第14話「拒絶」

ずぶ濡れになった体を温め、新しい寝間着に着替えたエレノアは、ふかふかのベッドに体を横たえていた。


娘が屋敷から抜け出していたと叩き起こされた両親にすら顔を見せず、ただひたすら、横になったまま部屋の隅でぱちぱちと音を立てる石炭と炎を眺めた。


何を考えていたのだろう。ライアンに聞かれたくなかった声を聞かれ、気が動転していたにしても自ら死を望むだなんて。

これまでの人生を、比較的真面目な信徒として生きてきた自分が、まさか最大の罪を犯そうとするだなんて。


ぎゅっと目を閉じ、エレノアはライアンに掴まれた腕を摩った。

まだ掴まれた時の感覚が残っているような気がした。

抱きすくめられた時、深い絶望感と共に感じたのは安心感というやつだった。

彼の腕の中に収まっているというのが、冷たい海水とは違う優しい温もりが、沈み込んだ心をふわりと浮き上がらせてくれたような気がした。


それと同時に襲ってくる絶望。

聞かれたくなかった、いつまでも美しい声だった記憶と共にありたかったのに、その願いは愚かな己の不注意で砕け散った。


もしも自分が魔法を使えたなら、きっとライアンの記憶を消そうとするだろう。そんな魔法があるのかは知らないが、少なくとも今よりは希望が持てたかもしれない。


—コンコン


控えめに繰り返されるノックに、エレノアはそっと目を開く。

だが、いつもの返事代わりのベルに手を伸ばす事は無い。今は誰にも会いたくないのだ。


「お嬢様、ソフィーです」


ノックの音と共に聞こえてくる、少々姦しいメイドの声。

普段よりも声のトーンは抑えられているが、一人にしてくれというささやかな願いすらかなえてくれない彼女の世話好きな性格が、今はとても恨めしい。


「ライアン様がいらっしゃいました。とても心配されておりますよ」


ぎくりと体が強張る。鍵は掛けているが、きっとライアンならば体当たりでもしてドアを破壊しかねない。それとも、庭師小屋から何か道具を持ち出してくるだろうか。

流石にうら若き乙女の部屋に押し入るような事は無いだろうが、たった一言零した「来ないで」という言葉で引き下がってくれるような幼馴染でない事は知っていた。


「旦那様が、今は一人にと仰って、お帰りいただきました。朝になったらまた来ると仰せですが」


帰ってくれたという言葉に安堵したが、あと数時間もすれば朝陽が登るだろう。そうなれば、ライアンは寝不足顔を無理にでも綻ばせながら、おはようなんて片手を上げながら現れる。


どんな顔をして会えと言うのだろう。

魔女に呪われ、声を奪われたという話はした。二年もの間一言だってライアンの前で声を出した事は無い。恐らく発声そのものが出来ないと思われていたことだろう。


話す事は出来る。ただその声が酷く耳障りというだけ。


ずっと心配してくれていた。塞ぎ込んでいる幼馴染の為に、ペンと紙を差し出して笑うような男に、優しい彼にずっと隠していたのだ。


口を閉ざし、新たな自分の声となった文字を突き付け、離れようとしないライアンという男の存在に甘えていた。


ライアンは優しい。裕福な画商の息子で年頃を考えれば妻となる相手を探さなければならない。社交界からは遠のいているが、ライアンが何故いつまでも婚約者が見つからないのかはエレノアも知っていた。


自分がいるからだ。

ライアンと結婚すれば、必ず妻よりも歌えぬ金糸雀を優先されると噂されているから。


裕福だろうが、ライアンという男が優しく物腰柔らかい人物だろうが、歌えない金糸雀という存在がとても重たく、邪魔な荷物になっている。


それを知っているくせに、いつまでも甘えていたのはエレノア自身である。

子供の頃から一緒にいたのだから、これからも一緒にいられるものだと思っていた。だがもう子供ではない。いつかエレノアはどこかに嫁いでいくし、ライアンだって妻を迎えて共に歩んで行くだろう。


