第10話「バチバチと」
郵便ですと毎朝届けられるものは、エヴァンズ家には多く届く。新聞だったり、父の仕事関係の手紙だったり、母やエレノア宛の手紙。今は叔父の所に行っている弟宛の手紙が来る事もあったが、今朝は少々大騒ぎになっていた。
「お嬢様宛に、殿方からのお手紙が!」
そう騒ぐ使用人たちは、一体どこの誰だと囁きあった。
うちのお嬢様は声は出せないけれど、見目麗しくお優しい自慢のお嬢様。だからきっと素敵な人が見初めたのかもしれない、いやいやまだ色恋沙汰ではないかも…。そんな話を主家族に聞かれぬよう、使用人たちはそっと口を噤む。
本来ソフィーも口を噤む一人の筈なのだが、このメイドは少々口が緩い。家に関わる事を外で話す事は絶対に無いが、エレノア相手になると途端にぺらぺらと話し始めてしまうのだ。
「バーンズ家といえば男爵家…少々家格が釣り合わないように思うのですけれど…」
ぶちぶちと言いながらも、ソフィーはエレノアの手に収まる手紙の内容が気になるのか、ちらちらと視線を寄越しながら順番にカーテンを開いていく。
伯爵家の一員ではあるが、所謂分家筋というやつなのだからそう細かい事は気にしなくとも良い。
良いご縁ならばそのまま嫁いでも良いだろうし、きっと父は「良いと思える人ならば」と許可してくれるだろう。
するすると視線を動かし、まだまだ荒い文字を読み終えたエレノアは、にんまりとした笑顔をソフィーに向ける。
「どうされました?」
『出かけるわ』
「いつです?」
『明後日』
いつも通り素早く書かれる文字に返事をしたソフィーは、まさかその男とデートなんて!と甲高い悲鳴を上げた。
◆◆◆
うきうきとした面持ちで、エレノアは玄関ホールに置かれたソファーで時間を待つ。
一緒に劇を見に行きませんか。そう誘う手紙を貰ってからのエレノアの行動は素早かった。
誘われた劇の大元となった本を手に入れ、一日と掛らずそれを読み終えると、劇場に行くのに丁度良さそうなドレスを用意させた。
流石に新しい物を用意するだけの時間は無かったが、既に衣裳部屋に置いてあるドレスの中から適当な物を見繕うには充分な数を持っている。
あまり華やかすぎず、かといって地味過ぎないように。きっと劇場の中は暖かいだろうからと、ほんの少し生地の薄い物を選んだ。
目の色に合わせたブルーのドレス。シンプルな無地のドレスに見えるが、よく見ると同じような色合いの色で細やかな刺繍が施されたものを着て、迎えはまだかとソワソワしながら玄関の扉を見つめた。
ドレスと揃いの刺繍の入った小さな鞄には、いつも通りメモとペンが入っている。お喋りをするにはいつもより時間が掛かるだろうが、それを分かっていて誘ってくれているだろうし、心配はしなくても良いだろう。
ぷらぷらと足を動かし、まだかなと視線を下げた瞬間、ふいに玄関の扉が開く。
来たと顔を上げたが、視線の先に居たのはディランでは無かった。
「…どうした」
ライアンだ。目をぱちくりとさせ、お出かけしますといった格好のエレノアに近寄ると、頭の天辺からドレスの裾までじろじろと観察するような視線を向ける。
年頃の令嬢をそんなにじろじろ見る物じゃない。そう文句をつけてやろうと鞄を開くのだが、それより先にライアンが口を開いた。
「随分お洒落してるじゃないか。出かけるのか?」
こくり。一度頷くエレノアに、ライアンは眉間に皺を寄せ、腕を組んだ。
「帰りは遅くなりそうだな」
どうだろう。うーんと首を傾げるエレノアに、小さく舌打ちをして、ライアンはまた口を開いた。
「男爵家の坊ちゃんか」
悪いのか。眉間に皺を寄せ、不満げな視線を向ける。その視線が更に不満らしいライアンは、もう一歩エレノアに近付き、やけに冷たい目で見下ろした。
「何でだ」
何でと言われても困る。行っても良いと思える相手から誘われたから行くだけだ。シャーロットから売り込まれたというのも理由の一つだし、少なくともエレノア自身ディランに対して良い印象を抱いている。
もしかしたら呪いを解いてもらえるかもしれないという下心もあるが、外出出来る事自体が嬉しいという理由もあった。
「俺は」
何か言いたいらしいライアンが口を開く。何を言いたいのだろうとライアンの顔を見上げた時だった。
開かれた玄関から入って来た人影が、カツカツと靴音を鳴らして歩いてくるのがライアンの体越しに見えた。
「失礼。今日エヴァンズ嬢のエスコートをさせてもらうのは、私の筈なんだ」
詰め寄るライアンの肩をぽんと叩きながら、ディランはじっと不機嫌そうに視線を向ける。口元は穏やかに微笑んでいるのだが、澄んだ海を思わせる瞳は冷たくライアンを睨んだ。
「お待たせして申し訳ありません。お取込み中でしたか?」
そっとエレノアに手を差し出しながら、ディランはにっこりと微笑む。
その手を取れば、優しく引かれ立たされると、小さなリップ音をさせながら手の甲にキスをされた。
