第80話地獄の年度末

「またこの季節がやって来たな」


総務部は総じて忙しいがこと年度末は多忙を極める。書類を持って来た俊哉に小声で


「適当なところで切り上げろよ」


と浩一郎さんは言った。


「はい、わかりました」


分厚い書類を机に置いて言った。


「高坂主任、この書類に目を通して押印お願いします」


俊哉が去って行った。


「やれやれ、こりゃ残業確定だな」


柔術のジムもしばらくの間、休みをもらっている。とにかく仕事が多い。


「こりゃ少し休憩が欲しいな」


浩一郎もなるだけ部員を帰らせているようにしている。もちろん、明日も仕事が有るからだ。


「ただいま」


俊哉は誰も居ない玄関で言った。家族と暮らしていた頃の癖である。玄関から照明をつけていくと明るさが俊哉を包んだ。


「浩一郎さん、外で食べて帰るって言ってたな」


ふと気が付くと川端さんが立っている。1週間ぶりである。


「川端さん、こんばんは。久し振りだね」


幽霊の川端さんが出現しても俊哉も浩一郎さんも気にしなくなった。たたりなんて起きないし、なんなら俊哉と浩一郎の2人の生活に刺激を与えている。


「川端さん、熱いほうじ茶が良いですよね」


スーツ姿のまま、ケトルに水を入れてガスコンロに火を着けた。


「今日は浩一郎さんも残業だし、スーパーのお弁当が安かったので今日は手抜きのお食事です」


パタパタと俊哉は2階に上がった。川端さんは椅子に座ってじっとしている。部屋着に着替えた俊哉が下りてきたのと同時にケトルが鳴った。俊哉はコンロを止めた。


「音、びっくりしませんでしたか?」


「いいえ」


ほうじ茶を淹れて川端さんに出した。唐津の湯飲みである。


「私はこの湯飲みが好き」


「そんなんですね。なかなか渋いですよ、唐津焼は」


俊哉は川端さんが現れた時は積極的に話しかけるようにしている。それはただ単に話がしたいだけではなく、川端さんの正体を確かめるためである。駅のホームで浩一郎さんと俊哉は川端さんについて話し合った。


「川端さんを成仏させてあげるんだ」


「どうやってするんですか」


俊哉が浩一郎さんに聞いた。


「方法はわからない。でも川端さんが俺達に姿を現すというのは何か意味が有るはずだ」


それから俊哉も川端さんに話しかけることにしている。


「お土産にみたらし団子を買ってきました」


織部おりべ焼の皿にパックから出して載せ、川端さんにお供えした。川端さんは目を細めた。


「甘い物は良い」


ポツリと言った。俊哉は嬉しかった。川端さんは滅多に喋らない。俊哉は女の子らしいな、と思った。花より団子だ。沈黙がまた2人に訪れた。穏やかな表情で川端さんは湯飲みと団子を見ている。


「毎年3月と言うのは会社で年度末と言って1年間の総まとめの時期なんです。私と浩一郎さんの会社は基本的に残業はしないと言う方針なんですが、この時期は特別許可されています」


「俊哉さん、どこで浩一郎さんと出会ったの?」


川端さんが俊哉の話に喰いついた。


「浩一郎さんは会社の上司です。私は浩一郎さんに指導してもらって仕事を覚えました。そこからですね」


「素敵な出会いね」


「川端さんは出会い、無かったんですか」


「ありました。でも彼は学徒出陣で帰らぬ人となったのです」


学徒出陣は俊哉も知っている。


「そうだったんですね」


「気にしなくても良いです」


川端さんは穏やかにみたらし団子を眺めている。


「これは美味しいみたらし団子ね。ほうじ茶も美味しい」


「食べているんですか?」


「貴女には見えていないだけで私達は味わっています」


俊哉は新しい知見ちけんを得た。お供えって大切なんだ。


「じゃあこれから美味しそうなものを買ってきますね」


「気にしなくて良いのよ」


川端さんが答えた。


「じゃあ、私、浩一郎さんが帰って来た時のためにお風呂入れに行ってきますね」


こくりと頷いた川端さんを残して俊哉は風呂場に向かった。川端さんは微笑を顔に浮かべている。

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