第4話「行動開始」

その日エレノアは、震える体を必死で真直ぐに保ちながらメモとペンを握りしめていた。

大丈夫、きっと何とかなる。だから落ち着くのよ私。


何度も心の中で繰り返し、深呼吸をしすぎて頭がくらくらしてきていた。

十五歳の誕生日に声を奪われ、エレノアは所謂デビュタントを経験していない。大人の仲間入りをして、夜会に参加するのが当たり前の人間の筈なのだが、会話出来ないとなれば、社交界から遠ざかるのは当然の事だろう。


まして、年頃の令息令嬢は王都に集まるのが習わしだというのに、エレノアはそれすら拒否して領地の屋敷に籠っているのだ。


呪いを解く為に心の底から愛してくれる男性を見つけるというスタートラインにすら立てていない。


「パーティーに参加したいの」


ダミ声の娘からの突然のお願いに、両親は困惑しながら顔を見合わせていた。

無理をしなくても良いと何度も言われたが、エレノアの決意は固かった。


もう二年近く引き籠った。心配してくれるのは嬉しいが、ただ泣き暮らして時間を無駄にするわけにはいかないのだと漸く気が付いた。

だからもう遅いかもしれないけれど、最後に足掻きたいのだと両親を説得し、同じ年頃の令息令嬢が集まる地元の小規模なパーティーに参加する事を許してくれたのだ。


今は所謂社交のオフシーズン。普段王都にいる令息令嬢たちが領地に戻って来ている時期で本当に良かった。


「ごきげんよう」


会場の隅で震えているエレノアを見かねたのか、一人の令嬢が声を掛けてくれた。

相手は女性だが、まずは友人を作るところから。家族や使用人以外とコミュニケーションを取るリハビリをさせてもらおうと、エレノアは急いでメモにペンを走らせる。


『初めまして。ごめんなさい、声が出せません』

「え…?」


目の前に突き出されたメモを読み、困惑の声を漏らす令嬢は、どうしたものかと視線をうろつかせる。大方、慣れない場所で緊張しているだけとでも思っていたのだろう。

面倒な相手に声を掛けたと思われただろうと、エレノアは小さく肩を落とす。


「耳は…聞こえていらっしゃるのよね?」


令嬢からの問いに、エレノアは必死で何度もこくこくと頷く。

意思の疎通は出来ると認識したのか、令嬢は穏やかに微笑みながら名乗ってくれた。


「私、バーンズ家のシャーロットと申します」


バーンズ家といえば確か男爵家の名前だ。以前読んだ本の中にそんな名前があった事を思い出し、ぺこりと頭を下げてまたメモにペンを走らせる。


『エレノア・エヴァンズです』

「エヴァンズ…伯爵家の方でしたのね」


気軽に話し掛けて申し訳ないと詫び、シャーロットは口調を改める。どうかそんな申し訳なさそうな顔をしないで欲しいと願いを込めてふるふると頭を横に振り、エレノアはどうしようと慌てながらペンを握りしめた。


「素敵なペンですわね」

『幼馴染、くれた』


しまった。慌てすぎてたどたどしいにも程がある文を書いた。

どうにかして会話を続けなければとオロオロしているエレノアに、シャーロットは笑いながら「落ち着いて」と励ましてくれた。なんて優しい人なのだろう。


「私筆談をする方とのおしゃべりは初めてですわ」

『面倒でしょう?』

「少しだけ。でもとても新鮮で楽しいです。エレノア様さえ宜しければ、もっとお話してくださいませんか?」


きっとこんな人を聖女だとか女神だとか言うのだろう。

感激で涙が溢れてきそうだが、此方こそ!と何度も大きく首を縦に振った。


シャーロットは、薄紫色のドレスを着た柔らかい笑顔の御令嬢だった。クリーム色の髪を上品に編み込み、薄化粧だが形の良い唇をゆったりと結んでいる。

エレノアが文字を書き終わるまで待ち、見せられた文を読んでから返事をしてくれる。

年齢はエレノアと同じ十七歳。とはいえ、エレノアはまだ誕生日を迎えていないので十六歳なのだが、生まれた年は同じだという。


「エレノア様の字はとても美しいですわ。私どうにもミミズのようで…」


こんなに綺麗な見た目をしているのに、書く文字がミミズのようだとは想像出来ない。文字を書くジェスチャーをしてみせるシャーロットを前に思わず吹き出すと、シャーロットはにっこりと微笑んだ。


