声を奪われた令嬢は愛を求めている
高宮咲
第1話「元金糸雀」
目が覚める度、これが悪い夢だったら良いと思う。起きて真っ先に喉に手をやり、細く声を出すのはもう日課。これが日課になってから、もう二年程になる。
今日も駄目。これが現実。諦めて、受け入れて、これが私の現実なのだから。
—コンコン
「おはようございますお嬢様。お目覚めでいらっしゃいますか」
扉の向こうから聞こえる声に、枕元に置いていたベルで答える。チリチリと甲高い音に反応し、ひょっこりとメイドが顔を覗かせて微笑む。
「おはようございます」
子供の頃から面倒を見てくれるメイド。いつも通り顔を洗う為の水桶とタオルを持って来てくれた事に、小さく頭を下げて感謝の意を表現する。
「お嬢様、本日の朝食のデザートは、朝摘みのベリーだそうですよ」
にこにこと楽しそうに微笑みながら、メイドはせっせとカーテンを開いて行く。
薄暗かった部屋はあっという間に朝日でいっぱいになり、まだ起きたばかりの目に毒だった。
「また寝癖が酷いですね…すぐ綺麗にしますから」
顔を洗った主人をドレッサーまで引っ張っていくと、メイドはするすると主人の髪にブラシを通していく。時々絡んだ場所を何度も繰り返し、丁寧に解していくが、慣れているのか不思議と痛みなど欠片も感じない。
「教会からお手紙が来ていましたよ。お返事を頂けたら嬉しいと、伝言付きで」
メイドの言葉に、ぐっと胸が重くなる。
教会にはもう二年間行っていない。行ってもどうする事も出来ないからだ。大好きだったあの場所で、大好きだった歌を歌う事も出来ない。沢山おしゃべりしたいと笑ってくれた子供たちと話す事も出来ないのだから、辛い思いをするだけだ。
かつてこの街には、金糸雀と呼ばれた少女がいた。エレノア・エヴァンズという少女だった。
透き通った美しい声と、生まれ持った金色の美しい髪。神に捧げる祝福の歌を天高く響かせ、楽しそうに微笑む少女は、二年前その声を奪われた。
その少女は、今鏡越しに苦しそうな顔をしている自分の事だ。
「子供たち、寂しがっていましたよ」
せっせとブラシを動かすメイド、ソフィーがなんてことはない世間話をするような顔で話す。
ズキズキと胸が痛む。行けるものなら行きたい。だが行けない理由があるのだ。
「ソフィー」
絞り出した声。
金糸雀には程遠い、お世辞にも綺麗だとは言えない声。鏡に映る自分の口の動きに合わせて響いたその声が、外に出られない理由だった。
「この声で、行けると思う?」
酷くしゃがれた声。まるで酒に焼けた荒くれ者のような酷い声だ。
大嫌いになってしまった自分の声を絞り出し、鏡の向こうで気まずそうな顔をするソフィーに問う。
「お顔を見せて差し上げるだけでも」
子供がそれで満足するだろうか。いや違う。怖いのだ。悲しくて苦しいのだ。
大好きだった教会で、賛美歌を歌っていた。それがもう二度と訪れない日常なのだと知っているから、エレノアは教会に行かない。
この酷く耳障りな声を誰にも聞かれたくないから、外に出る事も無い。家にいても筆談ばかりしているのだ。
それを知っているくせに、このメイドが残酷にも「行ってきたらいいのに」なんて簡単に言うのが、何となく腹立たしかった。
◆◆◆
朝食を食べ、ふらりと庭に出る。片手にはいつも持っているメモとペン。紙は高価な物だが、我が家は商いが上手くいっているおかげで裕福だ。
毎日何枚も消費するには少々値の張る物だろうが、両親は惜しみなく娘の為に買い与えてくれる。
恵まれている。それはきちんと理解していた。必要な物は何だって手に入れられるし困りもしない。欲しいと思ったものだって、ある程度手に入れられるし、その日の暮らしに困る事だってない。
ただ一つ、声を奪われた事以外は何の不満もない人生だ。
「ようエリー。朝から散歩か?」
ひらりと片腕を上げて庭に入って来た青年が、にこやかにエレノアに話し掛けてきた。
もういつもの事だから誰も咎めもしない。
茶色の髪を短く揃え、水やりをしている庭師に気軽に挨拶をする青年は、ライアン・ブルックスという。彼は所謂幼馴染というやつで、一つ年上の画商の息子である。
「朝は何食べたんだ?」
『パンとスープ。魚のフライが挟んであったわ』