ひくりとライアンの頬が引き攣った。エレノアは挨拶のキスに恥ずかしそうに頬を染めており、それに気付かない。
ちらりとライアンを見たディランだけが、苛々としているライアンの顔を見て余裕たっぷりに口角を上げた。
「素敵なドレスですね。エヴァンズ嬢は青がお似合いだ」
いつだったかライアンもそんな事を言っていた。ぼんやりとそう思い出しながら、エレノアは嬉しそうに微笑み、小さく頭を下げた。
誰が見ても「良い雰囲気」というやつ。それをすぐ傍で見ているライアンの視線は恐ろしく冷たい。
今にも射殺しそうな視線をディランに向け、もじもじしているエレノアの頭に手を伸ばす。
「折角セットした女性の髪を乱すのは、あまり関心しないな」
その手をさっと防ぎ、ディランはふんと鼻を鳴らす。
ディランの言う通り、今日のエレノアの髪は丁寧に編み込まれ、後頭部にはキラキラと輝く銀細工の髪飾りが付けられていた。
乱されてしまえば、元に戻すのは大変だろう。
「お忘れ物はありませんか?メモとペンは…ああ、鞄の中ですね」
持ちますよと手を差し出すディランに、エレノアは小さく首を振る。渡したらお話出来ませんと言いたいのが伝わったのか、ディランは「失礼しました」と笑った。
「エヴァンズ嬢に何か用事かな?」
「…ちょっと時間が出来たんで、顔を見に」
「では用は済みましたね。エヴァンズ嬢、急かして申し訳ありませんが、そろそろ時間です。行きましょうか」
バチバチとした男同士の牽制を遠目に見ていたソフィーに、ディランは頭を下げる。
終わり次第すぐに送り届けますと告げると、しっかりとエレノアの腰を抱いて玄関に向かって歩き出した。
またねと小さく手を振るエレノアに、ライアンは動く事すらしない。
ただ連れて行かれてしまう幼馴染の背中を見つめ、悔しそうに歯を食いしばるしかなかった。
ぱたんと閉じられた扉。それを見た途端、ライアンはがしがしと自分の頭を掻き回す。
「何だよ…」
いつでも傍にいるのは自分だったのに。呪いを解きたいから愛してくれる人を探しますなんて、よくもまあそんな事を言えたものだ。
すぐ傍にいるのに、それに気付きもせず、あっさりとどこぞの男に目を向ける。
「お帰りをお待ちになりますか」
同情しているような目を向けるソフィーの問いに、ライアンは深く溜息を吐いた。
「帰る」
「お気をつけて」
庭を突っ切って塀の隙間に体を捻じ込むだけの帰路に、何を気を付けろと言うのだろう。苛々とした気分のまま、ライアンはエヴァンズ邸の玄関扉を開いた。
◆◆◆
ライアンはどうしてあんなに怒っていたのだろう。あんなに冷たい目をして見下ろすような事は、長年一緒にいる間一度も無かった筈なのに。
悶々とそんな事を考えていると、どうにも劇に集中できなかった。元々声が出せないからと観劇中ディランと会話をする事は無かったが、集中出来ずにライアンの事ばかり考えてしまうのは予定外だった。
原作を読んでおいて良かったと胸を撫でおろしながら、エレノアは観劇を終えた客が立ち上がるのをディランと並んで眺めていた。
「人気作ですから、少し人が多いですね。もう少し人の流れが落ち着くまで待ちましょうか」
ドレスを捌くのが大変だろうと気遣ってくれるディランの優しさが嬉しい。もしこれがライアンなら、きっと気にすることなくさっさと人の流れに飛び込んでいくだろう。
「恋愛物には疎いんですが…最後は幸せそうで良かったですね」
こくんと笑顔で頷くエレノアだったが、正直考え事をしていて劇の内容をあまり覚えていない。
原作ではどうだっただろうと必死で記憶を辿り、あらすじを頭の中で組み立てた。
想い合っている幼馴染が、家の事情でそれぞれ別の相手と婚約し、そのまま結婚する。互いに子供をもうけ、仲の良い友人として生きて行くのだが、互いの伴侶が相次いで流行り病で亡くなってしまう。
子供たちも既に手を離れ、お互い一人になってしまった二人は、寂しさからよく一緒に過ごす様になった。そうして昔の想いが再燃し、互いの伴侶を心の片隅に置きながら、歳を取った二人は手を取り共に生きて行く…という話。
『少し難しかったです』
「私たちはまだ結婚生活というものを知りませんからね」
そうそう。こくこくと頷くエレノアに、ディランは穏やかに微笑む。
くすんだ金の髪が動きに合わせてさらりと揺れ、それに目を奪われていると、ディランは人が少なくなってきたからとエレノアに手を差し出してくれた。
慌ててメモとペンを仕舞い込むと、エレノアはその手を取って立ち上がる。ずっと座っていたせいで背中や腰が痛むが、流石にここで体を伸ばすわけにはいかない。帰ったら思い切り伸びをしよう。
「薄暗いですから、足元に気を付けてくださいね」
こくりと頷くエレノアの手を引きながら、ディランは狭い通路をゆっくりと進む。
