第12話「愛とは」

この国において、教会という場所は特別な場所であり、日常に深く根付いている。

街の中には最低でも一堂あり、大きな街ともなればその街の教会全てを纏める大きな教会と、それに連なる小さな教会が幾つかあるのが普通だ。

教会が一堂も無いなんて街は無いし、どれだけ生活が苦しい貧しい村であっても、教会には人が集まる。


人々は皆平等に神の子供であると同時に所有物。だから神の名を汚さぬ様生きろと躾けられるし、何があっても己を己で殺してはいけない、それは最大の罪であると教え込まれる。


エレノアが魔女に声を奪われた時、どれだけ絶望しても自死を選ばなかったのはそういう理由があったのだ。


自死を選べば、亡骸を埋葬する事も許されない。遺された家族も責めを負う。

埋葬を許されないという事は、遺した家族に恥をかかせ、後ろ指を指されて生きる道を遺す事になるのだ。「あの家は、我が子に最悪の罪を犯させた」と。


そういう国であるからこそ、魔法を使う者はこの国では扱いが難しい。

悪魔に魂を売り人ならざる業を手にした者。それが女ならば魔女と呼び、男ならば魔法使いと呼ぶ。

本来は神に背いた存在として忌み嫌われる存在なのだが、その力を民の為に使うのならば、「慈愛の魔女」「賢者」として親しまれている。


要は都合が良いのだ。助けてくれるのならば愛し、そうでないなら拒絶する。人間なんて、どれだけ神の教えを請うても愚かな生き物である。


「どうかしたの?」


ぼうっと考え事をしながら自室の窓から空を眺めていたエレノアの耳に、機嫌良さげな女の声が届く。

げえと嫌そうな顔をして、エレノアは声の主の方へ顔を向けた。


「ごきげんよう、エヴァンズ嬢。何か考え事かしら?それとも恋煩い?」


にやにやと嫌な笑みを浮かべるその女は、相変わらず真っ黒なドレスに身を包んだ魔女だった。


この女も慈愛の魔女と呼ばれ、民から親しまれ愛されていた筈。何故そんな「麗しき魔女様」が二日酔いの八つ当たりでエレノアの声を奪ったのか。

そして、今は災厄の魔女として恐れられているのか。それを知らないエレノアは、トントンと膝を人差し指で叩きながら、無言でじっと魔女の顔を睨みつけた。


「なあによ、可愛くないわね」


むすっと唇を尖らせると、魔女はエレノアの向かい側に椅子を出し腰を掛ける。

確かにそこには何も無かった筈なのに、煙が立ち上ったかと思うと、そこに一脚の椅子が現れていたのだ。

そもそもこの部屋にどうやって入ったのだろう。鍵は掛けていないが、屋敷の二階にあるエレノアの部屋に入るのなら、きちんと一階から上がって来なければ入って来られない。


「魔法って便利でしょう?」


エレノアの不思議そうな顔に気付いたのか、魔女は楽しそうに微笑みながら小首を傾げた。


「最近良い雰囲気になっているみたいだから、話を聞いてみようかと思って」


「来ちゃった」と可愛らしく両手を頬に添え微笑んでみせるのだが、エレノアからすればそれは酷く腹立たしい仕草だった。


「ディラン・バーンズだったかしら?彼にするの?」

「…何がよ」

「呪いを解く王子様よぉ!」


キラキラとした黒目をエレノアに向け、魔女はまるで恋する乙女の秘密の話をするかのような顔をする。

心底嫌そうな顔をするエレノアだったが、魔女はそれを気にする事もない。


「彼って男爵家の跡取り息子でしょう?婚約者もいない二十歳なんて…何か問題があるって考えるのが普通じゃない?」


またどこから出したのか、くるくるとグラスを回しながら、魔女はワインを一口含む。

それをこくりと飲み下すと、何を言いたいのか分からないエレノアに静かに視線を向けた。


「何か…?」


人には誰でも、一つくらい問題を抱えているものだと思う。

エレノアだって、魔女に呪われた女だ。神を愛するこの国において、魔女に呪われたという話は知られたくない話。神に愛される為清く正しく生きようとする者たちの中で、悪魔に魂を売った者による呪いを受けるという事は、とても良くない事、神に見放されたとみなされる。

だから両親は、エレノアの声は酷い風邪によって失われたのだという事にした。


「性格に難あり、女にだらしない、金銭的な問題。本人の問題なのか、実家の問題なのか…何かあるから、婚約者の一人もいないんじゃないかしら」


くるくるとグラスを回し続ける魔女は、じっとエレノアの瞳を見つめ続ける。

夜の色をそのまま溶かしたような真っ黒な瞳。見つめられるエレノアの瞳は、澄み渡る青空のような真っ青な瞳。


昼と夜を思わせる二人の瞳は、互いを見据えて動かない。


「呪いを解いてくれるのなら、些末な問題だわ」


忌々しいこのしゃがれ声。これをどうにかしてくれるのなら、「ちょっとした」問題くらいなんて事は無い。

そもそも結婚を決めるのは本人たちの意志ではなく、親が決めるもの。心の底から愛され、キスによって呪いを解かれた後の事は、父がどうするかを決めるのだ。


男爵家の跡取りであるディランに嫁ぐ可能性が無いわけでは無い。だが、何かしらの問題とやらがあるのであれば、父は婚姻を許しはしないだろう。


それを分かっていて、ただ利用する為だけにディランに近付いている。自分の声が恋しくて、元の声に戻りたいがためだけに近付いている自分の行動の浅ましさを、全ての元凶である魔女に責められているような気がした。


