第15話「迷い」
塞ぎ込んで数日。父はさっさとライアンに用事を言いつけ、暫く会わなくて済むようにしてくれた。
教会の天井に描かれた絵を修復する絵師を探しに王都に行けと言いつけられたライアンは、出発する朝にもエレノアに会いに来たらしい。
絶対に行かない、送り出す為に顔を出すなんて事しないと頑なに首を振ってからもう一週間。ぼんやりと教会の天井を眺めながら、エレノアはライアンは今頃何処にいるかを考える。
体を突き刺すようなあの冷たい海水の温度が、ふと蘇ったような気がする。両腕を摩り、きゅっと引き結んだ唇は、相変わらず何も言葉を発さない。
「お姉ちゃん寒いの?」
心配そうな顔をした子供たちがエレノアの顔を覗き込むが、エレノアはゆったりと笑顔を作って小さく首を横に振った。
「お身体の具合が宜しくないのでは?」
子供たちに囲まれたディランも、同じようにエレノアの顔を心配そうに見つめる。
寒くないともう一度首を横に振ると、エレノアはいつものペンを握り、サラサラと紙の上に走らせた。
『何でもない』
にっこりと微笑んでみせても、誰も納得しない。普段もっと朗らかに笑う筈のエレノアが、何か悩んでいるような儚げな笑みを浮かべているのだから、まだ幼い子供でさえもその違和感に気付いているらしかった。
「…少し外に出ましょうか。ずっと建物の中では気が滅入るでしょうから」
優しく微笑んだディランが、そっとエレノアに手を差し出す。
その手を取るべきなのか、大丈夫だと断るべきなのか分からない。じっとその手を見つめ動かないエレノアに、ディランは困ったような笑みを浮かべた。
「…気が進みませんか」
そういうわけではない。
ただ、父の言葉が頭の中をぐるぐると回っているのだ。
目の前で優しく微笑みながら手を差し出してくれている男を、自分は「呪いを解く」という目的の為だけに利用しようとしている。
優しいシャーロットの兄を。友人の兄を利用しようとしているのだ。
役目が終わったら退場してもらう存在だという事を忘れてはならない。父のその言葉が、耳にこびり付いて離れなかった。
「今日の勉強はここまでにしましょう。子供たちが心配しますから」
その言葉に、エレノアははっとした顔で子供たちを見回す。
普段あまり表情を出さないウォーレンさえも、僅かに眉尻を下げてエレノアを見つめていた。
心配させたいわけではない。いつでも優しいお姉さんとして歓迎されたいのだ。
幼い子供たちに気を使わせるのは本意ではないし、ここは素直にディランの言う通りにした方が良さそうだと判断した。
『ごめんね、また今度』
いつも通り書かれた文字を子供たちに見せる。簡単な文章なら読めるようになった数人がこくりと頷き、「早く元気になってね」とエレノアを気遣ってくれた。
比較的年上の子供たちが、年下の子供たちを連れて教会の奥へと戻って行く。恐らくこれからシスターたちの手伝いをしに行くのだろう。
「ではエヴァンズ嬢、お送りしましょう」
今度こそこの手を取ってくれと、ディランはもう一度微笑みながら手を差し出し直す。
そっとその手を取り、座っていたベンチから立ち上がると、ディランは当たり前のようにエレノアの腰を抱いた。
少々距離が近くはないだろうか。
ぎしりと僅かに体が強張るが、ディランはそれを気にしないらしい。行きましょうと微笑みながら教会の扉を潜ると、そのままエヴァンズ家の方向へと歩き出す。
「お答えいただけなくとも構わないので、今日も私が一方的にお話して構いませんか?」
歩きながら文字を綴るのが難しいという事に配慮してくれているのだろう。エレノアがこくりと頷くのを見届けると、ディランはゆったりとした声色で話し始めた。
「シャーリー…いえ、妹が、エヴァンズ嬢とまたお茶をしたいと言っていました。先日一緒に観劇をしたと話したら、羨ましいと大層ご立腹でして」