「でも、兄の方がもっと酷いのです。文字なのか落書きなのか分からない程悪筆なのですよ」

『お兄様がいるの?』

「ええ、三歳年上なので…今年二十歳になりました。仮にも我が家の嫡男なのですから、もっと文字の練習をと家庭教師にも煩く言われておりますわ」


今後親の跡を継ぐのなら、そのうち手紙のやり取りなど頻繁にするようになるだろう。そうなった時、書く文字は綺麗な方が良いに決まっている。

それなのに、シャーロットの兄はいつまでも文字が上達せず、森に狩りに行ってばかりなのだとシャーロットは言った。


「エレノア様の半分でも、綺麗な字を書く兄なら良かったのですけれど」


ふう、と小さく溜息を吐くと、シャーロットは喋りすぎましたねと小さく詫びた。

どうやら普段からお喋りがすぎて叱られがちらしい。ただお喋りが好きなだけなのに、一度話し始めると長いからと、あまり友人にも集まりに誘ってもらえないと笑った。


『でも私は嬉しい』

「まあ、そう仰っていただけると嬉しいです」


本当に久しぶりなのだ。言葉を発する事は出来ないが、こうして筆談でも誰かと会話をするというのは良い。元々エレノアも話好きだったし、もしも普通に人前で話せる声をしていたら、きっとシャーロットと二人でいつまでもお喋りをしていただろう。


いや、今後元の声に戻れたら、絶対に実現させてみせよう。まだ初対面だが、筆談という少々変わった人間相手にこれだけ付き合ってくれる女性なのだ。このままお友達になってくれたら心強い。


「まさかエヴァンズ家の方とお話出来るとは思っていませんでした」

『普通の家です。どうかこれからも』


その先を書く事が出来なかった。ペンのインクが切れたわけでも、紙が無くなったわけでもない。


「シャーリー、また誰か困らせてるな」


男の声に驚いたのだ。視線を手元に下げていたせいで、誰かが近寄って来た事に気付けなかった。

パッと顔を上げると、そこにはくすんだ金の髪を長く伸ばし、背中で一纏めにした青年が立っていた。


「すみません、妹が困らせてはおりませんか」


ゆったりと腰を少し折り、エレノアの手を取ろうとしているのは分かる。両手にメモとペンを持っているせいで手を取れずにどうしたものか考えているようだ。


困っていない。そう伝えるように、エレノアは小さく首を振る。


「エレノア様、兄のディランです」


悪筆のと小さく付け足す妹をじろりと睨みつけ、ディランは改めて自分の声で挨拶をしてくれた。


「レディ、お名前を教えてくださいませんか」


ディランの言葉に、エレノアは先程シャーロットに見せた紙を探し出す。ぐいと突き付けられたメモに怪訝そうな顔をして、ディランは小さな声でそれを読み上げた。


「エレノア・エヴァンズ…エヴァンズ家のお嬢様でしたか」


こくこくと頷くエレノアに、ディランは恭しく頭を下げた。格上の貴族である事に気付いたからだと分かるが、エレノアはただ偶然エヴァンズ家に生まれただけだと思っている。恵まれているなあ、有難いなあとは思うが、明確な縦社会である貴族社会は何だか苦手だ。


