第3話「奮起」

エレノアの一日は、酷く退屈で毎日同じ事の繰り返しだ。

忌まわしいあの日から、エレノアの世界はとても狭く退屈なものになった。目が覚めて、ソフィーに世話をされながら着替え、身支度と朝食を済ませる。


その後は、散歩をしたり、読書をしたり、教会のチャリティーバザーに出品する為の刺繍をしたりして過ごす。

時々父が手配した家庭教師から出された課題をこなしたりするのだが、会話出来ないからと家庭教師と顔を合わせる事はしない。


ちょっとした手紙と、評価された課題を確認し、返事を準備しながら出された課題を終わらせる。社交界に顔を出さなくても、たった一人、屋敷の中に閉じこもっているだけの本当に狭い世界に閉じこもらないようにしなさいという、父からの気遣いだった。


知識というのは武器となる。いくら蓄えても邪魔にならない財産となる。知識という財産を蓄えるのに、今のエレノアの生活はもってこいだった。


手始めに外国の言葉を学んだ。発音する事は出来ないが、読み書きくらいは出来るようになれる。まだまだ文法も綴りも怪しいが、ちょとした日常会話レベルならば意味が通じる言葉を書く事が出来た。


次にこの国と隣国の歴史を学んだ。過去を知る事は未来への備えとなるからだ。過去こういう前兆があって、結果どうなったのか。どういう事が起きて、当時の人々はどうしたのか。それを知れるのは面白かったし、これから先何か困った事があっても、対処法を知っているだけで少し落ち着いて構えておくことが出来ると思った。


とはいえ、屋敷に引き籠ってばかりで狭い世界に生きるエレノアが、こういった知識を披露する機会はまず無いだろう。


外国の友人を作るような社交の場に出る事は無いし、歴史を学んだ所で女であるエレノアに出る幕などある筈も無い。

ただ伯爵家の一員として生まれただけの、ちょっと恵まれているだけの女に、何が出来ると言うのだろう。


普通ならば、家の為に良家に嫁ぎ、夫を支え、子供を生み育てるという役目がある。そういう立場に生まれた筈だった。

声を失ってからその役目を果たせる気がしないし、両親は「無理をしなくても良い」と優しく微笑んでくれるけれど、その優しさが辛い時だってある。


「おめでとうサンドラ。ついに結婚ね」


珍しく客人の前に姿を現したエレノアは、黙りこくったままだが穏やかな顔をしていた。

目の前に座って嬉しそうに微笑むサンドラは、エレノアの従姉である。母方の従姉に当たるサンドラは、一年後に式を挙げる事が決まったのだと、エレノアの母に報告すべく、はるばる王都から来てくれたのだ。