重たいドレスと踵の高い靴で動きにくいエレノアに合わせてくれているのだろう。時々ちらりとエレノアの方を見て、歩幅は広くないか、歩みは早くないか確認してくれる優しさがむず痒い。
異性に引かれる自分の手を見つめ、せっせと足を動かすエレノアは、ふいに止まったディランの背中に顔から突っ込む。
化粧が付いてしまったかもしれないと慌てるエレノアだったが、背中に密着するような態勢になっているエレノアを見下ろすディランの頬はほんのりと赤かった。
「すみません、止まると声を掛けるべきでした」
ディランの指差す方向を見ると、階段で少々混雑している人込みがあった。
これでは進めないなと納得し、じっと目を凝らしながらディランの服に化粧が付いていないか確認する事に専念した。あまり濃い化粧をしなかったおかげなのか、服に汚れは付いていなかった事に安堵した。
「どうしました?」
メイクが。そう答えられれば良いのだが、声は出せない。ならば書けば良いのだが、生憎メモもペンも鞄の中だ。
自分の顔とディランの服を交互に指差し、伝わってくれないかなと困った顔をしてみせれば、ディランは「ああ」と小さく声を漏らした。
「もしかして、化粧で汚してしまったと心配してくださいましたか」
伝わってくれた。こくこくと頷くエレノアに、ディランは柔らかく微笑みながらぶつかった辺りを確認するように体を捩った。
「大丈夫ですよ、洗えば落ちます。…ああ、そもそも汚れていません。エヴァンズ嬢はお優しいのですね」
心配しなくて良いと微笑んでくれるディランに、エレノアの胸がきゅうと苦しくなる。
この苦しさが何なのか分からないが、漸く進み始めた流れに乗って、エレノアとディランはゆっくりと階段を下る。
間違ってもエレノアが落ちないように、ディランはしっかりと腕に掴まらせてくれたし、手すりを握れるように場所を譲ってくれた。
十五歳からずっと引き籠っていたせいか、エレノアは異性にエスコートされる事に慣れていない。ライアンとでさえ外出を拒んでいたのだ。
今ディランにされているエスコートが、生まれて初めてと言っても良いだろう。
どきどきと高鳴る胸が煩い。だが、何となく違和感があった。隣にいるのはいつでもライアンだったのに、今いるのはディランという男。これから先慣れるだろうかと考えた辺りで、階段を下り切り、劇場の外に出る事になった。
「暗くなってしまいましたね。ご家族が心配されるでしょうから、少し急ぎましょう」
馬車が迎えに来るであろう場所に急ぎ足で向かう。石畳の地面をヒールで歩くのは大変だが、ディランの腕に掴まりバランスを取りながら必死で歩いた。
ドレスが重い。もっと軽い服で出かけられたら楽なのに。そうだそういう服を何処かから手に入れよう、無ければ作らせて売れば良い収入になるだろう。
「ああ良かった、丁度来たようですね」
手配していた馬車が丁度出て来た事を確認し、ディランはそっとエレノアをエスコートしてくれた。
大人だなあ、スマートだなあと感心し、先に馬車に乗り込んでから気が付いた。
馬車の中は暗い。これでは筆談しようにも文字が読めない。それにディランも気付いたのか、「お話出来ませんね」と小さく笑った。
「では、私が一方的に話しますね」
その言葉に、エレノアはこくりと頷く。暗くてもエレノアが頷いているのか首を振っているのかくらいは分かるのか、ディランはそっと口を開いた。
「ライアンという男とは、幼馴染だと聞きました」
こくりと頷く。それは既にシャーロットからも聞かれているし、その通りだとも答えた筈だ。
「仲が良いという事は理解しています。ですが、お二人の間に私が入り込む隙はありますか?」
切なげな声で問うディランに、エレノアはどう答えるべきなのか分からない。
首を傾げ、何も答えられずにいるエレノアの手を、ディランはそっと握った。
「エヴァンズ嬢の事をもっと知りたいと言ったら、困らせてしまいますか」
これはもしかしなくとも「そういう」事なのではなかろうか。望んでいた展開が来てくれた事に若干の興奮を覚えるが、ここで食いついては引かれてしまうかもしれない。
ふるふると首を振り、握られた手は動かさない。握り返す事もしなかった。というよりも、出来なかったのだ。
出かける直前のライアンの顔がこびりついて離れない。手を振った時の何とも言えない顔が、寂しそうな、怒っているような顔を思い出してしまったのだ。
「また、私にエヴァンズ嬢と過ごす時間をくださいませんか」
それは此方もお願いしたい。
こくんと頷くと、ディランは「良かった」と嬉しそうに呟いた。
がらがらと車輪の音が響く中、ディランはそれ以上何も言わない。ただ握った手は、エヴァンズ邸に到着するまで離される事は無かった。
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