第11話「穏やかな時間」

どぎまぎとした馬車での時間が忘れられない。筆談出来ない程暗くなってしまったあの馬車の中で、ディランはただ黙ってエレノアの手を握っていた。


どきどきと高鳴る胸は、彼に恋をしているのか、それともただ異性に触れられているという緊張からくるものだったのか、どれだけ考えても分からなかった。


また一緒に過ごしてほしいという言葉は、どういう意味を持っているのだろう。一緒に過ごすって何をするのだろう。今迄だって、教会で子供たちに囲まれて過ごしている。少しずつ文字を覚え始めた子供たちは、エレノアとディランの秘密の会話を解読しようとするようになった。


今の所解読された事はなかったが、解読されるようになるまでそう時間は掛からないだろう。


中でも新入りとして紹介されたウォーレンは頭が良い。誰よりも早く文字を覚え、子供向けの絵本くらいなら時間をかけてゆっくりと読むことが出来るようになってきた。解読班の仲間入りをされたら、きっと彼が一番に解読するだろう。


そんな事をぼんやりと考えるエレノアは、自室の窓から庭を見下ろして退屈そうな顔をしていた。家庭教師からの課題は既に終わらせているし、外出の予定もない。


前はどうやって一日を過ごしていたのか思い出そうとするのだが、思い出せた事は刺繍をするだとか、読書をするだとか、今はやりたくないなという事ばかりだった。


十五歳の誕生日に声を奪われるまで、エレノアは非常に社交的な性格をしていた。暇さえあれば誰かとお喋りをしたがったし、口を噤んでいる時間が苦手だった。

誰も捕まらない時は歌いながら庭を歩きまわったり、海辺で覚えたばかりの賛美歌を歌っていたのだが、今はそれも出来ない。それがとても腹立たしい。


—魔女め


苛々と眉間に皺を寄せ、自分に残された時間があとどれくらいなのかを思い出す。十ヶ月残っていた筈なのに、あっという間に二週間が過ぎている。


ディランとの仲は少し進展したように思うが、ディラン以外の異性と知り合う事すら出来ていない。シャーロットとも手紙のやり取りをしているし、先日屋敷に招いてお茶もしたが、シャーロットとの仲が深まっても呪いは解けないのだ。徐々に焦り始めている事を自覚しながら、エレノアはふとライアンの事を思い出す。


ディランと観劇に行ってから約一週間。一度もライアンの顔を見ていない。仕事やらで忙しいのだろうが、あの日のライアンの異様な姿と雰囲気が気になって仕方なかった。


何故怒っていたのか分からない。ディランに対するあの態度は何なのだろう。生理的に合わないというやつなのだろうか。仮にそうだとしても、一応成人しているのだから大人の対応をしてほしいものだ。


目の前でもめ始めていたあの日の事を思い出しながら、エレノアはふうと小さな溜息を吐いた。

ライアンは今頃何をしているのだろう。顔を見せに来ない程忙しいのなら、無理はしていないだろうか。きちんと休息を取っているだろうか。


もしかしてあの日は、疲れていて機嫌があまり宜しくなかったのではなかろうか。

ふとそんな事を思い付き、エレノアは座っていた椅子からパッと立ち上がる。

いくら庭を眺めていても、何処にもライアンの姿は見つからない。見つからないのなら自分から行けば良い。


空は今にも振り出しそうにどんよりと曇っているが、ちょっと隣の屋敷に顔を出しに行くだけだ。降り出したとしても、ちょっと走ればすぐに戻って来られる。もしも濡れ鼠になる程降ってしまったら、その時は傘でも借りたら良いのだ。


そうと決まれば早速行こう。ライアンが不在だったらすぐに引き返せば良い。普段着のドレスが乱れていないかを簡単に確認すると、エレノアはいつものようにペンとメモを掴んで部屋を飛び出した。


◆◆◆


可笑しい。絶対にこれは可笑しい。

昔はするりと通り抜けられた筈なのに。どうして前にも後ろにも進めないのだ。


ぐいぐいと体を塀の隙間に押し込んでみるのだが、何か引っかかっているのか、それともエレノアの体そのものが通り抜けられる程の幅が無かったのか、どれだけ踏ん張っても進めない。