仲の良い兄妹なのだろう。楽しそうに笑うディランの顔は穏やかだ。
一緒に見に行った劇の原作小説を今読んでいるところだとか、読み終えたらエレノアをお茶に誘って感想を話したいだとか、色々考えては楽しそうにしているらしい。
「そういえば…妹の縁談が決まったのです。もしこのまま話が進んだら、結婚式には是非エヴァンズ嬢にも来ていただきたいと妹が…」
そこまで話すと、ディランはふと口を閉ざした。暫く考えているような顔をしていたが、じっと見つめているエレノアの顔をちらりと見ると、小さな咳払いをしてディランは再び口を開いた。
「失礼ながら…エヴァンズ嬢はまだご婚約されないのでしょうか?」
何て失礼な事を聞くのだろう。
ぱちくりと目を瞬かせ、どう返事をすべきか分からず視線をうろつかせるエレノアに、ディランは慌てたように両手をぶんぶんと振った。
「申し訳ない、失言でした」
気にするなと首を横に振ると、エレノアはせめて一言だけでも返事をしようといつものポシェットを漁った。
取り出したメモにペンを走らせ、書き上げた文をディランに見せる。
『良いご縁があれば』
「良いご縁…ですか」
その縁はエレノアが見つけるものではない。父が見つけるものだ。結婚というものは、基本的に親が決めた相手とするものであって、平民ならまだしも貴族ならば親の決めた結婚は絶対だ。
未婚の貴族が若気の至りで恋人ごっこをする事はあっても、最後まで結ばれる事は滅多にない。
神の教えにより婚前交渉など絶対にあってはならない事だし、それが知られれば家を追い出され自分一人で生きて行かなければならない。結ばれた筈の相手とも引き離され、二度と会えないように物理的な距離をもって引き離される。
だから恋人同士であっても、清らかな交際をするしかない。それが前提だからこそ、貴族の子供たちの「恋人ごっこ」は若いうちのひそやかなお楽しみとして黙認されていた。
「ライアン・ブルックスとは、恋人ではないのですよね?」
またそういう質問をされるのか。先日も同じ質問をしたではないか。げんなりと嫌そうな顔をして、エレノアはふるふると首を横に振る。
「ただの幼馴染、という事で宜しいのですよね?」
そうだ、何度も聞くな。
こくりと頷くエレノアを見て、ディランはほっと息を吐く。安心したような顔をする意味が分からないが、今は大して言葉を綴る事が出来ない。
先程書いた文も、歩きながら書いたせいで乱れていた。
これ以上何か会話をするのなら、もっとゆっくり出来る場所で座って話すしかない。
「お心を寄せる方は…いらっしゃいませんか」
何が言いたいのだろうと、エレノアは小さく首を傾げる。
心を寄せる相手、恋情を抱く相手はいない…と思う。その質問をしてくるという事は着々と目的が果たされようとしているのだろうか。
ほんの少し期待をした。
もしもこの男が自分を愛してくれたなら、呪いが解けるまであと少し。だが、そういった感情があまり理解出来ていないエレノアでさえ、好きと愛が違う事は何となく分かる。
今の段階であまりぐいぐいと迫るのは悪手だろう。曖昧に微笑みながら、エレノアはそっとディランの顔を見上げた。
「すみません…何だか可笑しな事を聞きました」
恥ずかしそうに頬を染めるディランが、もう一度小さく咳払いをした。
視線を外そうとしているのか、暫く歩く先を真直ぐに見ているのに、いつの間にかちらちらとエレノアを見ている。それに気付いていて、エレノアはあえて何も言わず、ただ真直ぐ前だけを見た。
嫌な女になった気分だ。
元々呪いを解いてもらう為だけに近付いているのだから今更だろうが、素直に好きになれていたらもう少しこの感情は明るいものであっただろう。
「ああ、もう着きますね」
教会からエヴァンズ家まではそう離れていない。少し離れた場所に見える大きな屋敷が二棟。一つはエヴァンズ家、もう一つはブルックス家だ。
