第16話「魔女とのお茶会」
ディラン・バーンズの事はあまりよく知らない。教会で子供たちに文字を教える先生仲間で、狩りが得意で悪筆な次期男爵。
友人となったシャーロット・バーンズの兄で、くすんだ金の髪と澄んだ海の色をした瞳を持つ、少し年上の男という事だけ。
ぼうっとディランの事を思い出しながら、エレノアは静かに自室の窓から庭を見下ろす。
本当に、呪いを解いてくれるならそれで良いとしか思っていなかったのだろう。ほんの少ししか彼の事を知らないというのに、それで良いと思っていたし、知る必要なんてない。知りたいとも思わなかった。
魔女は言った。愛してもらう為には、自分も相手の事を愛する必要があると。
愛するという事がどういう事なのかは分からない。分からないが、愛するに至る前に彼の事をあまりにも知らない事に気付いた。
恐らくディランも同じだろう。妹の友人で先生仲間の、伯爵家の令嬢。かつて金糸雀と謳われた、今は歌えないただの小娘。
そこまで考え、エレノアはふと動きを止める。先程まで考え事をしながら、庭のあちこちに視線を向けていたというのに、エレノアの青空を思わせる瞳はただ一点を見つめて動かない。
窓ガラスに映る自分の顔。
たまたまエヴァンズ家という家に生まれただけの幸運な子供。養われ慈しまれ大事に育てられたが、エレノア自身に何か価値があるだろうか。
妻として迎え入れれば、エヴァンズ伯爵家と繋がりが持てるだろう。それは貴族として生まれたからには逃れる事の出来ない役目だ。
だが、それはあくまで「エヴァンズ伯爵家の令嬢」「貴族令嬢」という価値であって、エレノア自身の価値ではない。
これまでのエレノアの十七年間の人生で、エレノア自身を褒められたのは声だけだ。容姿もそれなりに褒められたように思うが、声だけは自信を持って自慢できる唯一のものだった。
その声さえも失っている自分に、果たして価値はあるのだろうか。
愛してもらえるだけの価値が、今の自分にどれだけあるだろう。
何度も窓に映る自分が瞬きをした。無言でじっと窓を見ているようにしか見えないだろうが、頭の中では自問自答を繰り返す。
愛するとは、愛されるとは。
分からない。
愛してほしい、呪いを解いてほしい。その為にはどうすれば。
分からない。
愛される程の価値が、自分にあるのだろうか。
無い。
ずきずきと胸の奥が痛むような気がした。ぐっと自分の胸を押さえつけてみても、一度落ち込んでしまった気分はなかなか浮上してくれない。
まるであの日の、真っ暗な海に静かに沈んで行くようだ。
あの日は助けてくれる、寄り添ってくれる人が居た。だが今はいない。一人で自分の体を丸め、じっと痛みに耐えるだけ。
細く浅い呼吸を繰り返し、今はこれ以上考えたくないと目を閉じた。
ライアンが居てくれたら、きっと馬鹿な事を考えるんじゃないと笑ってくれるだろうか。それとも、一緒に悩んでくれるだろうか。
ああ駄目だ、またライアンに縋ろうとしている。彼を縛り付けてはいけない、彼はただの幼馴染で、いつかは離れて生きていくのだから。
いつまでも子供ではいられない。いつまでも頼っていてはいけない。いつまでも甘えてはいけない。
でも、一緒にいてほしい。心の内を全て曝け出したら、彼はどれだけ受け止めてくれるだろう。
「なあに、今にも死にそうな顔をして」
びくりとエレノアの肩が揺れた。
ゆるゆると頭を上げれば、いつも通りの嫌な笑みを浮かべる魔女がエレノアの向かいに座っていた。
また魔法で入り込んだのだろう。嫌そうな顔を魔女に向け、エレノアはふいと視線を逸らした。
「風邪でも引いたんじゃないかと思って、お薬作ってあげたんだけれど…必要なさそうね」
にっこりと微笑みながら、魔女は小さな小瓶をエレノアに向かって見せる。
透明な液体がゆらゆらと揺れるそれは、風邪薬だと言われても飲む気にはなれないだろう。忌まわしい呪いを解く薬だと言うのなら、迷わずに飲むだろうが。
「お隣の坊やは暫く出張かしら?時間が無いっていうのに、随分悠長じゃない」
「…ライアンは関係無いでしょう」
「まあ、貴女がそう言うならそれでも良いけれど…期限まであと八ヶ月くらいかしら?それまでに男爵家の坊ちゃまが呪いを解いてくれると良いけれど」
にこにこと笑っている魔女の顔が不愉快だ。眉間に皺を寄せ、エレノアはぐっと唇を引き結ぶ。
いつもこうだ。呪った本人のくせにいつもエレノアの前に突然現れては満足するまで揶揄って消えてしまう。
呪いを解こうと動き始めればやいやいと横やりを入れてくるし、何がしたいのか分からなかった。
「そんな顔をしても、怖くも何ともないわよお嬢ちゃん」
つんとエレノアの眉間を突き、魔女は穏やかに微笑む。