こんな無様な恰好、誰かに見られたらどうしよう。そもそもここは庭の片隅。見つけてもらえる前に力尽きたらどうしよう。

嫌な想像をして身震いをして、エレノアは今度は戻ろうと体を後ろに引く。少しだけ戻ったようだが、矢張り体は抜けてくれなかった。


「何やってんだ」


頭上から振ってくる声。呆れたような顔をして、ライアンはしゃがみ込みながらエレノアの顔を見ていた。


「何詰まってるんだよ」


じたばたと暴れるエレノアの頭をぽんと撫でながら、ライアンはどうしたものかとしっかり嵌ってしまったエレノアの腰回りを眺める。

メモとペンを仕舞っているポシェットが、塀と腰の隙間に入り込んで食い込んでいた。


「助けてやるから大人しくしとけ。あーあ、しっかり食い込ませて…」


ぐいぐいとポシェットを引っ張り、少しずつ引き抜く作業をしながら、ライアンはエレノアに問う。


「どうしたんだ。俺に会いに来た?」


こくりと頷くエレノアの頭を見下ろしながら、ライアンはまた少しポシェットを引く。


「何か用事だったか?」


ふるふると横に振られた頭。それに合わせて揺れるエレノアの金色の髪が、さらさらとライアンの体に触れた。


「俺に会いたくなった?」


冗談ぽく笑うライアンの声にどう答えよう。少し考えたエレノアだったが、どうしているか気になったという事は会いたくなったという事なのだろうと判断し、こくりと頷いた。


「…そっか」


ぽんと頭の上に少しの重みがかかる。撫でられていると分かった瞬間、ぽんとポシェットが引き抜かれる。

しっかりと挟まれていたせいで少々型崩れしてしまったが、中に入れていたペンは無事だろうか。


「どうだ、出られるか?」


ゆっくりと体を前に進めてみる。もう引っ掛かっているものが無いおかげで、すんなり向こう側へ行けそうだ。


「っ」

「あぶねっ」


がくっと動きが止まる。また何か引っかかったのだろう。思わず漏れてしまった声がライアンに聞こえていないか不安だが、反射的に手で口元を抑えられたし大丈夫だろう。


それよりも、バランスを崩したエレノアを抱き留めてくれたライアンの腕の中にいる方が問題だ。


こんなにしっかりした腕をしていたっけ。胸板も厚い。他の男を知らないが、子供とは違う大人の体だ。ぎしりと体を強張らせ、動きを止めたエレノアを腕の中に閉じ込めながら、ライアンは再びエレノアの腰元に目を凝らす。


「腰のリボンが引っ掛かったのか…これ解いたらスカート落ちるか?」


落ちる。だから絶対にやめろ。

こくこくと頷き、懇願するエレノアの視線にライアンは苦笑する。


「結び目が引っ掛かってるんだ。ちょっと腹引っ込めて」


言われた通りぐっと力を入れて腹をひっこめてみる。どうやら上手い事いったようで、漸くブルックス邸の敷地に足を付けられた。


普段ライアンは簡単に通り抜けているのに、何故もっと細身な筈の自分が詰まるのだ。納得がいかない。ぶすっとした顔をライアンに向けるが、相変わらずエレノアはライアンの腕の中にいる。


むしろ、ライアンはにんまりと笑いながらエレノアを抱きしめて離さないのだ。腕の中にいるエレノアに見上げられ、離せとべしべし叩かれても嬉しそうにしている。


「なかなか面白い光景だった。誰かに描いてもらおうかな」


やめろ。そう言いたいが、ポシェットはまだライアンが持っている。反論したくても出来ない事を分かっていて、ライアンはほんの少し意地悪をするような顔でエレノアを揶揄う。


「俺に会いたくなって、こんな隙間に詰まって…俺が来て良かったな?」


事実しか言われていないが、改めて言われると気恥ずかしい。

こんな事なら正面から入れば良かった。ちょっと遠回りになるのが面倒くさいと思った、ほんの少し前の自分を呪いながら、エレノアはライアンの横腹をべしんと叩く。


「痛いな…エリーはすぐに手が出る」


乱暴者と言われても、エレノアが少々雑に扱うのはライアンだけだ。昔からの付き合いで気心知れた幼馴染。ライアンだって、他の女性にはしない粗野な物言いもするし、エレノアの扱いそのものが少々雑だ。


互いにそれで良いと思っているし、これが当たり前。これが心地よい関係なのだ。


「用事は無いんだっけ?ちょっと休憩するつもりだったんだ。おやつにしよう」


名残惜しそうにエレノアを開放すると、ライアンはそっとエレノアの腰に腕を回して歩き出す。

さくさくと二人分の足音をさせながら屋敷に入るべく玄関へ向かう。


「そうか、エリーは俺に会いたかったのか」


小さく呟く声が聞こえた。そう何度も言われると気恥ずかしいのだが、ライアンの顔はとても嬉しそうに見えた。


◆◆◆


どこからこれだけの量の菓子が出てくるのだろう。

面食らっているエレノアの前には、エヴァンズ家でもなかなか見ないような菓子の山が出来上がっていた。


「久しぶりにエレノア様がいらっしゃった」


それはブルックス家を大騒ぎさせるには充分な事だったようで、あれよあれよという間に座らされ、次々に運ばれてくる菓子と、ゆらゆらと湯気を立てるカップを前にぱちくりと目を瞬かせるしかなかった。


