箱の全てに、ライアンからのカードが入れられている。


紅茶には「一緒に飲もう」

ネックレスには「パーティーでエスコートさせてくれないか?」

夜会用の靴には「ダンスは上達しただろうな」

普段用の靴には「散歩に行こう」

フリルで縁取られた小ぶりな日傘には「お嬢様らしくて良いだろ?」


どれもこれもせっせと丁寧に書いたのだろう。全て違う文が書かれていた。


「これは何でしょうね…」


比較的小さいが、平たい箱。厳重に梱包されたそれは、何が入っているのか予想も出来ない。

二人で首を傾げながら、せっせと梱包材を取り除いていく。

ずるりと現れたそれは薄い板のように思えた。


「まあ…」


エレノアの隣で反対の面を見ていたソフィーは、口元を抑えて嬉しそうに微笑んだ。

くるりとひっくり返したエレノアの目には、鮮やかな黄色が飛び込む。


二羽の黄色い鳥。細い枝に止まった鳥を描いた絵だった。


「金糸雀…」


ぽつりと呟いてしまった声。それは描かれた美しい鳥のような声ではない。酷くしゃがれたダミ声。


ぐっと胸が苦しくなった。目頭が熱い。

どうしてこの絵を贈るのだろう。かつて呼ばれた金糸雀という名前を、望んでも戻って来るのかも分からないその声を知っていて何故。


「お嬢様」


そっと差し出されたカード。そこに書かれた文字は他のカードよりも短かった。


「俺のエリー」


それだけ書かれたカードと、手にしたままの絵を見比べる。どういう意味なのか分からない。

記憶の中のエレノアが、いつまでもエヴァンズの金糸雀だと言ってくれているのだろうか。それとももっと単純に、言葉のままの意味なのだろうか。


わからない。ライアンが何を考えてこの絵とカードを贈ってきたのかがわからない。


「…そこに飾って。私の机の前に」


壁に向けられた机を指差し、エレノアはぎゅっと目を閉じる。

お世辞にも美しいとはいえない声。かつての金糸雀と謳われる声を取り戻さなければ、この絵に描かれた美しく可愛らしい鳥のような声を。


「ライアンが戻ってきたら教えて。贈り物のお礼をしなくちゃ」

「はい、お嬢様」


声を出すと喉が引き攣る。それ程長い間声を出していなかったのだ。

早く元の声に戻りたい。戻れたら、きっとまたライアンと一緒に過ごす気になれるだろう。


その前にたった一度、この贈り物たちのお礼をしなければ。今はまず、王都にいるライアンに向けてお礼の手紙を書く事にしよう。


いつものペンを手に取り、エレノアはするするとペンを走らせる。

今はこれが自分の声だ。恋しいと思ってしまった気持ちを乗せないように、淡々と事務的な文章になるように意識しながら、エレノアはペンを動かし続けた。

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