「…愚かね」


憐れむような魔女の視線。それが酷く腹立たしい。

愚かと言われようが、そもそもの原因はこの魔女にある。自分の声を取り戻したいと願って何が悪いのか。取り戻すために利用出来るものを利用しようとして何が悪いというのか。


ぐるぐると頭の中を巡って止まってくれない不満と、自己弁護ともいえるであろう言い訳を言葉に出来ないまま、エレノアは鋭く魔女を睨みつけた。


「愛されるという事は、貴女も相手を愛さなければならない。愛というのは簡単なものじゃないのよ」


愛というものがどういうものなのか、何故魔女に説教をされなければならないのだろう。

神父やシスターに説かれるのならば素直に聞けるだろうが、魔女に説かれるのを聞く気にはなれない。


「エヴァンズ嬢、貴女はディラン・バーンズという男を愛せるのかしら」

「声を取り戻せるのなら、何だってするわ」

「…そう。貴女きっと魔女に向いているわ。神様なんて居るのか居ないのかも分からない存在に歌を捧げるなんて勿体ないわよ」


にんまり笑った魔女は、グラスに残っていた真っ赤な液体を一気に煽るとひらひらと手を振る。

ふいに立ち上る煙。それが消える頃、そこに居た筈の魔女も、彼女が腰掛けていた椅子も、初めから何も無かったかのように消え失せていた。


◆◆◆


愛とは何だ。

大事なものとして慈しむ事だということは、言葉の意味として理解している。親から子への愛情だとか、家族へ向ける愛情は幼い頃から何となく接してきた。


だが、魔女の言う「心の底から愛する」という事に関してはよく分からない。

うんうん唸りながら一晩考えてみた結果だったが、もしも異性として、そしていつか夫婦になる相手として愛するのならば、支えたい、共に生きたい、神の元へ還るその時まで離れず共に居たいと望める相手の事を言うのだろうと結論付けた。


その相手がもしもディラン・バーンズという男だったのなら。

今現状、彼の事はよく知らない。


少々悪筆で、狩りが趣味の男爵家の跡取り息子。妹のシャーロットとはよく一緒に行動しているようだが、教会で会う以外は特に接点も無かった。


時折手紙のやり取りをしたりもするが、他愛のない話をしたり、こんな事がありましたと報告しあうだけ。


彼ともしも夫婦になったなら、支えてやりたい、一緒に居たいと思えるようになるのだろうか。


ぼんやりとそんな事を考えていると、エレノアの部屋のドアが軽くノックされた。

誰だろうと気になりながら、エレノアは返事代わりにいつものベルをちりちりと鳴らす。


「お客様がお見えです」


来客の予定なんてあったかしら。そういう意味を込めて小首を傾げると、来客を告げたソフィーは嬉しそうな顔をしながら客人の名を告げた。


「サンドラ様がお見えですよ」


その言葉に、エレノアはパッと顔を輝かせながら部屋を出る。

客間に案内されているらしいサンドラの元へ急ぎながら、ソフィーは簡単に突然来た理由を教えてくれた。


「お嬢様にお願い事があっていらっしゃったそうですよ」


お願いとは何だろう。大好きな従姉の為ならば、出来る事は何でもしたい。

彼女の願いである「結婚式で賛美歌を歌う」という目的の為に、呪いを解いてくれる王子様を見つけようとしているくらいなのだから。


「お待たせ致しました」


客間の扉を開きながら、ソフィーはエレノアが来た事を告げる。

中で待っていたサンドラは、エレノアに向かって優雅に微笑みながら挨拶をした。


「突然来てごめんなさいね。近くまで来たから、お願いをしたくて来たの」


何でも言って。

こくこくと頷き、エレノアはサンドラの座る二人掛けのソファーに腰を降ろす。いつものメモとペンをしっかりと握りしめ、何を言われてもすぐに返事が出来るよう待ち構える。


「トレーンベアラーアをね、エリーにお願いしたいのよ」


花嫁のベールやトレーンを抱え、共に式場に入るという大役を、可愛い従妹に頼みたいのだと、サンドラは微笑みながら告げる。

少々重たいだろうが、自慢の従妹に一緒に入場してもらえたら嬉しいと微笑むサンドラは、とても幸せそうに見えた。


「ブルーのドレスを着てね、とびきりおめかしをして一緒に入場してほしいの。エリーなら誰よりも美しいお姫様になれるわ!」


そう興奮気味に訴えてくるのだが、その日一番美しくなるべきは花嫁であるサンドラだ。そう言いたいのに、文字を綴る筈の手はサンドラにがっしりと握られていて文字を書く事など出来そうにない。