「嬉しいわあ、可愛い姪が結婚するなんて!しかも招待してくれるのでしょう?とびきり素敵な贈り物をさせていただくわね」

「ありがとうおば様。でも式に来てくれるだけで充分よ」


クスクスと小さく声を漏らし、上品に笑うサンドラの左手には、キラキラと輝く指輪が嵌っている。

いつだったか、エレノアは左手の薬指に指輪を嵌める事に憧れた。いつか素敵な人と結婚をして、素敵な指輪とドレスで着飾って、両親の元から巣立つのだと思っていた。


残念ながら、それは叶いそうに無いけれど。


「エリーも是非来てね。お話出来なくても、皆良い人達だから」


深い青の瞳をキラキラとさせながら、サンドラはにっこりとエレノアに微笑む。

来てくれと言われたのはとても嬉しい。だが、口を利けない従妹が行って邪魔にならないかが不安だ。


おめでとうと祝福する事も出来ない。それでも命一杯拍手をすれば、祝福しているのだと分かってもらえるだろうか。


「酷い風邪を引くなんて…本当に、可哀想にね」


言葉を詰まらせるサンドラに、エレノアは困ったような視線を向ける。

魔女に呪われたなんて話をあまりしたくなかったのか、両親は限られた一部の人間にだけ真実を話し、それ以外には「酷い風邪を引いて、喉を潰してしまった」と説明していた。


誰もがあまりにも美しい声だから、神様が惜しくなって声を取り上げてしまったのねなんて慰めを口にする。

もしも神様が本当にいるのなら、こんなに酷い仕打ちはしないだろう。己を愛し、祝福する歌を歌う少女の声を奪うなんて、それは神ではなく悪魔の所業だと思うから。


そもそも奪ったのは魔女だ。ただの二日酔いで機嫌が悪かったからと、理不尽な八つ当たりなんかをするからこんな事になったのだ。


「ああそうだ、サンドラに贈り物はどんなものが良いか聞こうと思ってたのよ。リストにしてあるから、幾つか選んでくれない?」


うきうきと楽しそうな声色で、母はサンドラに向かって微笑む。きっと話題を変えようとしてくれているのだろう。

だが、リストが手元にない事に気が付くと、母はちらりとエレノアを見て言った。


「嫌だわ、部屋に置いてきてしまったみたい。エリー、取りに行ってちょうだい」


わかった。こくりと頷き、エレノアは部屋を出て母の部屋を目指す。

別にリストなんて必要無いだろうに、きっと気まずそうな顔をした娘に気付いて逃がしてくれたのだろう。

きっと戻る頃には、贈り物の話だとか、式の話等で盛り上がるようにしてくれているに違いない。母の優しさに、今は心から感謝した。


小走りで母の部屋に入ると、リストとやらは小さなテーブルの上に置かれていた。

念の為確認すると、上等な酒、有名画家の絵画、ドレス、宝石、靴…その他諸々、あらゆる品が細かな字で書き記されていた。


どれを選んでくれても良い様に、このリストに書かれた全ては既に目星をつけているのだろう。

リストをくるくると丸め、エレノアはまたサンドラと母のいる応接間に向かう。


ふかふかとした絨毯が敷き詰められた廊下は、ちょっと走ったくらいではそう煩く足音が響く事は無い。誰もが猫のように、静かに歩く事が出来るような気がした。


「エリーの歌が聞きたいわ」

「そうね…あの子、歌うのが大好きだから」


応接間の扉から聞こえてくる声。出てくる時にきちんと扉が閉まっていなかったらしい。隙間から漏れてくる二人の会話を、つい立ち聞きしてしまうのは、話している内容のせいだろう。


「式で歌う賛美歌、本当はエリーにお願いしたかったの。王都のお医者様を紹介しましょうか?もしかしたら、また歌えるようになるかも…」


サンドラの声が、胸に鋭く刺さる。

ずきずきと痛む胸を、ぐっと右手で抑えた。歌えるものなら歌いたい。大好きな従姉の晴れの日なのだ。嫁ぎ先へ送り出す祝福の歌を歌わせてもらえるのなら、いくらでも歌いたかった。


だがそれは叶わない。歌えるような声では無いのだから。

何度も歌おうとしたのだ。その度喉は引き攣り、出せていた音が出せないどころか、高音も低音も滅茶苦茶だった。


あんな無様な声を、結婚式で披露するわけにはいかない。でも祝いたい、送り出したい。歌いたい。ならどうすれば?


「心の底からお前を愛する男から、口づけを貰う事」


魔女の声が耳元で聞こえたような気がした。十八の誕生日までにそれが叶わなければ、もう二度と元の声には戻れない。


まだ十七の誕生日を目前にした所。あと一年しかないが、あと一年あると考える事だって出来る。


やれるだけやってみよう。やって駄目だったら、その時また泣いたら良い。


「あらエリー、遅かったわね」


コンコンとノックをしてから、エレノアは部屋に入る。まるで先程までの会話は何も聞いていませんよといった顔で、手にしていた母のリストを差し出して、サンドラににっこりと微笑んだ。


待っていてね、必ず歌うから。


そんなエレノアの気持ちを知る筈もないサンドラは、嬉しそうに微笑みながらリストを開いた。

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