第13話「最悪」
真夜中、月が高く上った頃。エレノアは何となく眠れず、そっと屋敷を抜け出していた。
屋敷の裏手はすぐに海。誰もいないだろうと、エレノアはぼうっと真っ暗な海を眺めて立ち尽くしていた。
耳に届くのは、寄せては返す波の音だけ。真夜中の真っ暗な海は、どこか吸い込まれそうな雰囲気があった。
誰も居ない、この世に自分一人だけになったような気がした。
砂浜と海の境目が分からない。真直ぐに足を進めたら、きっと静かに海の底へ沈んでいけるだろう。
それを望んだ事もあった。それをしなかったのは、幼い頃から「自死は最大の罪」と刷り込まれてきたから。
一人だけ楽になっても、遺された家族を悲しませ、苦しめる事になるから。それは駄目だ、やってはいけないと諦めたからだった。
だが、もしもこのまま呪いが解けなかったら。その時はどうなるか分からない。その時は今度こそ、何もかも嫌になって自分から海に沈んでいくかもしれない。
—父よ、愛する父よ。我らの罪を赦したまえ
—父よ、我らの父よ。天から我らを見守りたまえ
見守ってくれているのなら、何故あの日魔女に呪われようとしている自分を守ってくれなかったのだろう。
神に歌を捧げる乙女に守護を与えてくださらなかったのだろう。
神に何かをしてもらおうと望む方が間違っているのかもしれないが、それでも「何故」という言葉が頭を離れてくれなかった。
「…父よ、愛する父よ」
大きく息を吸い込み、誰も居ないのを良い事に以前と同じように声を出す。
よく伸びるソプラノの声だった筈のエレノアの声は、殆ど伸びない掠れたしゃがれ声。
どう頑張っても、以前は難なく出せていた高音が出ない。無理に出そうとすれば咳き込み、それならばとキーを下げても掠れてしまう。
歌えない。大好きな歌が歌えない。何度も試して分かっているつもりだった。試す度に惨めな思いをするのに、落ち込み涙が止まらなくなるのに、それでもエレノアは歌う事を諦められなかった。
「何故!何故私なのですか!」
耐えられなかった。呪いを解こうとディランに近付いてみても、呪いが解けるという確証がない。
残された時間はもう一年も無い。十八歳の誕生日になれば、その後の自分の人生が決まる。
認めたくない、諦めたくない。
どうして私なの。
「主よ、何故私にこのような試練をお与えになられたのですか」
酷いじゃないか。毎週きちんと礼拝にも参加し、そうでなくとも教会に足を運び、神を愛する歌を捧げ、教えを守って生きてきたつもりだ。
どうしてもっと不真面目な、他の者ではなく自分が呪われなければならなかったのだろう。
どれだけ泣いても、大声で神に文句を叫んだとしても、今この場にいるのは自分だけ。
人々が寝静まる時間帯だろうがどうだって良かった。波の音がこの忌まわしい声を掻き消してくれるだろうから。
「私が何をしたと言うのですか!」
「エリー…?」
神などいない。そう叫びたかった。そう叫びたくなる程、エレノアは絶望したのだ。
聞かれた。絶対に、一番聞かれたくない人間にこの声を聞かれたのだから。
のろのろと振り返るエレノアの顔は真っ青だ。涙に濡れた頬、見開いた目。海風に吹かれていたエレノアの髪は乱れ、ただでさえあまり人に見られたくない姿をしていた。
「何してるんだこんな時間に…」
ゆっくりと歩いてくるライアンに、エレノアは砂を投げつけて叫んだ。
「来ないでよ!」
「あんまりそっち行くな、濡れるから」
落ち着けと腕を広げながら歩み寄ってくるライアンは、どうすれば良いのか分かっていないらしい。その目は酷く狼狽え、視線があちこちに泳いでいた。
聞かれた。もう彼の記憶に残る自分の声は、金糸雀と謳われたあの声ではなくなってしまった。
どうしてこんな時間にこんな場所にいるのだろう。自分が言えたことでは無いが、ブルックス邸からも近いこの場所に、ライアンが来る事はそう不自然な事ではない。時間帯を考えなければ、の話だが、
「何でいるのよ」
弱弱しく漏らされた声。掠れたその声が聞きとれなかったのか、ライアンは「何?」と小首を傾げながら近付いてくる。
彼にだけは聞かれたくなかった。それなのに、神への文句を叫んでいたから、その罰を与えられたのだろうか。
いくらなんでも酷いじゃないか。ちょっとくらい文句を言っても許されて良いじゃないか。少しも文句を言わず、ただ与えられた試練に立ち向かえとでも言うのだろうか。
神とはなんて残酷なのだろう。
「エリー!」
呪われてからずっと守り抜いて来た意地。ライアンにだけは、この声を聞かせないという意地はもう必要なくなった。
最後の心の拠り所だった。彼の記憶に残る金糸雀の声。それが消えてしまった今、大好きな従姉の為に歌うという目標だけで立っていられる程、エレノアは強くいられなかったのだ。
ゆっくりと歩み寄るライアンから逃げるように、エレノアは砂を蹴った。
もう嫌だ。何もかも嫌になった。この体を冷たく刺してくれるであろう海を目指し、エレノアは走る。