「エリーの髪はとても綺麗だから、アップにするのは勿体ないわね。少し編み込む程度にして、お花を飾るのはどうかしら」


まだ受けるなんて言っていないのに、サンドラは既に受けてもらえることを前提に話している。

うっとりと頬を染めながら話すサンドラにどう返事をしよう。ただでさえ言葉を話す事が出来ないのだ。どうにかして呪いを解き、賛美歌を歌えるようにと思ってはいるのだが、確実に解けるという確証はない。


話せもしない女が、その日一番美しく幸せな花嫁のお供を務めても良いのだろうか。

何でも受けるつもりでいたが、流石に迷惑をかけてしまうのではと思うと、すぐに了承する勇気は無かった。


「…ごめんね、すぐに返事を頂戴なんて言うつもりはないの。少し考えてくれて良いから」


エレノアの困った顔に気付いたのか、サンドラは漸く落ち着きを取り戻し、エレノアの手を開放してくれた。


『一番綺麗なのは、サンドラでしょう』


返事に困り、漸く書けたのはそんな言葉だった。


一緒に一番で良いじゃないと笑うサンドラはとても楽しそうだ。

昔からよく笑う人だったが、今は結婚という人生一番のイベントを前に浮かれているのだろう。


元々は親が決めた結婚の筈だが、どうやらサンドラと婚約者の仲は良好らしい。

少し歳の離れた夫婦になるようだが、一緒に生活出来るのが嬉しい、待ち遠しいと嬉しそうに微笑むサンドラは、誰が見ても幸せそうな新婦そのものだった。


『幸せ?』

「ええ、幸せよ」

『どうして』


どうして幸せだと答えられるの。

どうして幸せなの。

夫となる人に愛されているから?愛しているから?


愛する人と一緒になれるから、幸せなの?


ぐるぐると回る疑問。

どうしてという一言だけの問いに、サンドラはどう答えるべきか考えているのか、少しの間を開けた。


「…私ね、マシュー様とは十歳離れているの。勿論お話も合わなかったし、考えている事も違う。彼の方が大人だから当然なのだけれどね。だから、本当は結婚なんて嫌だと思っていたのよ」


それでも親に決められた事だから、女として生まれたからには、家の為に良家と縁を結び、婚家の跡継ぎを生み育て、夫を支える義務がある。

その義務から逃げたいと思っていたし、話も合わず、容姿も好みでは無い男に嫁ぐ事を不幸だと思っていた事もあると、サンドラは眉尻を下げながら言った。


「でもね、彼は私を大切にすると誓ってくれたの。話が合わないのなら、互いの事を知っていけば良い。知っていくうちに、きっと互いに興味がある事が見つかるだろうから」


静かに穏やかに続くサンドラの言葉は、正直ピンとこない。

生きてきた道が違うのだから、最初から分かり合える筈が無いのだから。


「言うだけなら簡単よ?でも彼はきちんと行動してくれた。だから私も、少しずつではあるけれど、彼の好きな物、興味がある事を知りたいと思ったの。知っていけば、彼の事を少しは知れると思ったのよね」


嬉しそうにはにかみながら、じっと話を聞いているエレノアの手をそっと取ると、サンドラはまた柔らかく微笑んだ。


「少し恥ずかしいけれど、彼といると居心地が良いの。私の居場所はここだと思えるの。彼は恥ずかしがり屋さんだから、どう思っているかは言ってくれないけれど…彼も同じだと思ってくれていたら、私はとても嬉しいわ」


居心地が良いとは何だ。

心を許しているから、一緒にいて心地よいと思うのだろうか。

正直言って、サンドラの話はどれだけ真面目に聞いても、何度頭の中で反芻しても理解しきれない。


ただ一つ分かったのは、サンドラは婚約者であるマシューを愛しているのだろうということ。


『愛って何かしら』

「難しい事考えるのねぇ…」


差し出されたメモを覗き込みながら、サンドラは小さく唸る。

片手を頬に当てながら少し考えると、小さな溜息を吐きながら笑った。


「一緒に過ごすうちに芽生えるもの…かしらね」


私には難しい問題だわと笑い、サンドラは小さく詫びた。何か悩んでいるのだという事は察してくれたようだが、力になれないと両手を上げて見せた。


「なあに、誰かに恋してるの?お隣のライアンかしら」


ぶんぶんと首を横に振り、何を言うんだとサンドラを睨むエレノアだったが、睨まれたサンドラは楽しそうに微笑むばかり。


恋なんてものはよく分からない。

今自分を愛してくれる人を探しているのは、幸せになりたいからでも、恋に恋をしているわけでも、憧れているわけでもない。


ただ、十八歳の誕生日までに呪いを解いてくれる相手を探しているだけ。

解いてさえくれれば誰だって良い。出来ればそれが、夫として選んでも問題ない人なら尚良いという程度の事。


—愛されるという事は、貴女も相手を愛さなければならない。


数時間前の魔女からの言葉が、ふと耳に戻ってきたような気がした。

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