ゆっくりと頭を上げ、さてどうしようと考えているらしいディランの前に、エレノアはまたシャーロットに見せた紙を突き出す。


『初めまして。ごめんなさい、声が出せません』

「存じております。エヴァンズの金糸雀でしょう?」


そういえばそんな呼び方をされた事があったと思い出し、エレノアはどう返事をしようか考える。

恐らくこの男は、エレノアが酷い風邪を引き、喉を潰したという話を知っているのだろう。この土地でエレノアはそれなりに有名人だったし、是非歌を聞きたいと教会に人が集まる事も少なくなかった。


突然姿を見せなくなったエレノアの身を案じた人々の為に、両親は少しずつ噂として嘘の話を流してくれていたようだ。


「是非貴女の歌声を聞いてみたかった」

『もしまた歌えるようになったら、是非聞いてください』

「勿論。何処の教会でも必ず駆け付けます」


にっこり微笑むディランは、約束ですよとエレノアに手を差し出す。

初めてライアン以外の異性の手に触れたかもしれない。挨拶のキスを落とすと、ディランはそろそろ帰るぞとシャーロットに挨拶をさせ、またねと手を振りながら帰って行く。


まさか二人もお喋りをしてくれるとは思わなかった。皆遠巻きにちらちらと此方を見るだけだったというのに、あの二人は長々と会話をしてくれたのだ。


もしかしたら、本当に限りなく低い可能性だが、手紙を出してお茶に誘ったら来てくれるかもしれない。お友達になれるかもしれない。あわよくば、ディランと素敵な恋をしてこの忌々しい声ともおさらば出来るかもしれない。


「えっ、エリー何してるんだこんなとこで!」


まさか、と言いたげな顔で小走りで近寄ってくるライアンに、エレノアは涙目になった顔を向ける。

今にも泣き出しそうな幼馴染に驚いたのか、ライアンはオロオロしながらエレノアの頭を撫でる。


「どうした、どっか痛いか?気分悪い?」


違うとぶんぶん首を振り、エレノアはいつもより急ぎながらメモにペンを走らせる。


「えー…と。ちょっと読めないかな」


言いたい事が多すぎる。慌てて書いた文字は酷く乱れ、読み慣れているライアンですら読めない酷いものだという事に気付くと、エレノアは小さく溜息を吐いた。


やっぱり喋れないのって不便ね。


声を取り戻したら沢山お喋りをしよう。まずは目の前で何とか解読しようと唸っているライアンと、楽しくお茶をしながら話すのだ。


文字の解読を諦めたらしいライアンは、一先ず落ち着けとエレノアの背中をぽんぽんと叩きながら会場を出る。

まだ中に居たいと指を指して抗議するのだが、ライアンは「わかりません」とにやにや笑ってエレノアの手を引いた。


「で、社交なんて無理だって言ってたのに、何でパーティーに参加なんかしてるんだ?」


しかも明らかに地元で結婚相手探してる連中の集まりに。そう付け足したライアンは何だかやけに不機嫌そうだ。


そういう集まりだということは知っていたが、エレノアの目的は「社交界に戻る為のリハビリ」であって、結婚相手を探す事ではない。


あわよくばそういう相手と出会えたら良いなとは思っているが、積極的に探すのはもう少し後でも良いと思っている。


一人で会場の隅で震えているだけの女に、積極的に異性にアプローチする度胸などある筈が無いのだから。


「おーい、聞いてる?」

「、…」


聞いてる。そう答えそうになった。ぱかりと口を開いたところでパッと両手で口を塞いだ。手に持っていたままのメモとペンが顔に当たって痛かったが、ライアンにこの声を聞かせるくらいならちょっと痛いくらいどうだって良い。


