第41話桜井の剣

土曜日。彩は中学校の体育館に居た。体育館の床は冷たく、靴下から冷えが伝わって来る。


「正面に礼!」


桜井さんが大きな声で号令を掛けた。彩が見たところ、小学生から高校生までの学生が剣道の稽古に参加している。


「先ずは素振り。ただ竹刀を振るのではなくて相手を打つと言う感覚を大切にするように」


はい、と大きな声で子供達は返事をした。桜井さんは丁寧に素振りを指導する。体育館には保護者らしき人も多い。その人達も静かに稽古を見ている。


「よし、じゃあ次は打ち込み。しっかり声を出して打突する事」


桜井さんの凛とした声が体育館に響く。とても会社の冴えない桜井さんではない。彩は剣道の話を聞いた時、是非見学したいと桜井さんに伝えた。


「では土曜日にこのメモの中学校に来てください」


桜井さんのメモを頼りに中学校までやって来た彩だった。


「稽古の前半は小学生を対象に指導していますが、後半は中高生の指導をしています」


掛かり稽古が終わると一斉に面を装着する。互いに一礼して掛かり稽古が始まった。桜井さんは稽古を見守りながら時折指導する。体育館に子供達の声が聞こえる。中高生も子供の稽古に参加する。


「じゃあ今日の稽古は終わります。インフルエンザが流行しています。帰ったら手洗い、うがいをするように」


正座して礼が終わると子供達は元気に防具を片付けている。桜井さんが彩に近づいて来た。


「新田さん、来てくれたんですね」


「桜井さん、会社とは別人ですね」


そうですか、と桜井さんは笑った。


「これからは中高生を対象とした稽古になります。自由に帰ってもらって良いですよ」


桜井さんはそう言い残し、中高生の並んでいる列に向かって行った。


「ちゃんと踏み込まんか!」


小学生の稽古と違って激しい激が飛ぶ。桜井さんも面を装着して稽古に参加している。激しい稽古である。稽古が終わり、全員でモップがけをして稽古は終わった。


「まあ、こんな感じです」


桜井さんは言った。既に中高生は帰って、桜井さんと彩が残るのみとなった。


「新田さんも剣道、やってみますか?」


「いえ、私は筋肉がついてしまうのが怖くて」


「なるほど、そうなんですね」


桜井さんはそれほど気にしていない。桜井さんも着替えを済ませて竹刀袋と防具入れを担いだ。


「車で来たら良いんだけど、こうして電車で帰るのが好きなんだ」


帰り道、桜井さんと彩は2人で帰った。


「今日は桜井さんの意外な一面を見れて良かったです」


「この事は内緒で頼むよ」


「何故なんです?」


「会社でプライベートは知られたくないんだ」


「わかりました。秘密にしておきます」


その気持ちは彩にも何となく理解できる。気心の知れた仲でないとあまり自分の事は知られたくない。


「じゃあ僕はここで乗り換えなので」


桜井さんは途中で電車を降りた。振り向かず大きな荷物を持って去って行く。彩は帰宅して今日の出来事を俊哉に伝えた。


「良かったね。桜井さんの事が知れて。その調子で距離を少しづつ近づければ良いよ」


「うん、わかった。ありがとう、俊哉」


電話を切って彩は帰宅した。帰り道で寄ったスーパーの総菜で夕食を済ませて冷蔵庫からビールを取り出した。きっと月曜日は桜井さんの姿が彩の目から変わるに違いない。彩はそれが楽しみでならない。

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