離れ離れになっても、その時呪いが解けておらずとも、記憶の中ではいつまでも美しい金糸雀でいたかった。


小さく声を漏らして泣き出したエレノアを知ってか知らずか、扉の向こうのソフィーはまた小さく言葉を続けた。


「もしも、暫くライアン様とお会いになりたくないのなら、ベルを鳴らしてくださいませ。きっとライアン様を追い返しますから」


普段ならば会いたくないなんて思わない。一緒に過ごす時間は楽しいし、仕事で暫く不在にした後のライアンから渡されるお土産はどれも嬉しかった。


笑ってくれた時のあの顔と、砂浜で見た困惑した顔が交互に思い浮かんだ。


「…畏まりました」


チリチリと鳴らされたベルの音に、ソフィーはしっかりとした声で返事をして、おやすみなさいと声を掛けて扉の前から離れていったらしい。


鳴らしたばかりのベルを遠くに投げつけて、エレノアは枕に顔を埋めた。

もう二度と、誰かに声を聞かせないように。柔らかい枕は、僅かに漏れる声をしっかりと受け止めてくれた。


◆◆◆


泣き腫らした目を冷やす娘に、両親は互いに顔を見合わせる。

朝から玄関の扉を叩いたライアンは既に父が追い返したが、騒ぎに気付いていて顔を出しにも来なかったエレノアに、両親は「何があったんだ」と問う。


『声を聞かれました』


普段両親には声を発して話していたのに、今日のエレノアは頑なに口を開こうとしなかった。

さらさらと走らせるペンを目で追いながら、母親は困ったように片手を頬に持っていった。


「真夜中に海で?二人ともそんな時間に何をしていたの?」

『歌っていました。もうしません』


暗く沈んだ顔のまま、エレノアは淡々と文字を綴る。

不用意に口を開くからあんな事になったのだ。それならば、誰が相手でも、一人きりだとしても口を開かなければ良い。


「ライアンと一緒に?」


父の問いにふるふると首を横に振り、エレノアは「事故」とだけ綴った。


本当に不幸な事故だった。

両親曰く、ライアンは眠れないからと散歩をしていたらしい。微かに聞こえた叫び声が気になり、どこかの老人が真夜中の散歩をしているのだろうと見に来たらしかった。


老人だと思ったのは、エレノアのしゃがれた声のせいだろう。老人と間違えるなんて酷いと小さく口元を緩ませるが、それ程かつての自分の声とかけ離れていると思うと悲しくなった。


伸びやかに響く祝福の歌。それを歌っていたかつてのソプラノの声が恋しい。

もう一度あの声に戻れたら、その時はどうしよう。ライアンに会おうと思えるだろうか。


「ライアン、心配していたわよ。顔くらい見せておやりなさい」

『嫌』

「じゃあいつなら会おうと思えるんだい?」


父のその問いに、エレノアは少しだけ考える。

そしてさらさらとペンを走らせ、諦めたような笑みを浮かべた。


『金糸雀に戻れたら』


戻れないかもしれない。二度と歌えないかもしれない。

声を取り戻すためにディラン・バーンズに近付いてはいるが、彼が呪いを解いてくれる王子様である確証など欠片も無いのだ。


縋るしかない。愛してもらえるように努力するしかない。もう残り少ない時間で、ディラン以外の男に愛を求める事など出来ないのだから。


「最近バーンズ家の息子と仲が良いようだが」


少しだけ低くなった父の声に、エレノアの肩が揺れた。

呪いを解くためとはいえ、年頃の令嬢である娘が軽々しく異性と距離を縮める事を良しとしないのだろう。


叱られる事を覚悟したが、父は叱りつける気はなかったらしい。

そっと娘の背中を摩りながら、静かに語るだけだった。


「何か考えがあっての事だとは察しがつく。だが、彼とどうなろうが、私はバーンズ家に娘を嫁がせる気は無い」


何故と小首を傾げるエレノアに、父はゆったりと目を細めた。

声を奪われようが、娘はいつだって可愛らしく愛おしい。だからこそ、バーンズ家に娘を嫁がせる事は出来ないのだ。


「領地経営も出来ん貧しい男爵家に、喜んで娘を差し出す父親がいると思うか?」


ぱちくりと目を瞬かせ、エレノアはきゅっと唇を引き結ぶ。

領地経営も出来ない貧しい男爵家。それがバーンズ家なのか。呪いを解くという目的の為にディランに近付いていたが、嫁ぐことまで考えていなかったエレノアは、バーンズ家がどういう家なのかをきちんと知らなかった。


父曰く、表向きはそれ程生活に困窮している様子はないという。だが、着ている服や年頃の娘がいるというのにお茶会やらパーティーを開こうともしない。

娘を出来るだけ裕福な家に嫁がせようと躍起になっているようだが、有力貴族には相手にもされず、ブルジョア階級であっても娘本人よりも親の方が年齢が近いような相手しか見つからないらしい。


流石に「若ければいい」という男に娘を差し出す事はしないようだが、最近は息子と良い仲になりつつあるエレノアに標的を絞ったと噂が流れ始めているらしい。


「呪いを解くには心から愛してくれる男からキスをされなければならない。その相手をディラン・バーンズにやらせるつもりなのだろう?」

『いけない?』

「仮に彼が心からエリーを愛しても、決して妻に望む事は出来ない。エリーが彼を愛しても、私は絶対に許さないよ」


じっと見つめる父の顔は、とても冷たかった。呪いを解くために利用するだけにしなさい。決して溺れるな、彼に価値は無い、許さない。

そう言っている父の視線が痛かった。


「役目を終えたら退場していただく相手だと忘れないように」


冷たい父の言葉に、エレノアはペンを握った手をぴくりと揺らす。

父は優しいが優しいだけではない。身内であろうが切り捨てる時は切り捨てるし、価値が無いと判断したものには目もくれない。


大きな会社を経営している男なのだから、それくらい冷たくなければやっていけない事はなんとなく分かる。


だが、理解していて目を逸らしていた「ディランという男を利用している」という現実を突き付けられた気分だった。

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