ざぶざぶと音を立て、いつの間にか靴の脱げた裸足の足が海水に濡れた。
膝、腿、腰が冷たく冷える。動きが重くなり、自分がどんどん沖を目指している事を改めて教えてくれているような気がする。
「何してる!落ち着け!」
「離して!」
「エリー!」
掴まれた腕をどれだけ振り回そうが、しっかりとエレノアの腕を握りしめるライアンの手は離れない。
それどころか引き寄せられ、ライアンの腕の中に閉じ込められて動くこともままならないのだ。
二人揃ってぐっしょりと濡れ、波に攫われぬよう足を踏ん張るライアンは、これ以上沖を目指さぬ様にとエレノアをしっかりと捕まえる。
「離して…お願いだから一人にしてよ!」
じたばたと暴れるが、がっしりと筋肉質なライアンには敵わない。
暴れるエレノアの手が何度も顔に当たっても、ライアンは怯む事なくエレノアを陸に向かって引き摺って行った。
「エリー、大丈夫だから落ち着こう。話をしよう」
嫌だと抵抗するように、エレノアはまた沖の方へ体を捩る。
体勢を崩し、海の中に二人共倒れ込んだ。
冷たい。口から洩れた空気が、ごぼりと泡となって海面へと上っていく。
苦しい。寒い。目を開ける事も出来ず、着ていた裾の長い寝間着が水の流れに舞い上がり、脚に絡んだ。
胸の辺りが苦しくなった。むしろ少し痛む。立たされたのだと理解するまでに少し時間がかかったが、二人分の咳き込む声にゆっくりと頭が冷静さを取り戻していった。
「無事か」
げほげほと咳き込みながら問うライアンに、エレノアも咳き込みながらこくこくと頷く。
何をしているのだろう。自分を自分で殺すのは最大の罪。遺された家族を巻き込む事を分かっている筈なのに、それを忘れて何も考えずに全てを終わらせようとした。
今度こそと黙ってエレノアの腕を引くライアンに従いながら、エレノアは黙って足を動かした。
◆◆◆
頭の先から足の先までぐっしょりと濡れた二人は、互いに無言のままエヴァンズ邸へと歩いて行った。
エレノアが抜け出していた事に気付いていなかったのか、真夜中の非常識な来客に迷惑そうな顔をしていた執事は、ずぶ濡れになっているエレノアに言葉を失った。
急いで風呂の支度をするよう言いつけると、執事はライアンに深々と頭を下げる。
何があったのか分からなくとも、真夜中にずぶ濡れになったこの家の令嬢を親切にも連れて帰って来てくれたのだ。
「風呂と着替えを済ませたら、また来るよ」
「来ないで」
それだけ零すと、エレノアはライアンを振り返る事もせず、叩き起こされたらしいソフィーに連れられて屋敷の奥へと消えていく。
どうせ来るなと言っても来るのがライアンだ。どうやって逃げよう。もう眠っているとでも言ってもらおうか。いや、どうせ朝になったら逃げる前に押しかけてくるに違いない。
「お嬢様…お声が…」
自分の家に帰ろうと背中を向けるライアンと、一度自室に戻ろうとするエレノアを交互に見比べながら、ソフィーは小さく声を漏らす。
頑なにライアンに声を聞かせなかったエレノアが、たった一言「来ないで」と言ったのだ。呪われたままの、酷くしゃがれた声で。
家族や限られた使用人の前でしか出さずにいた声を、ライアンの前で出した。
何があってそうなったのか、びしょ濡れで外から戻ってきたのか。色々と聞きたい事はあるのだろうが、ソフィーは黙ってタオルを取りに行く。
今は何も考えたくない。
感情がぐちゃぐちゃとして落ち着かないのだ。一人きりだと思っていた。真夜中の海になんて誰も来ないと思っていた。だから油断して声を出していたのだが、そんな馬鹿な事をしていないで大人しく眠っておけば良かった。
いや違う。
あの日、あの時、あの場所で歌なんて歌わなければ、こんな目に遭わずに済んだのだ。
自室に入り、ずるずるとその場にしゃがみ込む。ぐっしょりと濡れた服が体に張り付いて気持ちが悪い。
長い髪が頬に張り付く。輝く金の髪と美しいソプラノの声をしているから、金糸雀と呼ばれていた。
もしかしたらきっと、もう二度とエヴァンズの金糸雀は戻らないのだろう。
声を奪われた金糸雀は、翼を捥がれたも同然だ。ただゆっくりとこの世の全てに絶望し、ゆっくりと弱って死んでいく。
「何だって言うの…」
ぐずぐずと鼻を鳴らし、とめどなく溢れる涙を堪えるように、ぎゅうと目を閉じた。
困惑するライアンの顔が焼き付いて離れない。絶対に聞かれたくなかった。美しいと愛されたあの声のまま覚えていてほしかった。
もうその願いは叶わないのだろう。こんなに酷い声を聞いてしまっては、きっと記憶に刻み込まれて忘れる事は無いだろう。
呪いが解けたら、その時初めてライアンの前で言葉を話すつもりだった。
始めの一言は何にしよう。ごきげんよう?ライアン?何を言ってもきっと驚いてくれるだろう。喜んでくれるだろう。
沢山話そうと約束した。その約束が嬉しかったのに。
今はどうしても、ライアンに二度と会いたくなかった。
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