第2話「災厄」

一人の時間はもう慣れた。というよりも、一人でいる時間を望む様になった。誰かと一緒に居る時間は苦痛だった。


昔はそんな事なかったのにと小さく胸が痛むが、それもこれも忌まわしいこの声のせい。


書置きをして、屋敷のすぐ傍の海まで散歩に来たのだが、此処は滅多に人が来なくて良い。引いたり寄ったりを繰り返す波を眺め、ぼうっと呆けている時間が好きになった。


耳に聞こえる音は、波の音だけ。幼い頃から聞いているこの音が、ちくちくとささくれ立た心を慰めてくれるような気がするからだ。


「なあに、いつまでもそこで座り込んで」


ふいに聞こえる甘ったるい声。大嫌いな声そのに、というやつだ。


声の主はニタニタと嫌な笑みを浮かべながらエレノアのすぐ隣に立つ。真っ黒なドレスを着て、長く伸ばされた髪を海風に踊らせる。


ただ見ているだけならば、とても美しい女性としか見えないだろう。とても魅力的な顔立ちをしているし、体型も恵まれている。すらりと伸びた脚を惜しげもなく晒すような、深いスリットの入ったドレスを着ているその女に、エレノアは心底嫌そうな顔を向けた。


「やあね、そんなに可愛らしい顔を歪ませるものじゃないわ」

「触らないで」


目の前にしゃがみ込み、けらけらと笑いながらエレノアの顔に触れる女が嫌いだ。

触れられるなんて冗談じゃない。べしりと女の手を叩き落とし、エレノアは御令嬢のくせに小さく舌打ちまでしてみせた。


「まだ怒ってるの?」

「声を奪われて怒らない人が居るかしら」

「居ないわねぇ」


にまあ、と笑う女。この女が、エレノアの声を奪った張本人なのだ。

この海辺の端、切り立った崖の上に小さな家を作り、そこに暮らす魔女が居る。

かつては慈愛の魔女なんて呼ばれて、他の住民から愛され親しまれていた筈なのだが、その魔女は現在災厄の魔女と呼ばれ恐れられている。


「のど飴でも作ってあげようか?酷い声よ」

「誰のせいよ!」


カッとなって砂を思い切り魔女の顔目掛けて投げつける。

何か魔法でも使っているのか、投げつけた砂は魔女の顔に届く前に、見えない何かに遮られたようだ。


「返してよ」


しゃがれた声が嫌だ。

また目頭が熱くなってきた。悔しくて堪らない。何も悪い事はしてない筈なのに、どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう。