サラサラとメモに書かれる文字を、彼は目で追ってくれた。
「へえ、良いな美味そうだ」
そして普通に会話をするように返事をしてくれる。
彼の茶色の髪が風に揺れた。手にしているメモもぱさぱさと揺れる。何処かに飛んで行ってしまわないようにしっかりと握りしめ、エレノアはもう片方の手で長い自分の髪を抑えた。
「髪長いんだから結んだら良いのに。ソフィーは?」
『ちょっと色々あったの』
「またお節介焼かれて怒ったんだろ」
『そんなとこ』
早く仲直りしろよと笑うライアンが、わしわしとエレノアの頭を撫でた。
もう子供ではない。十六歳のそれなりに良い家の御令嬢というやつで、ライアン自身も十八歳の良いとこの坊というやつ。
本来幼馴染だとしても、もう少し距離を取りなさいと言われる年頃になったが、少々特殊な事情を持っているエレノア相手に「距離を取りなさい」というのは無理な話だ。
『今日はどうしたの?暇なの?』
「可愛い幼馴染の顔を見に来てやったんだろうが」
『暇なの?』
一度書いた文字をトントンと指で指し、エレノアは口元を緩ませる。
声を奪われた事を知っている数少ない人間の一人であるライアンは、こうして筆談する事を提案してくれた男だった。
エリーと話せないのは寂しいから。文字でも良いから話をしよう。
そう言って塞ぎ込み、部屋に閉じこもっていたエレノアに紙とペンを贈ってくれたのだ。
今手にしているペンは、その時ライアンから贈られたものである。
「そのペン、そろそろ新しくしないか?もう二年近く毎日使ってるだろ」
何を言う。そう言いたげな顔をして、エレノアはライアンから庇うようにペンを抱きしめて体を捩じる。
絶対に取られたりしないぞと眉間に皺を寄せ、「不満です」と顔全体で表現した。
「気に入ってくれてるのは嬉しいけどさ。仮にも伯爵家の御令嬢だろ?ちゃんとしたもの持ってた方が良い」
『伯爵の姪』
「親父さんと仕事でよく顔出しに来る伯爵様だろー?伯爵様の姪が、こんなにボロボロになったペンを至極大事にしなくても…おい、叩くな!」
エレノアの実家は商船を幾つも持つ貿易会社を営んでいる。父の実家であるエヴァンス家というのは、元々この国の伯爵家なのだ。
父の兄である伯父が爵位を継ぎ、弟である父は会社を継いだ。だが、仲の良い兄弟はそれぞれ大人になり仕事や家庭を持っても、二人力を合わせて会社経営に尽力しているのだ。
『これが良いの』
少々乱雑な文字をライアンの前に突き出し、エレノアはぷいとそっぽを向く。
子供扱いをされると怒るくせに、やっている仕草は幼い。それを言うと怒る事を知っているライアンは、小さく笑うだけで指摘する事をしなかった。
「わかったよ。じゃあそれは取り上げないから、新しいペンを贈るよ」
ライアンのその言葉に、エレノアはふるふると首を横に振る。
もう既にペンは持っている。部屋に戻ればまだ予備があるし、必要になったなら父に強請れば買ってもらえるのだから。
「もうすぐ誕生日だろ。プレゼントがペンっていうのは…ちょっとセンス無いかもしれないけど」
どうしようかと後頭部を掻いて考えだすライアンを前に、エレノアはまた胸が重くなるのを感じた。
あと一年。あと一年で全てが終わる。もう時間がない。時間がないのにどうすれば良いのか分からない。
「どうした、欲しい物あったか?」
黙り込んだまま俯くエレノアに、ライアンが心配そうに声を掛ける。
顔を覗き込まれた事が恥ずかしくて、それを誤魔化すようにエレノアはまたさらさらとメモにペンを走らせる。
『新しい取引先』
「無茶言うな!」
にんまり笑うエレノアの頭をぐりぐりと掻きまわしながら、ライアンは「何が欲しいか言え」と詰め寄る。
欲しい物なんて決まり切っている。だがそれをライアンに強請った所で無理だ。
—私の声
そう言ったら、彼はどんな顔をするだろう。困らせるだけだろうか。それとも、なんとしてでも手に入れようとしてくれるだろうか。
ぐしゃぐしゃになってしまった髪を撫でつけながら、エレノアは小さく笑う。
あと一年。あと一年。何度も心の内で繰り返しながら、ぶちぶちと文句を言うライアンの顔を見つめた。
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