迷わずエヴァンズ家の表門に歩いて行くディランだったが、何故だか少々引き攣った顔をしているように見えた。
そう固くならずとも、普通の家だと思う。少々家格は立派だが、それはあくまで伯父である伯爵が凄いのであって、エレノアはたまたまこの家に生まれただけの幸運な子供でしかない。
それが通用しない言い分だという事は理解しているけれど。
「…やはり、立派なお屋敷ですね」
男爵家の跡取りであるディランも、所謂お屋敷とやらに住んでいる筈だろう。
正直目的の為に近付いただけのディランの事をあまり知らないが、バーンズ家がどういう屋敷で、どういう家なのかもあまり知らない。
勉強するのなら、もっと貴族の事情から学んでおくべきだっただろうか。
感心したような溜息を吐き、じっとエヴァンズ邸を眺めるディランの服を、エレノアはちょいちょいと引っ張る。
「何ですか」と微笑むディランの手をそっと引き、エレノアは慣れた手付きで門を開いた。
「え?エヴァンズ嬢…あの、ちょっと!」
ぐいぐいと無理に引っ張り、困惑するディランの言葉を無視して進み続ける。
玄関の扉を開いて待っている執事が、初めて見る客人に少々驚いた様子だったが、帰宅したとひらりと手を振るエレノアに、恭しく頭を下げた。
「おかえりなさいませ、お嬢様。お客様をお連れになられたのですね」
ただいま。
ひらひらと手を振ってにんまりと笑うエレノアだったが、執事はちらりとディランに視線を向ける。
無言だが、じろじろとディランを観察するその目は警戒しているように思えた。
先日一緒に観劇に行った際も会っている筈なのに、そう改めて警戒するように観察する事も無い筈だ。
「教会でエヴァンズ嬢と共に子供たちに文字を教えている。体調が優れないご様子だったのでお送りした」
何故この家の令嬢と共に戻ってきたのか訝しまれている事を察したのだろう。
一緒に屋敷に来た理由を手早く説明すると、ディランはそっとエレノアの背中を押して屋敷の中に押し込んだ。
「それはそれは…ありがとう存じます」
「確かに送り届けた。それではエヴァンズ嬢、早くお元気になりますように」
神に祈ってきますね。
そう続けたディランは、そっと会釈をして踵を返す。
振り返る事もせず、さっさと去って行くディランをどう引き留めよう。いや、引き留めるべきなのだろうか。引き留めてどうする?
どうすれば良いのか分からないが、迷っている間にディランの背中はどんどん遠ざかって小さくなっていく。
「お嬢様、お加減が優れないのでしたら、少しお休みになりましょう。温かいミルクでもお持ちします」
優しく微笑む執事が、そっと扉を閉じた。
追いかければ良かっただろうか。もう少し話がしたいと我儘を綴ったら、彼はそれを受け入れてくれただろうか。
—役目を終えたら退場していただく相手だと忘れないように。
父の言葉がまた耳に蘇る。
呪いを解いてもらったら、すぐにさよならする相手だと忘れてはならない。それを気取られてはならない。
—愛されるという事は、貴女も相手を愛さなければならない。
魔女の言葉が耳に蘇る。
愛とは何だ、愛されるとは何だ。そもそも心の底から愛してくれる男にキスをされなければ解けない呪いとは何だ。
人の心なんて分かりっこないのに。
他人なのだから、何を思い、何を考えているのか分かる筈も無いのだ。だからこそ、目的の為にディランに近付いているのだけれど。
「サンルームに行かれますか?それとも自室に?」
何処にミルクを運べば良いか、執事が問う。人差し指を天井に向けたエレノアに、執事は「畏まりました」と頭を下げた。
その返事に満足したエレノアは、慣れた足取りで自室へと歩いて行った。
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