全ての元凶である魔女は、時々エレノアの前に姿を現してはニタニタと嫌な笑みを浮かべて嫌がらせのように揶揄ってくる。

こうして海にいようが、部屋に鍵をかけて閉じこもっていようが、いつの間にか現れ、気が済むと煙のように何処かへ消えていく。


「返してあげるわよ。きちんと条件さえクリア出来ればね」


何を言っているのと言いたげに、小さく首を傾げる魔女は、エレノアの声を戻す「条件」を丁寧に教えてくれた。


「心の底からお前を愛する男から、口づけを貰う事。お前の十八歳の誕生日までにそれが叶わなければ、二度とお前の声は戻らない」


何度も聞いた条件。

心の底から愛してくれる男を見つけなければいけないという事が、どれだけ大変な事だかこの魔女は分かっているのだろうか。


ただでさえ人の心は移ろう物。ましてこんなに酷い声をした女を、誰が心の底から愛してくれると言うのだろう。


そもそも、この魔女が声を奪った理由も酷いものだった。

十五歳の誕生日、夜に行われる自分の誕生日パーティーで歌を披露するからと、朝からこの場所に来て歌っていたのだ。


そろそろ戻らねばと振り返った瞬間、目の間にいたのはこの女だった。


「煩いわね。なんて耳障りな声なのかしら」


酷く不機嫌そうな顔で、魔女はエレノアの首に細い指を回した。


「二度とその耳障りな声を聞かせないでちょうだい」


ぐっと絞められた首。

ヒュッと喉が鳴った。熱くなった喉から何かがずるりと抜け落ちて行くような、そんな感覚に襲われ、ゆっくりと手を離した魔女から距離を取った。


「なにを」


悪夢はあの日から始まったのだ。首から魔女の手が離れた途端、エレノアの声はしゃがれた声になっていた。

元の金糸雀のような美しい声は、魔女の手の中で金色に輝く光となっていた。らしい。魔女が「これがお前の声だよ」とニタニタ笑いながら教えてくれたからだ。


「返して!」

「嫌よ」


どれだけ泣こうが無駄だった。声を奪って満足したのか、魔女はふっと煙になって消えてしまったのだから。

その日のパーティーは勿論中止、魔女に声を奪われたと説明された両親は愕然としていたし、エレノアの声を聞いた使用人たちもまた、目を見開いて言葉を失っていた。


「いやー、悪いわね!」


あっはっはと声を上げて笑う魔女の声で、エレノアは過去を思い出すのをやめた。

声を奪われた翌日、ふいに屋敷に現れ、両親の前で「二日酔いで頭が痛いのに、ずっと歌われていて腹が立ったので声を奪う呪いをかけました」と全く悪いと思っていない顔で言ってのけた事だけはしっかりと思い出したけれど、


「そう難しい条件じゃないわよ?簡単簡単」

「どこがよ」

「さてー、そろそろ鍋が良い具合だろから帰ろうかしら」


パチンと指を鳴らすと、魔女はまた煙になって消えていく。

いつだってそうだ。この条件はとても簡単だと言って笑いながら去って行く。それがいつも腹立たしくて、この苛立ちをどうにかしたくて、足元に幾らでもある砂を魔女がいた所に気が済むまで投げ続けた。


「何してんだ」


空に向かって砂を投げ続けるエレノアに、ライアンは呆れた顔で近寄ってくる。

散歩に出ると書置きをして、いつまでも戻って来ないエレノアを心配して探しに来てくれたのだろう。


そもそもライアンは暇なのだろうか。むすっとした顔のまま、差し出されたライアンの手を大人しく握る。

ぐいと引っ張り立ち上がらせると、砂まみれになっているエレノアのドレスをパンパンと払いながら、ライアンは小さく聞いた。


「魔女か」


その問いに、エレノアはこくりと頷く。


「また返して貰えなかったんだな」


それにももう一度、こくりと頷いた。

返してくれない事は分かっている。かけた呪いを取り消す事は出来ない。解く方法は教えてあげるけれど、どうするのかは自分次第だと魔女は言った。


「心の底から愛してくれる男からのキスなあ…」


以前ライアンには呪いを解く方法を話した事がある。絶対に無理だと泣いたエレノアを何度も励ましてくれたが、もうすぐ二年経とうとしても解けない呪いに、ライアンも頭を悩ませていた。


「俺がしてみようか?」


ふいに、ライアンの顔が近付く。

背の高いライアンが背中を丸め、エレノアと額を合わせている。普段よりも一層近い距離。濃く煮だした紅茶のような焦げ茶色の瞳が、こんなにも近い。


「あだっ」


何を言っているんだと憤慨しながら、エレノアはべちりとライアンの頬を軽く叩く。

幼馴染を揶揄うなと文句を言いたかったが、今はメモもペンも持っていない。


『馬鹿』


足元の砂に大きくそれだけ書くと、エレノアはライアンの腕をもう一度べちんと叩いて走り出す。


同情のキスなんてされたくない。

幼馴染として子供の頃からずっと一緒にいるのに、心の底から愛してくれているかなんて分からない。愛してくれていたとして、それは家族愛というやつだ。エレノアがライアンに抱いている愛情がそうだから、きっとライアンもそうなのだろう。


もしもライアンの申し出を受け入れ、あの場でキスをして呪いが解けなかったら。もしそうだったら、ただ幼馴染に初めてのキスを奪われただけになる。これから先気まずい思いをするのではと考えると、到底受け入れる気にはなれなかった。

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