「あー…悪いな、何か盛り上がってるみたいだ」


歓迎してくれているのは嬉しい。子供の頃は互いに行き来していたし、エレノアはブルックス家で大層可愛がられていた。


声を奪われてから一度も来ていなかった事を思い出し、エレノアはまだ菓子を追加しようとしているメイドに小さく微笑みかけた。

何か用だろうかと小首を傾げるメイドは顔馴染みだ。ソフィーよりも年上のメイドは、そっと目を細めながらエレノアの隣に来た。


『ありがとう』


じっと目を細め、眼鏡越しに見る文字に、メイドは泣きそうな顔をしながら微笑んだ。


「まだまだ沢山お持ちしましょうね」

『こんなに食べられない』


吹き出すエレノアに、メイドはまた笑った。ライアンはそろそろやめてくれと頭を抱え、数人の若いメイドに少し数を減らすよう指示を出す。


「エリー、さっきのでどこか痛めてないか?」


心配そうな顔をするライアンに、エレノアは腰を摩りながらふるふると首を振る。

大きく膨らんだスカートとパニエのおかげだろう。


「何かあったのですか?」

「秘密」

「…エレノア様に何か失礼をしたのでは?」

「何でそうなるんだよ!」


ぎゃあぎゃあと怒るライアンを華麗にスルーしながら、メイドは真面目な顔を作ってエレノアの顔を見つめる。


「エレノア様、坊ちゃんに何かされたら、いつでも私に教えてくださいませ。きっちり叱りますから」

「主は俺だからな」

「いいえ、主は旦那様です」


二人でぽんぽんと言葉を交わし、エレノアはそれを聞きながら小さく笑う。

そういえば昔からこの二人はこうだった。こういうやり取りを見ているのが好きだった。


何だか落ち着く。冷めてしまうからとやり取りを眺めながら出されたお茶を飲み、エレノアはもぐもぐと茶菓子を咀嚼する。


いつまでこのやり取りは続くだろう。そろそろライアンが「仕事に戻れ」と言いつけて終わるだろうか。


「全く…本当口煩いったら」

『相変わらずね』


さらりと書いたメモに目を通し、ライアンは行儀悪く頬杖を突きながらカップを傾ける。眉間に皺を寄せていても、あまりあのメイドを嫌っているわけではないのだろう。


口煩いだの、いつまでも子供扱いされるだの文句を言うが、最近腰が痛いと言っている事を心配していた。


「辛いなら少し休めって言ってるんだけどな。仕事を奪わないでくれって泣き真似するんだ」


無理するなとしっかり言い含めなければと付け足すライアンに、エレノアはまたメモを突き出す。


『ライアンは、きちんと休めているの?』

「俺?ちゃんと休んでるよ。睡眠時間は八時間きっちり取らないと頭動かないんだ」


クッキーを齧りながら笑うライアンの顔色はそう悪くはない。本人の言う通り、睡眠時間はしっかり確保しているのだろう。


「仕事も落ち着いて来たし、もう少ししたらエリーの所に行こうと思ってたんだけど。まさかエリーから来てくれるとは思わなかったよ」

『暇だったの』

「暇つぶしの相手に選んでいただけて、大変光栄ですよレディ」


そうふざけるライアンは機嫌が良い。この間はあんなに不機嫌そうな怒ったような顔をしていたのに、今日はずっと嬉しそうに微笑んでいるように思えた。


「この間の劇どうだった?」

『あんまり覚えてない』

「お好みじゃなかったか」


けらけら笑うライアンの顔を見ながら、エレノアはどう答えようか考える。

好みでなかったわけでは無い。ただライアンがどうして怒っていたのか分からず、何となく気になって集中出来なかっただけだ。それを本人に言うわけにもいかず、誤魔化すようにクッキーを口に放り込んだ。


「あれからあの坊ちゃんには会ったのか?」


ふるふると首を横に振り、エレノアは小さく溜息を吐く。

本当は昨日会う筈だったのだ。教会で子供たちに囲まれて文字を教える筈だったのに、何故だかディランは現れなかった。


しっかりと約束をしているわけでは無いし、仕事でもないのだから来なくても責められない。だが、帰りの馬車で一緒に過ごす時間をくれと強請ったくせに、顔を出しに来なかった事が気になった。


「…聞いておいてなんだけど、本当仲良くなったんだな」

『まあね』

「恋仲なのか?」


その問いに首を振って答えると、エレノアはじっとライアンの顔を見つめる。

深いサファイアの瞳に見つめられたライアンは、ほんのりと頬を染めながら動きを止める。


ふいに動いたエレノアの瞳を追うように、ライアンもエレノアの手元に視線を落とす。


『どうして気にするの』

「どうしてって…」


ただ純粋な疑問だったのだ。いつかエレノアは何処かに嫁いでいく筈だった。声さえ戻ればそうなるつもりだ。呪いを解く為重たい腰を上げたばかりだというのに、ライアンはやけにディランの事を気にしているように思えて、エレノアは何となくそれが気に食わなかった。


『好きなの?』

「は?!」

『ディラン様』

「何でそうなる!」


ぐしゃぐしゃとエレノアの頭を掻き回し、ライアンはぶすっとむすくれながら紅茶を飲む。ぶつぶつと何やら文句を言っているが、髪を直しながらそれを聞くエレノアには、何を言っているのかまでは聞き取れなかった。


『ただのお友達』

「今は、ってやつだろ」


流石幼馴染、この後付け足そうと思っていた文字をよくぞ予想してくれた。

満足げに微笑み、エレノアはもう一つクッキーを口に放り込む。


ふいに思い出してしまった、いつぞやのライアンとの出来事。手の甲に触れたライアンの唇の感触が、また蘇ったような気がした。

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