第8話「鈴の音」
エレノアの機嫌はすこぶる良い。
やるぞと決め、行動を開始してからの物事の進み具合がすこぶる順調だからだ。
思っていたよりも、エレノアが引き籠っている事は社交界でも心配されていたらしく、筆談であろうが気にして声を掛けてくれる人が多かった。
多少会話に時間は掛かるが、それでも構わないという人は少しずつ会話を楽しんでくれたし、煩わしいという人はそっと離れていく。
大きな目的を果たす為、少しずつ道が開いて行っているような気がして、エレノアの心は浮ついていた。
「何か最近忙しそうだな」
二週間ほど顔を見せていなかったライアンが、庭からサンルームに顔を覗かせる。仮にも他所の家だぞと文句を言うべきか、もう今更だと流すべきなのか分からないが、既にライアンはいそいそとサンルームに入り込んでいた。
「教会に顔出してるんだって?子供たちの先生やってるって聞いた」
『文字を教えているの』
「ふうん?まあ、引き籠っているより良いな」
楽しいなら何よりと笑うライアンの顔は、どことなく疲れている。仕事で忙しいのだろう。
そういえば二週間も顔を見ないのは珍しかった。それを寂しいとも思わない程、エレノアも忙しくしていたのだが、疲労の色が濃いライアンの体調が心配だ。
『忙しい?』
「うん?ああ、まあ…ちょっとな」
歯切れの悪い返事だが、きっとあまり話せない仕事で忙しいのだろう。
いくら幼馴染でも、他人は他人。話して良い事とそうでない事くらい分かる。それならせめて、何か甘い物でもと思い立ち、エレノアはテーブルに置かれていた小さなベルをチリチリと鳴らした。
「お呼びでしょうか」
近くに居たらしい使用人が、そっと扉を開いて顔を覗かせる。
ライアンが居る事には慣れているのか、「いらっしゃいませ」と声を掛けるに留めていた。
『ライアンにお茶とお菓子を頂戴』
「畏まりました」
頭を下げて出て行く使用人を見送ると、ライアンは興味深そうにベルを観察していた。
何をしてるんだと視線で訴えると、ライアンは感心したように小さく息を吐いてベルを置く。
「細かい彫りだなと思ってさ。輸入品か?」
『さあ?』
「そういうとこ、生粋のお嬢様だよな」
そう言われても、これは声を出せなくなったエレノアの為に父がくれたものだ。よく音が通るから、声の代わりにしなさいと渡されたそれは、使用人たちもエレノアの声として認識してくれている。
「綺麗な音だな、これ」
ちりんと鳴った音を褒め、ライアンは何処か寂しそうな目をする。
「エリーの声、聞きたい」
ぽつりと零された言葉。
ぐさりと胸に何か大きな棘でも刺さったような気分だ。
そんな事を言われても、聞かせてやれるような声をしていない。元の声ならいくらでも喋ってやるが、今はどうしてもライアンの前で声を出したくない。
「ごめん、悪かった」
ぽろぽろと泣き出したエレノアに、ライアンは慌てて詫びる。ハンカチを持ち歩いていないのか、服の袖で頬を擦られ、流れ落ちる涙を拭われる。
痛いと文句を言いたかった。声が出せればすぐにでも言える文句が、エレノアには言えない。
涙が溢れて止まらない目では、メモを見ている事も出来ない。文字を綴り、ライアンの眼前に突き出してやる事も出来ない。
なんて不便なのだろう。
なんて悔しいのだろう。
なんて寂しいのだろう。
ライアンと話がしたい。くだらないどうだって良い話を、飽きるまでしたい。
ライアンの言葉は、悪気が無いことくらい分かっている。それでも止まってくれない涙。ライアンを困らせている事も分かっているのに、決して声が漏れないようにと口元を両手でしっかりと抑える事しか出来なかった。
「泣かせるつもりじゃなかったんだ。ただベルの音が、エリーの声みたいに綺麗だったから」
彼の記憶に残る自分の声は、望んでいた通り綺麗な元の声のままである事に安堵した。
どうかこのまま、元の声を取り戻すまでそうあってほしい。だから今は、絶対に声を漏らしてはいけないのだ。
ぐっと唇を噛んだ。その上から両手でしっかり口元を抑え、溢れて止まらない涙を止めようと固く目を閉じた。
落ち着こうと必死で呼吸を繰り返し、ふうふうと呼吸音だけが漏れる。
「エリー」
そんなに傷付けてしまったのかと申し訳なさそうなライアンの声がした。
こつんと額に何か固い物が触れた。うっすらと目を開くと、苦しそうな顔で目を閉じるライアンの顔が目の前にある。
また子供の頃のように額と額を合わせているのだ。それに気付き、エレノアは再び目を閉じた。
「呪いが解けたら、いくらでも罵倒してくれて良いから」
そう呟く声。
今から文字で罵倒してやろうと思ったが、口元を抑える手に、何か柔らかい物が触れる感触に動く気が失せた。
