第40話少しの距離

彩はいつもの4人のロッカールームを出た。彩は経理部部員である。経理部は総務部の次に多忙な部署だ。これから年末と、来年度の年度末の多忙さは他の部署の部員からも《不夜城》などと呼ばれている。その経理部でも彩の経理の手腕は他の部員からも好評である。


「桜井さん、おはようございます」


「新田さん、おはようございます」


彩の姓は新田と言う。俊哉の言う通り、まずは挨拶からだ。彩は心の中でガッツポーズをした。


「そうだ、少しづつ、少しづつよ」


彩からは先輩になる桜井だが、先輩ぶる事も無く、仕事も信頼されていて経理部の中心物的存在だ。


「新田さん、昨日渡したデータ、早く仕上げてね」


「もうすぐ出来ます」


「流石、新田さんは頼りになるなあ」


もちろん、桜井さんから振られた仕事は最優先でやっている。彩は時折自動販売機コーナーに行く。さりとて何か飲みたいと言う事ではなく、ただ桜井さんが休憩している時に遭遇したいだけである。そっと覗いた時、桜井さんが居た。自然なフリをして彩は自動販売機に向かう。


「桜井さん、お疲れ様です」


「新田さんもお疲れ様」


自然に桜井の隣に座る。彩から見れば、桜井さんは冴えない部類の人間だ。しかし簿記を満点で合格するなど、経理の手腕は優れている。


「そうだ、新田さん、飲み物おごらせてよ」


桜井さんが財布を出した。彩は自分で出しますから、と言ってもまあまあと桜井さんは小銭を自動販売機の投入口に入れた。


「何を飲む?」


「じゃあミルクティーで」


「俺はカフェオレにしよう」


2人ベンチに座っている。誰も来る気配は無い。


「仕事してると甘い物が欲しくなってさ」


「私もそうです」


他愛もないお喋りで盛り上がった。彩は案外桜井さんは面白い人なんじゃないかと考えた。桜井さんは残りのカフェオレを飲み干して


「さあ、仕事に戻ろうか」


「はい」


2人は職場に戻った。仕事は沢山有る。戻って来た途端に仕事に翻弄ほんろうされる。


「はあ、今日も忙しかった」


ロッカールームにはだれも居ない。時計は午後8時を示している。朝の賑やかさは無い。


「帰りはいつも1人だな」


そう思いながら着替える。こういう時はスーツって良いよね。ロッカーで着替える必要も無いし。彩はシャネルのスーツを持っている。もちろん慶事用だが時折、仕事でも着たくなる。洋服へのこだわりは4人の中でも1番だ。きちんと身なりを整えて会社を出た。その時、桜井さんと鉢合わせになった。


「桜井さん、また夜食ですか」


「うん、小腹が空くからね」


「桜井さん、仕事もほどほどにしておかないと体を壊しますよ」


彩は本気で心配している。


「仕事にモテて仕方が無いんだ」


あはは、と笑って職場に戻って行った。


「桜井さんのバカ」


彩は会社を後にした。


「なるほど、そういう仲なら割とハードルは低そうだけどな」


彩はまた電話で俊哉と話をしている。


「桜井さん、その内過労死するんじゃないかな」


彩がそう言うと、俊哉は


「桜井さん、案外休日はスポーツとかしているんじゃない?だからそれだけ体力有るんじゃない?」


「そうかな?」


「絶対そうだよ。浩一郎さんも異常に体力有るし、桜井さんも何かやっているはずよ。聞いてみたら?」


俊哉は彩にそうアドバイスした。そうすればコミュニケーションのきっかけにもなる。彩は決断が速い。


「明日、聞いてみる」


「行動力あるね」


俊哉は驚いた。


翌日、また自動販売機コーナーを覗いたら桜井さんが居た。彩は手早くジュースを買って自然に桜井さんの隣に座った。


「桜井さんは何かスポーツしているんですか?」


「剣道をしているよ。下手の横好きだけどね」


彩にとって桜井さんとのきっかけを作る大きな前進である。

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