眉間を突いた指をテーブルに向けると、今度はくるくると円を描いた。煙と共に現れるティーセットに視線を向ければ、エレノアの前にもゆらゆらと湯気を上げるカップが現れた。
「毒なんか入ってないわ。勿論呪いを解く薬もね」
そんなもの存在しないもの。
にんまり笑いながらそう続ける魔女は、自分の前に置かれたカップを手に取ると、優雅にゆったりと傾ける。
美味しそうにこくりと喉を鳴らして飲み下すと、今度は赤く彩られた唇に指先を当てた。
「良い事を教えてあげようかと思って」
そう言うと、魔女は指先をエレノアに向け、ふっと息を吐く。
ふわりと現れた煙は、小さく真っ黒な人形のような形となってテーブルの上に立つ。
一人は髪の毛なのか、細く流れる煙が動きに合わせて揺れる者。もう一人は短い髪を表しているのか、片方よりも短い煙がゆらゆらと揺らめいていた。
「昔話よ。ある魔女が魔力も持たないただの男に恋をした。でも魔女って存在はあまり歓迎されないじゃない?いくら慈愛の魔女なんて親しまれていても、結局は悪魔に魂を売っているんだもの」
マリオネットでも操るように、魔女はくるくると指を回しながら語り出す。
指の動きに合わせて動き出した二人の小さな影は、まるで御伽噺を再現している演者のように見えた。
「だから魔女は、自分が魔女だという事を隠したわ。でも、心の底から愛してしまった男に魔女である事を隠しておけなくなった。罪悪感ってやつね」
男の影に縋りつく女の影。男の影はそれを優しく抱きしめるような動きをした。
正直真っ黒で何が何やらよく分からないが、エレノアはじっと黙ってその影たちを見つめ続ける。
「魔女だとしても良い、君自身を愛しているんだ。男はそう言ったわ。でもね、やっぱり口だけなら何とでも言えるのよ」
パチンと魔女が指を鳴らす。
二人分の影のすぐ傍に、もう一人女らしい影が現れたのだ。
男はゆっくりと抱きしめていた最初の女から離れると、現れたばかりの女に体を寄せた。
「魔女と愛し合うなんて罪深い。だけれど手放すには惜しい。利用価値はあるからね」
二番目に現れた女を抱きしめながらも、男の影はゆっくりと最初に現れた女の影に手を伸ばすような動きをしてみせた。
それを受け入れない女に、男は動かない。
「だから呪ってやったの。お前も、お前の子も孫すらも呪われてしまえってね」
そうにっこりと笑って言う魔女が、パンと音を鳴らしながら手を叩く。一瞬で消え冴える煙たちを見つめながら、エレノアは微かにすら動けなかった。
「愛してくれていると思ったから、誰にも言わなかった秘密を打ち明けた。けれど受け入れられないどころか、利用するだけしようとされた。だから私は愛なんて存在を信じない」
冷たく言ってのける魔女の真っ黒な瞳が恐ろしい。
これから呪いを解かなければならないのに、その条件が愛される事だというのに、希望を与えてくれるどころか絶望を与えてくれたこの魔女に、どう礼を言えば良いのだろう。
「ああでも、貴女の呪いはきちんと解けると思うわよ。相手さえ見極めればね」
「どうすれば、見極められるの?」
「簡単よ。魔女と同じようにすれば良いわ」
こくりと喉が鳴った。
魔女の秘密は自分が魔女である事。エレノアの秘密は呪いによって酷いダミ声になった事。秘密を受け入れ、それでも愛してくれる相手ならば呪いは解かれるかもしれない。
「何故、わざわざそれを私に教えてくれるのかしら」
「反省してるって言ったでしょう?私は魔女だけれど、貴女の声嫌いじゃないもの」
「じゃあ何故呪ったのよ!」
「だから…二日酔いで頭が痛かったのよ!貴女も経験してみたら分かるわ」
もごもごと口ごもりながら言う魔女に、エレノアは怒りに満ちた視線を向ける。
お前が呪ったりしなければ、こんな声にはならなかったのに。いくら反省しているとしても、反省していて助言をしに来てくれているとしても、到底許す気にはなれなかった。
「反省していると言うのなら、誰なら呪いを解いてくれるのか教えてよ」
「それは駄目よ。魔女は呪う事は出来ても、呪いを解く事は出来ないんだもの」
「教えるだけなら出来るでしょう?」
「謎解きの答えを教えてしまうなんて、そんな面白みのない事しないわ」
そう言うと、魔女はまたいつものようにひらひらと手を振って消えて行く。
目の前に広がっていたティーセットたちも一緒に消えていくのが、何だか少しだけ勿体ないような気がした。
「ああそうだ、価値だのなんだの考えるだけ無駄よ。価値なんて自分が与えるんじゃなくて、誰かが見つけるものだもの」
耳元で聞こえた声に振り向くが、そこには誰も居ない。
一人きりに戻った自室は、何だか少し寂しかった。
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