何だとまた目を開く。
額をくっつけていた筈のライアンの顔が、少し位置を変えていた。
口元を押さえつけるエレノアの手に、ライアンの唇が触れていた。手が無ければキスをされているような位置。
驚きと困惑に目を見開き、動く事もしないエレノアの両手を、ライアンはそっと掴んで退かす。
熱に浮かされたような目が、じっとエレノアの真っ青な瞳を捕らえて離さない。
何だこれは。本当に目の前にいるのはあのライアンなのだろうか。
いつも子ども扱いをして、無邪気にじゃれ合う幼馴染が、今は知らない男のように見えた。
「目、閉じろよ」
掠れた声でそんな事を囁かないでほしかった。今から何をされるのか理解し、受け入れるべきなのか拒絶すべきなのか分からない。
ライアン。
そう呟こうとしても、酷くしゃがれた声を聞かれたくなくて、大人しく口を閉ざし続けるしかなかった。
「失礼致します」
コンコンとノックをしながら入ってくる使用人の声に、二人の距離は一気に開く。
バクバクと煩い心臓が、今起きていた事は紛れもない現実であると教えてくれる。
「どうなさいました?」
二人揃って互いの顔を見ようともしないエレノアとライアンを不思議そうに見つめる使用人が、カラカラとカートを押しながら近付いてくる。
何でも無い。そう伝えようと、エレノアは真っ赤になった顔をぶんぶんと振る。
「何でもない!悪いなわざわざ!」
普段よりも数段大きな声で笑うライアンに、使用人はまた不思議そうな顔をして、二人分の紅茶を準備し始めた。
あのまま入って来てもらわなければ、きっと唇は重ねられていただろう。
まさか、まさかそんな事があってたまるものか。
あくまでライアンは幼馴染で、兄のようなものだ。きっと不用意な発言で泣かせてしまったから、慰める為にあんな事をしたのだろう。そうに決まっている。
わしわしと自分の頭を抱えながら、エレノアはぎゅっと目を閉じた。
「…お邪魔をしたようで」
何かあったのだろうと察したらしい。手早くお茶を注ぐと、使用人はぺこりと頭を下げて部屋を出て行ってしまう。
頼むから今この男と二人きりにしてくれるな。そもそも互いに年頃の男女を二人きりで個室に放置するんじゃないと文句を言うべきだろうか。
いや、そうは言っても今更だろう。両親公認、ただの幼馴染という関係なのだ。恐らくエレノアがブルックス家に遊びに行っても、「あらいらっしゃい」と歓迎されて終わるだろう。
よく考えたら、親も親でそれで良いのか、それが正しい反応なのかと詰め寄りたくなってきた。
「あー…涙は引っ込んだみたいで」
おかげさまで。
すんと小さく鼻を鳴らし、エレノアはまだ淹れたばかりの紅茶にふうふうと息を吹きかける。熱すぎてまだ飲めないが、ちびりと口を付けると、ふわりと優しい香りが鼻を抜けた。
「そういえば、教会でバーンズ家の坊ちゃんと仲良くやってるんだって?」
ディランの事をそんな呼び方をするのかと少し可笑しく思いながら、エレノアは小さく頷いた。
仲良くと言っても、ただ子供たちに混じって一緒に文字を書いているだけだ。時々ディランが文字を指で追いながら絵本の読み聞かせをしてやるのを聞き、適当なところで切り上げて教会で別れる。ただそれだけだ。
「呪いを解くのに丁度良い相手が見つかったようで」
『別に何も無い』
まだ。出来れば呪いを解く王子様になってほしいところだが、今の所ディランは良い友人といったところだ。妹のシャーロットとも最近手紙のやり取りをしており、近いうちエヴァンズ家に遊びに来てくれる事になっている。
それを簡単に説明すると、ライアンは少しだけ面白くなさそうに「ふうん」と声を漏らした。
カートに置かれたままのクッキーをテーブルに移動させ、そのまま一つ口の中に放り込むライアンの横顔を見ながら、エレノアはペンをぎゅっと握りしめる。
『声が戻ったら』
その先は何と書こう。
沢山お話してねと書けば、きっと彼は笑ってくれるだろう。だが、声が戻るという事は、心の底から愛してくれる男にキスをされるという事だ。
そうなった時、ライアンは今まで通り一緒に居てくれるだろうか。それを許してくれる相手に愛してもらえるだろうか。
期限までもう十ヶ月になる。たった十ヶ月で、そんな男に出会えるだろうか。愛してもらえるだろうか。
ふいに不安になったエレノアの隣で、ライアンは書きかけのメモを見つめる。
そして、エレノアが握ったままのペンを取り上げると、さらさらと動かした。
『沢山話そう』
そう書き足されたライアンの文字は、エレノアの文字よりも少しだけ大きく、流れるような文字だった。
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