「大丈夫か?」


こくこく。またいつも通り頷くと、エレノアはさらさらとペンを走らせる。


『リハビリ』

「リハビリ…社交界戻るのか」


こくんと頷きながら、エレノアはじとりとした視線をライアンに向ける。

この間「キスしてみようか」なんて言っていた男が、地元で結婚相手を探す連中の集まりに来ている事が気になったのだ。

責めるような視線で何を言いたいのか察したのか、ライアンは慌てたように顔の前で両手をぶんぶんと振った。


「違う!俺は別に出会いを求めてきたとかそういうんじゃなくて!」


言い訳を始めるライアンだが、そもそもライアンこそ結婚相手を見つけなければならない立場の人間だ。

ブルックス家の婦人、ライアンの母は身体の弱い女性で、ライアンを生んでから寝込みがちだ。そのおかげで二人目の子供を望むことが出来なかった。


たまたま生まれてきたのが男の子で、その子が無事大人になったからと安心して跡継ぎ教育を施されているようだが、そろそろ本格的に婚約者を探さなければならない。


こういう集まりに積極的に顔を出し、未来の妻を探し出さなければならない。それを理解しているエレノアは、メモに「がんばれ」と書いて、ライアンの肩をぽんと叩いた。


「ていうか、参加するなら何で俺に教えてくれなかったんだ?」

『忙しいかと思って』


仕事の手伝いだとか、将来の取引相手に顔を覚えてもらう為普段から忙しい事を知っている。だからエレノアはライアンに声を掛ける事をしなかったのだ。


参加してくると教えれば、きっとライアンは無理をしてでもエレノアのエスコートをしようとしただろう。このパーティーにパートナーは不要だが、一人で行かせるのは心配だからとかあれこれ言って付いてくるのが分かっていた。


まさか、会場でばったり出くわすとは思わなかったけれど。


「一人で無理するな。大丈夫だったか?」


よく頑張ったと褒めながら、ライアンはそっとエレノアの頭を撫でる。折角ソフィーに可愛らしく編んでもらったのに、そう撫でられては崩れてしまう。文句を言おうにも声は出せないし、不思議とライアン相手ならあまり悪い気がしないのも事実だ。


「ドレスも新調したのか?似合うじゃないか」


さらっとした言葉だったが、新しく準備したドレスはエレノアのお気に入りだ。青と白の柔らかな生地で仕立てられたドレス。裾のレースは小鳥と薔薇があしらわれ、上品で控えめながらも伯爵家の令嬢に相応しいドレスである。


「エリーは青が似合うな」


目を細め、可愛いと褒めてくれるライアンの視線が、何だか気恥ずかしい。

普段からこんなに褒めてくれるような男だっただろうか。いつも子ども扱いをして、全く令嬢を相手にしている風でもないのに、何だか今は、男の人なんだと意識してしまう。


「誕生日の贈り物はドレスにしようか。新しく作ったばかりだろうから、普段着に出来るやつ」


名案だと手を合わせ、デザイナーを呼ぼうと笑うライアンが、漸くいつものライアンに戻ってくれたような気がして、エレノアはほっと息を吐く。


「ペンが刺せるように、胸元にポケットが付いたやつ。それともあんまり伯爵家の御令嬢ぽくないけどエプロンドレスの方が良いか?」


色々と想像して悩んでいるらしいが、今この場で考えるのはやめてほしい。

会場をほんの数歩出たばかりのこの場所は、気が合うと判断した男女がゆっくりと会話をする為に集まっている。言ってしまえばカップル成立集合場所というやつだ。恐らく傍から見れば、エレノアとライアンもカップル成立組の一組に見えなくもない。


ちょいちょいとライアンの袖を引き、こっちを見ろと不満げな顔をしてから、エレノアは書いておいたメモをライアンに見せる。


『お腹が空いた』

「色気より食い気かよ」


結婚相手を探すにはまだまだ幼いなと馬鹿にしながら、ライアンはエレノアをエスコートして会場へ戻って行く。

結婚相手を探しに来たわけでは無いと、いつになったら弁解出来るだろう。歩きながら文字を書くのは難しい。


もっと普通の声をしていたら。普通に会話出来る声だったら、そんな些末な誤解はさっさと解く事が出来るのに。

ちろりとライアンの顔を見上げ、どうしようかと悩むが、ライアンは見られている事にも気付かない。


人込みで間違ってもエレノアが誰かにぶつかったりしないようにと、ゆっくり、丁寧にエスコートする事に集中していた。

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